2016年1月11日月曜日

廃車寸前のポンコツ車を乗りこなす法。

 こんどの3月で78歳になる。考えてみればいい歳だ。ひとむかし前なら,立派な老人だ。しかし,最近はみんな元気で老人くさくない。姿勢もいいし,歩き方もいい。わたしも76歳になる直前まではそうだった。老人という意識はまったくなかった。考えたこともなかった。そこに慢心があったか,神の天罰がくだった。
 
 あらためて言うまでもなく,2014年2月2日の吐血・入院,胃ガンの手術。つづけて2015年7月7日の肝臓に転移した癌の切除手術。この2回の手術ですっかり体力を消耗し,単なる痩せ老人と化してしまった。それはそれはみごとなまでの痩せ方である。60㎏あった体重が,いまや50㎏を割っている。一回手術するたびに5㎏ずつ痩せた。術後の回復には筋肉のタンパク質が役に立つそうで,若いときに鍛えたからだがこのとき救いの手を差し伸べてくれた。

 と同時に,からだのあちこちに異変が起きはじめてもいる。それらの異変(病気とまでは言えないからだの変調)となんとか折り合いをつけながら,日々の生活をかろうじて維持している,というのが正直なところだ。言ってしまえば,からだのご機嫌をうかがいながら,だましだまし生きている,という次第。

 わかりやすく言えば,廃車寸前のポンコツ車になってしまった,ということ。あとは,このポンコツ車をいかに上手に乗りこなすか,その方法を工夫するのみだ。しかし,不思議なことに,そうっと上手に乗りこなしてやるとまだまだ機嫌よく元気に走ってくれる。この状態を上手に維持していけば,まだいくらかは走ってくれそうだ。

 でも,基本的にガタがきてしまったからだなので,細心の注意が必要だ。ちょっとでも油断すると,このからだはすぐに弱音を吐く。「イヤイヤ」というサインを送ってくる。もっとも多いのが「食べ過ぎ」。胃腸は頭より賢いというが,いまは実感としてよくわかる。眼はまだ食べていいという。いや,食べたいという。脳に判断してもらうと「もう少しくらいは大丈夫」という。それで食べてしまうと,数分後にはかならず胃腸が文句をいいはじめる。さあ,たいへん。胃腸はオーバー・ワークを断固として拒否するのだ。そして,下痢。だから,こうなったら胃腸のご機嫌をうかがいながら,すべての排便が終わるまで,素直に付き合うしかない。

 アルコールの飲み方はとても上手になった。日常的には「飲みたくない」とからだが言う。だから,飲む気にもならない。しかし,久しぶりに友人などに会うと,ちょっとだけ飲もうか,という気分になる。それでも,すぐにからだが温かくなってくると,もういい,とからだがいう。あとは,ほとほととゆるい酔いが持続する程度にちびりちびり飲む。つまり,会話が楽しく進展する程度に。それでも,うっかり酔いがまわってくると,からだが「もういい」とサインを送ってくる。その声に素直にしたがえるようになったのは進歩だ。からだはじつに正直だ。嘘をつかない。

 たぶん,これが老人のからだなのだろうとおもう。だから,できるだけ術後のからだの異変とは考えないことにしている。そうではなくて,本来の年齢相応のからだになったのだ,と考えることにしている。それ以前があまりの健康体にめぐまれていただけのことだ,と。だから,うっかり自分の年齢を忘れて生きていたにすぎないのだ,と。

 いま,振り返ってみれば,ずいぶんと乱暴なからだの使い方をしてきたものだとおもう。いっときは,からだなどというものは,使っても使ってもへこたれないものだと過信していた。だから,これでもか,これでもかとおもうほどに酷使した時代もあった。それでも平気だった。その延長線のまま76歳の直前まできてしまった。その意味ではなんとありがたいことであったか,といまになって感謝している。

 まもなく78歳になる。週一回の太極拳の稽古が,からだの状態を確認する上でとても大事な機会になっている。とりわけ,脚の筋力は正直だ。一週間の稽古の間に,ほんの少しだけでも脚力が衰えないように刺激を与えてやると,とても調子がいい。しかし,横着をして,なにもしないでいると,とたんにふらふらして乱れがでてくる。脚の筋力は,あっという間に衰えていく。ちょっとやるだけで筋力を維持することはできる。だから,太極拳の稽古は,いまのわたしにとっては脚力の状態を確認するための絶好のバロメーターになっている。

 もっとも自然でいいのが,鷺沼の事務所への出勤(?)だ。パソコンをリュックに入れて背負い,鷺沼往復するだけで,脚力は間違いなく維持できる。のみならず,気分転換にもなって,とてもいい。だから,いまでは,健康法のために,よほど天気が悪くないかぎり,鷺沼に出勤することにしている。

 そこにだれか遊びにきてくれると,もっといいに違いない。しかし,そうは問屋が卸さない。これからは積極的に声をかけて,人と会うように努力しなくてはいけない,と考えている。いまは仕事は二の次だ。それより楽しい会話をして笑う時間を少しでも多くもつことの方がずっと大事だ。

 しかし,この程度のことで,わたしのからだが現状維持できるのであれば,そんなありがたいことはない。これもまた天から与えられた恩寵というものだろう。そう信ずることにしている。その方がからだの調子がいいのだから。

 もう,どう考えたって廃車寸前のポンコツ車であることに間違いはない。上手にご機嫌をうかがいながら,だましだまし乗りこなしていく以外にはない。ところが,である。これがなかなかどうしてたやすいことではない。なにせ,これまでに経験したことのない未知のからだとの会話が必要なのだ。しかも,相手は無理が効かないからだなのだ。これは相当に広範囲なからだに関する知識と,からだから送られてくる微妙なサインを鋭く感じとる感覚の冴えと,そして,それに対応するための高度なテクニックを必要とする。

 こんな風に書くと,なんとまあ大げさな,と笑われるかも知れない。しかし,わたしは本気だ。長年培ってきたからだに関する知識と,自分のからだからのサインを聞き取る感性と,わたしのからだが喜びそうな処方箋,そのすべてを総動員して対処していこう,と。言ってしまえば,生きる力を総動員すること,個人的に蓄積してきたノウハウをフル活用すること。そして,それができるだけ幸せ,ということだ。

 この点,いまの癌に対する医療は脆弱だ。一般的なマニュアルはあっても,個別の,固有のからだに対応できるところまでは触手が伸びてはいない。しかし,からだは個体ごとにできが違う。よほど優れた医師でないかぎり,違う個体に対応する癌治療は不可能に近い。となれば,あとは自助努力しかない。

以上,ポンコツく車と付き合う法の一端まで。

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