2016年1月8日金曜日

但馬国の一の宮・出石神社のフィールドワーク。不思議な境内の雰囲気。

 昨年の12月23日(水)。神戸市外大の集中講義(西谷修)の中間の休日。出石神社のフィールドワークに行ってきました。丹波から出雲に抜ける交通の要所であった但馬の一の宮,それが出石神社です。祭神はアメノヒボコ。水田地帯から山にとりつく小高いところに,閑静なたたずまいをみせていました。

 
 
アメノヒボコは半島からの渡来した神様ですので,神社の由緒を書いた看板にも,日本語とハングル語とが半々になっていました。たぶん,半島からやってくる人も多いのだろう,とその前に立って想像しました。その必要があってのことだ・・・と。

 ということは,この地域に住む人びとにとっては,いまもなお半島との関係は浅からぬものがあるということなのだろうか。あるいは,わたしたちが想像する以上に,もっともっと親近感を抱いている・・・のでは?ともおもいました。この傾向は日本列島の西へ行けば行くほど強いようにおもいます。考えてみれば,明治以後の近代国民国家が誕生するまでは,国境などあってなきがごとき状態がつづいていたのですから,人びとの交流も,ある意味では自由自在であったと言っていいでしょう。そんな名残りを,それとなく感じたことでした。

 
社殿に到達する参道の右側には土俵がありました。砂を盛り上げただけの簡易式の土俵で,雨ざらしのまま崩れかかっていました。大きさからみて,子ども相撲の土俵だろう,と判断しました。むかしは(わたしの子どものころは)神社には土俵があるのがふつうでしたが,いまでは少なくなっています。が,ここではいまも子ども相撲が奉納されていることがわかります。おそらく,年一回,祭礼のときに行われているのでしょう。そういう文化がいまも伝承されていることがわかります。

 
境内の裏側は石垣の上に土塁が積んであって,その内側には堀が巡らされています。ちょっとした城砦のような雰囲気が残っていました。また,石垣のすぐ外側には小さな川が流れていました。よくみると,なかなかきれいな水で,山から流れてくるその水量をみると,かつては生活用水として重要な役割をはたしていたのではないかと,想像してしまいました。

 
社殿の右側はこんもりとした森になっていて,その周りを石柱の囲いがしつらえられていて,「禁足地」という立て札がありました。神社の説明書によれば,アメノヒボコの墳墓と考えられており,いまも大切に保存されている,とか。文字どおり,だれも踏み込めないのか,古木が倒れたまま朽ちている姿がなんともいわくつきの場所であることを示しているようにおもいました。

 
社殿はなかなか大きく立派なものでした。ぐるりと一周してみて,そのどっしりとしたたたずまいに感動しました。なるほど,但馬の国の一の宮の伝統がいまも立派に引き継がれていることがよくわかりました。往時の隆盛ぶりはいかばかりであっただろうか,としばらくの間,あれこれ思いを馳せてしまいました。アメノヒボコがこの地に定住した目的はなんであったのだろうか,などと・・・・。


この社殿を取り囲むようにして小さな祠がいくつも建っていました。右側から順に,天神社,比売社,夢見稲荷社,弁天社,という具合でした。下の写真は,弁天社。規模は小さいながら,なかなかの風情のあるたたずまいでした。

 
天神社といえば,なんといっても菅原道真を思い浮かべます。だとしたら,境内に土俵があって,子ども相撲が奉納されていることも,なんの不思議もありません。

 とまあ,いろいろと想像をふくらませる材料があちこちに散在していることがわかりました。次回は,たしかなインフォーマントを探しておいて,そういう人からじかにお話を聞いてみたいとおもいました。

 なお,わたしが出石神社に行ってきたということを知った柴田晴廣さんから,すぐにメールが入って,つぎのような情報を提供してくれました。

 但馬の国の一の宮もいいが,二宮,三宮はもっともっと刺激的で面白いところだから,ぜひ,そちらにも足を伸ばすべきだ,と。柴田さんの情報によりますと,
 二宮は,栗鹿明神。サホ彦に連なる日下部氏に関連する神社であること,
 三宮は,養父神社。タンバミチヌシ王が祭神。
 ということです。

 となりますと,但馬の国というロケーションがただならぬところであったことが透けてみえてきます。こうと知った以上は,もう少ししっかりと予習をしておいてから,再度,尋ねてみたいと夢をふくらませているところです。
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