2016年1月18日月曜日

8日目,全勝で折り返した琴奨菊。絶好調。

 久しぶりに強い琴奨菊がもどってきました。まさに大関に昇進するころの馬力相撲の再来です。怪我に苦しんできましたが,なんとかそこを通過して,展望が開けてきました。よく我慢し,努力してきたなぁ,と褒めてあげたいところです。その姿勢にこころからの敬意を表したいとおもいます。そして,さあ,これからだ,と激励のことばをかけてあげたい。

 今場所のよさは,低い立ち合いからの出足にあることは間違いありませんが,それに加えて右おっつけが効いている,とわたしはみました。とりわけ,昨日(17日)の対稀勢の里戦の相撲がよかった。左差し,右おっつけ。今場所,この型がきちんとできています。脚(膝)の状態もいいようで,両足ではね上げるようながぶり寄りも,相手にとっては驚異となっています。さて,この取り口が後半戦,とりわけ,終盤の5日間で,横綱にどこまで通用するか,いまから楽しみです。

 頑張れ,琴奨菊!

 それに引き換え,同じ全勝で8日目を折り返した白鵬のマナーの悪さが,わたしの眼に焼きついていて離れません。嘉風が土俵を割って勝負がついた瞬間,力を抜いた嘉風を土俵下に投げ捨ててしまいました。なにか,怨みでもあるかのように。しかも,どうだ,という顔までして。すでに,放送時間の午後6時を過ぎていましたので,アナウンサーはすぐに全体の勝負結果だけを整理して,ばたばたと慌ただしく放送は終わってしまいました。もちろん,このことについてはなにも触れることもなく・・・。

 今日の新聞がどのように書くか,と注目していました。わたしとしては大問題だからです。横綱ともあろう者が。人間として,どこか欠けている。勝てばいいという問題ではなかろうに。頭に血がのぼっていました。しかし,案の定,東京新聞は一言も触れてはいませんでした。たぶん,他紙も同じでしょう。昨夜のNHKのサンデー・スポーツも,解説の北の富士が生出演していましたが,この問題はスルー。

 少なくとも,日本相撲協会として,あるいは,理事長として,はたまた,横綱審議委員会として,あるいはまた,競技審判長として,厳重注意くらいはあってしかるべき「事件」だったはず・・・・。しかし,なにごともなかったかのように「みてみぬふり」を貫いています。ジャーナリズムもまた,右へならへ。

 この無責任時代の,もっとも悪しき慣習がとうとう大相撲の世界にまで浸透してしまったか,と臍を噛む思いです。大相撲は勝てばいい,それが「すべてだ」,ということが無意識のうちに蔓延していきます。そうではないでしょう。これまで「横綱相撲とは」とか,「横綱の品格が」とか,何回も話題にしてきたのに,なぜ,急に,今回はスルーなのか。

 日馬富士は,横綱に昇進したときのインタヴューに答えて,勝つことよりも人間として正しい生き方をしたい,と応じている。このことばを聞いたとき,わたしはひとり涙した。なんという人間なのか,と。横綱に昇進した絶頂期に,「人間として正しい生き方をしたい」と発言できる,この日馬富士という人はいったいどういう人物なのだろうか,とにわかに意識するようになりました。

 白鵬からは,これに類するようなことばは寡聞にしてまだ聞いたことがありません。土俵の上でも,日馬富士の所作とはまるで違います。日馬富士は,まったく逆に,勝負がついて土俵に落ちそうになっている相手を両手で抱き抱えるようにして守ってやっている。それでも間に合わなかったときには,抱き抱えたまま一緒に土俵下まで落ちています。そして,あくまでも安全を確保しています。これは,とても,いい光景です

 大相撲をこよなく愛するファンのひとりとして,白鵬のこのマナーの悪さは許せません。しかも,今回だけではありません。これまでも何回も同じことをやってきています。余罪が山ほどあるのです。言ってしまえば,常習犯です。優勝回数だけを数え,絶賛する,マスコミがいうところの大横綱,白鵬をどうしても好きになれない理由はここにあります。この人には,こころの奥底になにか満たされないなにかがある,そのこころの貧しさのようなものが,勝負にこだわり興奮した頂点で抑えがたく表出してしまうのだろうか,とこれはわたしの邪推です。でも,半分以上,信じてもいます。

 勝てばいい,のではなく,勝っても負けても「いい相撲だった」という相撲がみたい,これはわたし一人だけの願望なのでしょうか。

 この問題は,わたしのこころの中で尾を引きそうだ。じっくりと考えてみたい。

 それとは別に,琴奨菊,頑張れ!とこころからのエールを送ります。
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