2015年11月19日木曜日

「空腹」のすすめ。免疫力を高めるために。

 「癌」という字をよく見れば,「病だれ」に「品物」の「山」。
 つまり──食品を,山ほど食べれば,癌になる──という戒めなのです。

 『かんたん「一日一食」!!』(船瀬俊介著,講談社文庫,2015年8月初版)のP.306.からの引用です。散歩がてらの書店でみかけ,タイトルをみて,この本大丈夫かな,と首をかしげながら中味を拾い読み。やはり怪しいなぁとおもいながら第4章もめくってみる。ここから一気に正攻法。それまでは,もっぱら「体験談」で,いわゆる「ツカミ」の部分。しかし,第4章には,わたしをこころの底から納得させる理論が展開されていました。即,購入。

 「腹八分で医者いらず」
 「腹六分で老いを忘れる」
 「腹四分で神に近づく」
 (P.25.)

 むかしから言われてきた俚言です。科学とは無縁の「経験知」が生みだした智恵の産物です。このむかしの人の智恵が,最近の科学によって立証されるようになってきました。しかし,近代医学(西洋医学)と近代栄養学は,人間機械論の立場に立っていますので,むかしの人の智恵とはま逆の考え方をしています。すなわち,粗食ではなく,栄養価の高いものを,バランスよく,カロリーを計算して,一日3回食べなさい,というわけです。

 その結果は言うまでもなく「過食・運動不足」による肥満の大量生産です。要するに,からだが必要としない余分な栄養分も取り込み,それらが消費されることなくどんどん体内に蓄えられていくというわけです。この過剰な栄養が,じつは,からだには「毒」となり,病気の誘因になっている,と著者の船瀬氏は力説します。だから,減食をして,「空腹」を楽しむようにすれば,余分な栄養である「体毒」は燃焼したり,体外に排出されたりして,健康体をとりもどす,と。のみならず,「空腹」が免疫力を高めるので,悪い病気にとりつかれることも激減する,と説きます。

  この理論的根拠が,第4章にこってりと書き込まれています。そのごく基本的な考え方について述べておきますと,以下のとおりです。

 人間には,もともと「ホメオスターシス」(恒常性維持)という機能がからだに備わっている。からだをつねに一定の状態に保つはたらきのこと。たとえば,体温調節はその代表的なものの一つ。暑いときには汗をかいて体温を放出する,寒いときには身震いして熱を産出し体温を保つ,というわけです。これらは,自分の意思とはなんの関係もなく,からだのなかに備えられたホメオスターシスという仕組みが,自然にはたらくというわけです。このような仕組みが神経系(交感神経と副交感神経)やホルモン系(アドレナリン,インシュリン)をはじめ,からだを一定の状態に保つために,じつに巧妙に張りめぐらされています。

 このホメオスターシスのはたらきこそが,世間でいうところの免疫力であり,自然治癒力というわけです。しかも,このホメオスターシスをフル回転させ,万全の体勢を整えるためのウォーミング・アップが「空腹」状態だ,というのです。つまり,空腹はからだに「生体危急反応」を起こさせ,からだによくない危急状態に備えるのだ,というのです。もし,骨折したり,下痢をしたりしたときには,まずは断食をすることが一番なのだ,と。断食をすることによって,自然治癒力がフル回転し,骨折も下痢も自力で治してしまう,というわけです。

 まさか,骨折は断食とは関係ないだろう,と多くの人は考えます。しかし,シートンの『動物記』に,しばしば登場する狼は,骨折すると穴を掘ってその中にからだを隠し,骨折した前足を入口のところに出して砂をかけて一週間から10日ほど飲まず食わずでじっとしています。そとに出した前足の砂は雨に濡れて固くなり,ギブスの役割もはたしている,といいます。これだけで,狼は骨折が治るまでじっと断食をして待つ,という次第です。

 下痢の場合は,食べないでおくことが一番だ,ということは説明する必要はないでしょう。ことほど左様に内臓疾患の場合には,薬よりなにより,断食が一番だ,と船瀬氏は力説します。しかし,医者にかかると薬を与えられ,それを飲みます。すると,折角の持ち合わせの自然治癒力を発動させる機会を失い,ますます免疫力は低下していく,というわけです。

 そのもっとも典型的な事例が「風邪」です。市販薬がたくさん出回っていますので,自分で適当に薬を買ってきて飲用することは,もはや当たり前のようになっています。しかし,風邪もまた断食をして,自力で治すのが一番。そうすれば,免疫力が高まり,風邪が大流行しても,ひとり超然としていられるというわけです。

 この本は,基本的には,ファスティング(断食,減食,小食,など)によってデトックス(体毒の排出)し,「自己浄化」をめざすことを,微に入り細にわたり,ていねいに説いています。そして,どのような段階を踏んで,一日一食に到達するかを説いています。いきなり断食をしたり,小食にしたりするのではなく,自分のからだの声に耳を傾けながら,「空腹」を楽しめ,と説いています。このあたりのこともふくめて,わたしにはとても納得のいく一冊でした。

 ので,早速,手短にできるところからはじめることにしました。まずは,「空腹」を楽しむことから。つまり,一日に一回は「空腹」の時間をセットして,空腹を感じながら,「いいぞ,いいぞ」と声をかけ,「いま,ホメオスターシスにスイッチが入ったぞ」「さあ,来いっ!」と自作自演の演出を楽しんでいます。何カ月後には,たぶん,一日一食に到達することができるな,という確信のようなものも,いつのまにか芽生えてきています。

 「癌」という文字を筆で書いて飾り,「山のように食べてはいけない。病気になるぞ!」と言い聞かせながら・・・・。

2015年11月18日水曜日

パリ燃ゆ。後方支援の根っこが攻撃されたということ。いまや,戦場にならないところはない。

 こころを鬼にして,あえて書くことにしよう。

 マス・メディアをはじめ,世は挙げて「パリ市民の犠牲者に哀悼の意を表します」の一色のみ。それ以外の意見はすべて闇の中。ネットで,乙武さんのように勇気ある発言をすると,寄ってたかって「袋叩き」。議論すら許さない。

 この国の「一億総狂気化社会」はすでに完成している,としかいいようがない。
 同じように「国際社会」(このことばそのものがうさんくさいが)も,完全に「狂気」と化している。

 「9・11」のときもそうだったが,相手側からの攻撃を受けたところから,すべての物語がつくられていく。今回もまた同様。パリ市民が攻撃されたというこの一点から,今回の物語がつぎつぎにつくられている。欠落しているのは,なぜ,このような事態が生じてしまうのか,という問いだ。

 この問いには,完全なる蓋をしなければならない,大きな理由がある。

 「9・11」も,今回の「パリ燃ゆ」も,もとを糺せばアメリカが育てた武装集団による攻撃であるからだ。当初は,アメリカが武器も資金も与え,アメリカの役に立つ武装集団として育てあげたものだ。そして,アメリカのために大きな貢献をしたにもかかわらず,最後は,うっとうしくなってきて,なんの報償も与えることなく見捨ててしまった。武装集団の怒りの減点はここにある。以後,アメリカに対して徹底抗戦にでる。となると,こんどはアメリカの攻撃の対象にされる。しかも,圧倒的な武力の差のもとで一方的な空爆に曝され,一般市民をも巻き添えにした「無差別大量殺戮」の犠牲が日常化することになった。

 ことの経緯や詳しいことは,志葉玲(フリージャーナリスト・「イラク戦争の検証を求めるネットワーク」事務局長)氏,安田純平(フリージャーナリスト)氏,伊藤和子(弁護士・国際人権NGOヒューマンライツ・ナウ事務局長)氏,らのネットで展開しているFBやブログで確認されたい。

 たとえば,志葉氏はつぎのように訴えている。

 「不平等がテロを生む」
 どこかの国は人を殺してもいいのに,
 どこかの国が人を殺すとテロと言われる。
 この不平等がテロを生む大きなファクターになっている。
 どこの国だろうと国際法違反の犯罪を許さないということが必要だ。

 ここで言う「国際法違反の犯罪」を犯しているのは,アメリカを筆頭とする「有志国」であり,テロ集団だ。しかも,その犯罪の大きさは圧倒的に「有志国」である。この事実に蓋をし,無視する「国際社会」とはなにか。そして,自分たちは間違っていないとし,「正義」を主張してさえいる。こうなってくると,もはや,「狂っている」としかいいようがない。

 また,伊藤和子氏はつぎのように訴えている。

 アメリカやフランスの残虐さを棚に上げて「イスラム国」を邪悪だと言う。
 どれだけイラク戦争や空爆で市民が殺されたか。
 イラク政府による人権侵害について誰も何も言わない。
 国際社会を構成している大国は見て見ぬふりだ。
 人権侵害が追及されない。
 イスラエルの責任は追及されない。
 「イスラム国」だけが邪悪なのか。

 カナダは,ついに,「対ISの空爆」から離脱することを発表。
 この勇気ある決意に賛同する国家が陸続と現れてほしい。

 日本国は,アメリカ様・フランス様の主張を全面的に支持し,これからも全力で「協力」する,と声高らかに宣言した。これで,一気に,東京が「戦場」と化す可能性が高まった。後方支援の根っこを絶つ,ということはこういうことだ。

 国際法違反の犯罪を犯している「有志国」とそれを支援する国家は,もはや,戦場にならないところはない。いつ,なんどき,どこを攻撃されても文句は言えない。いまや,日本国民全員が,国際法違反の犯罪者の片棒をかついでいるのだから・・・・。

 この自覚・認識なくして,ただひたすら「パリ市民の犠牲者にこころから哀悼の意を表します」などと,のうのうと言える圧倒的多数の日本人(もちろん,「国際社会」も)は,もはや「正気の沙汰」とはいえない。

 この「狂気」が「ファシズム」を生んできた。過去の歴史を学ぶべし。

 いま,わたしたちはこういう時代・社会を生かされている,このことを肝に銘ずべし。

 東京が戦場になる。その日は遠くない。

 いたるところを赤・白・青の三色でライトアップしている無邪気な人たちに,その覚悟があるとはとてもおもえないのだが・・・・・。

2015年11月17日火曜日

「赤い実のなる木」はアメリカハナミズキだということがわかりました。

 10月25日のブログに「赤い実のなる木」の写真を載せ,この木がなんの木なのか教えてほしい,と書きました。が,だれからも応答がないまま日が過ぎていました。

 11月14日(土)に法事があって帰省し,久しぶりに親戚の人たちと顔を合わせました。その中の一人に従兄弟で植物に精通しているY君がいて,「赤い実のなる木の名前,わかったかん?」という。「いや,わからん」とわたし。「たぶん,ありゃあ,アメリカハナミズキだとおもうだがのん」という。「えっ?どうして?」とわたし。そこから,Y君の植栽に関する蘊蓄話がひとしきりつづきました。お蔭さまで,植物のことに疎いわたしにはとてもいい勉強になりました。

 Y君は,大学で生物を専攻した専門家です。自宅の庭にもさまざまな花や実をつける花卉を植えて,丹念に手入れをしてきたベテランです。中学校の校長を最後にリタイアし,いまは大好きな植栽と農作業を楽しみながら悠々自適の生活を送っています。羨ましいかぎりの人生です。わたしとは6歳ほど(?)年齢は離れていますが,子どものころから親戚のなかでは一番親しくさせてもらっている従兄弟です。

 もう少しだけ補足しておきますと,わたしが尊敬してやまない大伯父(一道和尚)の長男です。一道和尚のことについては,このブログでも何回も書いてきていますので,ご記憶の方も少なくないとおもいます。Y君は,大学受験のときに,英文学に進むか,生物学をやるか,大いに考えた末に生物学を選び,教職の道に進む決意をしました。以後,教員生活をまっとうし,3人の子どもさんを立派に育て,こんにちにいたっています。穏やかな性格の好漢です。

 さて,そのY君の蘊蓄をここに全部書くことはとても不可能ですので,最小必要限度にとどめておきたいとおもいます。

 「あの写真をみて,これはアメリカハナミズキに違いない」とおもったという。そして「あれだけの赤い実をみごとにつけているのをみると,相当の腕前の人が世話をしているなぁ」とおもった,と。「そう,あの木は植木屋さんの屋敷のなかにたくさん植えてある売り物の木の一本だから」とわたし。「ああ,そうだらぁのん。素人ではあれだけの赤い実をつけることはほとんどできんでのん」という。「どうして?」とわたし。ここから話は一気に面白くなりました。

 日本にむかしからあるハナミズキは,花弁の色(白,ピンクがほとんど)を楽しむだけの,どちらかといえば地味な木でしたが,アメリカからハナミズキの木がプレゼントされてから様子が一変しました。アメリカのハナミズキは,春の葉っぱのみずみずしさや初夏の花弁だけではなく,紅葉すると真っ赤になり,しかも落葉したあとに赤い実を残す木で,四季折々に楽しめる木としてアメリカではとても大切にされてきました。ですから,アメリカ人にとっては意味のある重要な木なのです。

 このハナミズキが日本にプレゼントされた背景にはこんな話があります。最初に,日本から吉野桜がワシントンに送られ,満開の花を咲かせ,多くのアメリカ人が感動しました。アメリカ人が,その返礼として選んだのが,このハナミズキだったのです。

 ところが,アメリカ育ちのハナミズキは日本の土壌とはなかなかうまく合わず,背丈だけは大きく育ちましたが,赤い実をつけるのは至難の技でした。そこで,いろいろと創意工夫をした結果,肥やしをやるタイミング,水を与えないでいじめるタイミング,土壌の管理,根切りの技術とタイミング,等々が必要だということがわかってきました。しかし,それをマスターしている人はほとんどいません。ですから,ほとんどのハナミズキは背丈だけが大きく伸びて,みずみずしい葉を生い茂らせるだけの木になっています。ましてや,赤い実をつけるように手入れするのはたいへんなことなのです。

 という話を,寺での法事を終えて会食するために移動中のバスの中で聞きました。そして,料理屋さんに到着すると,その入口の横にアメリカハナミズキがあるのを目ざとくみつけたY君が「この木だらぁ」という。「そうそう」とわたし。赤い葉っぱを少しだけ残していて,2,3個の赤い実がついていました。まぎれもなく,わたしが目にした「赤い実のなる木」でした。これで,完全にわたしの疑問は晴れました。Y君にこころから感謝です。

 もう一度,植木屋さんのアメリカハナミズキをじっくりと鑑賞してみようとおもいます。来年の春から,このアメリカハナミズキがどのように変化していくか,楽しみが増えました。

2015年11月16日月曜日

これは新しい「戦争」のはじまりだ。テロも空爆も殺人行為。そこに「正義」はない。

 「無辜のパリ市民を無差別に殺すなんて・・・」とパリ市民は怒っている,と新聞が書いている。ほんとうにそうだろうか,とわたしは首をひねる。ほんとうに怒る資格があるのだろうか,とわたし。フランスがシリア(IS) の空爆に軍隊を送り出しているのは,パリ市民のみなさん,あなたがたなんですよ。その空軍が「無辜のシリア市民を無差別に,しかも<超大量に>殺戮している」という事実はご存じですよね。しかも,ときには「誤爆」までして・・・・。その責任は,パリ市民のみなさんにあるのですよ。

 こんな風に書き出すつもりはなかった。なのに,いつのまにか指が勝手に動いている。不思議だ。どうやら,わたしは,いま,本気で「恐怖」におののいているらしい。なぜなら,いずれ,近い将来,東京でも同じことが起きる,と痛切に感ずるからだ。つまり,わたしたちは「集団的自衛権」の行使容認を止めることができなかったからだ。このままでは,アベ総理は間違いなく自衛隊を海外に派遣し,戦闘に参加させることになるだろう。それが日々,現実味を帯びてきている。だから,わたしは「恐怖」におののいている。

 そうなれば,こんどは東京がIS の攻撃のターゲットになる。そのことは間違いない。しかも,絶好のターゲットになる。そのときに,「無辜の東京都民を無差別に殺すなんて・・・」と言えるだろうか。言う資格があるだろうか。ない。いや,あるもないもない。なぜ? それはまったく新しい「戦争」のはじまりだから。戦争による殺人行為は犯罪ではなく,当たり前のことだから。

 もし,かりに,日本の自衛隊の活動が後方支援に限定されたとしても,その先端では空爆による大量無差別殺戮が行われ,「無辜のシラク市民が無差別に」殺されているという現実に変わりはない。となれば, IS からすれば,後方支援であろうがなかろうが,戦争に加担するかぎりすべて「敵」であることに変わりはない。しかも,後方支援を絶つ,のは戦略の大原則だ。ここを叩かないことには勝ち目はない。だから,前線よりも後方支援の方がより危険度は高いとさえ言われている。

 第一,東京が IS の絶好のターゲットになる理由は多すぎる。一つには,東京は丸腰の無防備に等しい,ガードの甘い都市だということ。二つには,東京五輪2020が控えていること。つまり,世界の注目を集めやすいということ。三つには,多くの外国人観光客がやってくること。四つには,すぐ近くに原発があること。あるいは,日本全国に原発があること。ここがテロのターゲットになったら,終わりだ。五つには,地下鉄,高速道路,新幹線といった交通網はスキだらけであること。というより安全確保はほとんど不可能に近いということ。六つには,日本人IS 要員は少なくないこと。等々,数え上げていけば際限がない。

 つまり,明日は我が身だ。そのことを考えるから,わたしはパリ市民の反応,そして,国際社会(これが問題だが)の反応に,それも「衝撃的だ」という反応に,首をかしげてしまう。もちろん,日本のマスメディアの報道の仕方にも。

 わたしたちは,無差別空爆の下で,どれだけ多くの無辜のシリア市民が犠牲になっているか,この目で確認することができないだけだ。SNS で映像を確認しようとしても,例外的に市民が逃げまどっている映像がほんのわずかに確認できるだけだ。大半は闇のなかだ。そして,マス・メディアが報じている映像は,爆弾が投下される場面と,それが命中したかどうか,という映像しか目にすることはできない。つまり,そこで犠牲になっている「人間」の姿を確認することはできない。

 だから,シリアでどれだけ多くの人びとの命が犠牲になっているのか,それもじつに無惨に殺されているか,という事実を「視覚的に」とらえることはできない。その結果,なにごともなかったかのように錯覚をしてしまう。空爆の下でどのようなことが起きているのかという想像力すら失っている。つまり,感性が欠落したままなのだ。

 ひるがえって,ある日,突然,パリ市民が攻撃を受け,目の前で犠牲になっていく人びとの姿を見て,そのあまりの残虐性に驚き,怒りをあらわにする。自分たちの犠牲には過敏なほどに反応するが,シリアの市民の犠牲にはほとんど無感覚なままである。しかも,その空爆は,自分たちの「意思」で行われていることも忘れて・・・・・。

 要するに,テロも空爆も立派な「殺人行為」なのだ。そして,それぞれの立場で,その殺人行為を正当化している。しかし,殺人行為に「正義」はない。だから,これは新しい「戦争」のはじまりなのだ。「テロとの戦争」とはこういうことなのだ。自分たちが攻撃しているときは当たり前のような顔をしていて,いざ,こちらが攻撃されると大騒ぎをする。「9・11」も同じだ。

 もう一度,言っておこう。戦争に「正義」は存在しない。あるとしたら,両方にある。だから,殺人行為が繰り返される。ただ,それだけだ。

 今日はここまでで留め置くことにする。この問題は,書かなくてはならないことが多すぎる。

 でも,ひとつだけ書いておこう。わたしたちは戦争に加担してはならない,ということ。つまり,集団的自衛権の行使は阻止すること。そして,積極的に「不戦」を誓うこと。そのためにこそ「憲法9条」がある。それを守ることこそが「人間の尊厳」を守るということだ。このことだけは肝に銘じておきたい。

〔付録〕
IS を生み,育てたのはだれか。それが,なぜ,反逆行為をはじめることになったのか。
IS を支援している「死の商人」たちがいる。それはだれか。そして,なぜ?
この問いを解いていくと,とんでもない世界が忽然とその姿を現すことになる。いずれまた。

2015年11月15日日曜日

「おじ」「おば」ということばが消える。中国一人っ子政策の意外な側面。

 中国がついに二人まで子供を持つことを認める政策に切り換えました。

 毛沢東革命以後,中国は長い間,一人っ子政策が実施されてきました。いくらかの例外措置はありましたが,原則的には一人以上の子供を生んではならない,とされてきました。

 当初は,食料事情(需給のバランス)という大きな壁がありました。これ以上,人口が増え続けると国が成り立たなくなるという大問題をかかえていましたので,やむを得ない,ということで実施に踏み切ったようです。しかし,経済復興もはたしたいまとなっては,もはや,一人っ子政策を維持していく根拠もなくなってきました。それどころか,一人っ子政策ゆえの新たな問題もつぎつぎにでてきました。

 その最大の問題は労働力でした。中国では夫婦共稼ぎは当たり前。そうしないことには中国経済を支え,さらなる発展をめざすことは不可能でした。その目的もはたして,静かに振り返ってみますと,いろいろの新たな問題点が露呈していることに気づいたようです。

 そのうちのひとつが「伯父・叔父」「伯母・叔母」ということばが消えてしまうという珍現象でした。これは,たぶん,当初は想定していなかった事態ではないかとおもいます。

 一人っ子政策の二代目の子どもたちになると,両親ともに一人っ子ですので,「伯父・叔父」「伯母・叔母」は存在しません。ということは,日常会話のなかからこのことばは使われなくなってしまいます。使わないことばは子どもたちは覚えません。ということは,二代目の子どもたちの間からはこれらのことばが消えてなくなってしまうことを意味します。

 この問題は,「おじ」「おば」だけでは終わりません。「おじ」「おば」がいないということは「いとこ」もいないということになります。だとすれば,将来的には,「おい」「めい」もいなくなってしまいます。

 ここまで考えてみますと,なんだか薄ら寒い風が吹いてきます。つまり,親戚・親類・親族がみるまにやせ細ってしまって,両親と祖父母以外は血縁関係者はだれもいないという事態が起きているということですから。中国の一人っ子は,なんと孤独なことなんだろう,と考えてしまいます。

 のみならず,言語文化そのものもやせ細っていくことを意味します。まず第一に,「家族」ということばの概念そのものが変質してしまいます。つまり,「家族」ということばの内実がまるで別のものになってしまいます。二代目の一人っ子になりますと,たったひとりで両親と両親の両親(つまり,祖父母),計6人の老後を背負うことになります。この二代目の一人っ子が結婚をしますと計12人もの老人が後に控えていることになります。まあ,祖父母はともかくとして,両方の両親計4人の老後は間違いなく二人にのしかかってきます。これが「家族」ということばの内実となり,そこには厳しい現実が待っています。

 これまでの「家族」は,親・兄弟・姉妹,みんなで力を合わせて仲良く暮らすというのがスタンダードでした。しかし,二代目の一人っ子はそうではありません。なにごとも,たった独りでものごとに対応していかなくてはならないわけです。

 で,気づいてみれば,「おじ・おば」「いとこ」「おい・めい」ということばが自分の周辺からは消えてしまいます。この問題の根は深いとおもいます。もっと視点を変えて,さまざまな角度から分析してみると,思いがけない重大なことが明らかになってくるのではないかとおもいます。今回は問題点の指摘だけに留め置きます。

 なぜ,こんなことを書いたのかといいますと,そのきっかけは中国が一人っ子政策を放棄した,という情報が流れたことにありました。たまたま,日本に長く住んでいる中国人の友人と久しぶりに一献傾ける機会がありました。そのときの話題のひとつがこれでした。わたしはそんなこと考えたこともありませんでした。しかし,その中国人の友人が「中国では『おじ・おば』ということばが消え始めている」という話をしてくれて,びっくり仰天でした。「なるほど」と応じただけで,しばらくはことばを失っていました。

 中国が一人っ子政策を放棄した背景には,きわめて複雑で,しかも重大な問題がもっともっと存在しているようです。いずれ,専門家の研究がでてくるとおもいますので,その成果を待ちたいとおもいます。とりあえずは,意外な話題の提供まで。

 なお,出生率が1.5を割ってしまい,一人っ子が教室の半分以上を占めるようになった,わが日本国も他山の火事では済まされない問題であることも指摘しておきたいとおもいます。こちらは出産を推奨しても増えないというのですから,問題はさらに深刻だと言わなければならないでしょう。

2015年11月14日土曜日

「一億総狂気化社会」。ひらめいた瞬間,「からだがふるえる」。

 一昨日のブログの最後のところで,勢い余って「一億総狂気化社会」ということばが閃きました。が,その瞬間,戦慄が走りました。こんなことばが閃いたのも,なにを隠そう,「一億総活躍社会」などという絵空事を大まじめに政権構想にかかげる総理大臣のうさん臭さが,もはや我慢できなくなってきていたからです。わたしたちの世代であれば,まっさきに思い出すのは第二次世界大戦中のことば「一億火の玉」です。国民全員が「火の玉」となって,鬼畜米英を打ち倒す・・・・これが国是として掲げられたのです。そして,このことばに真っ向から異を唱える人間はだれもいませんでした。もちろん,異を唱えることはだれもできなかった,というのが実情だったのでしょう。

 しかし,もう一歩踏み込んでおけば,「一億火の玉」といわれて,どこか変だなぁとおもいつつ「だんまり」を決め込んでいた,というのがより事実に近かったのではないか,とわたしは考えています。だれだって,変なことは変だ,と気づくはずです。しかし,それを口にすることが憚られる,そんな空気の前に,みんな跪いてしまったというのが,より事実に近かったのではないでしょうか。そうこうしているうちに「自発的隷従」に走る人間が登場し,組織化され(「向こう三軒両隣」),もはや動かしがたい力となって人々の言動を拘束することになっていったのでしょう。

 ああ,「一億総活躍社会」とは,「一億火の玉」と同根ではないか,そして,これこそがまさに「一億総狂気化社会」と同義ではないか,と閃いたという次第です。

 「一億総活躍社会」とは,そのための「助走」にすぎません。すぐに脳裏に浮かぶことは,集団的自衛権を行使して自衛隊員が海外の戦場に派遣されることになれば,当然のことながら自衛隊員が大量に必要とされるようになります。人員をどこから確保するのか。まずは,失業中の若者に動員がかかります。なぜなら,「一億総活躍社会」の一員として,国家の急務に貢献するのは当たり前であって,なにをうろうろと働きもせずに無駄な日を過ごしているのか,それは「国賊」のすることだ,というようなことにいともかんたんになりかねないからです。

 そのためのお膳立てが,この「一億総活躍社会」というスローガンには見え隠れしているようにわたしにはみえてしまいます。だから,このスローガンこそ「一億総狂気化社会」へと突入していくための入口ではないか・・・・と。

 「一億総狂気化社会」を生みだすきっかけは,きわめて単純なものです。それは「命」の軽視です。いまや,だれもが,口先では「命」が大事といいますが,やっていることは「命」の軽視です。それがもっとも顕著に現れているのが原発の再稼働です。一度,壊れてしまったら多くの人々の命を犠牲にしなくてはならない恐るべき文明の利器であることは,フクシマでしっかりと学んだはずです。にもかかわらず,性懲りもなく原発再稼働に向けて国を挙げて一目散です。

 政権にとって重要なのは,命よりも経済(金)なのです。それも目先の経済(金)です。ですから,総理大臣が率先して,原発を外国にも売りに歩いています。事故があったら日本が全責任をもつ,とまで約束して・・・。まさに,日本の総理大臣は「死の商人」と化してしまいました。これを,政府与党の議員のだれも止めようとはしません。

 「狂気」と化したのは総理大臣だけではありません。政府与党の議員,全員が「狂気」と化してしまっているのです。そこから繰り出される政治スローガンのひとつが「一億総活躍社会」という発想です。この人たちに共通していることは,「命」の軽視です。だから,自衛隊員が海外の戦闘に巻き込まれて犠牲になることも辞さない。それよりも「集団的自衛権」の行使容認の方が大事なのです。なぜ? 強い日本国を復活させるために。

 その強い日本国の復活をめざしている母体こそが「日本会議」という妖怪・化け物です。この組織が徐々にその姿をさらけ出すようになってきました。こうなってきますと,「一億火の玉」はもうすぐそこです。戦争は,一触即発ではじまります。はじまったら,もはや止めようがありません。なぜ?戦争こそ,一瞬にして「一億総狂気化社会」を形成する特効薬なのですから。「一億総活躍社会」の究極の姿が戦時体制そのものなのですから。

 「命」の軽視が人を狂気と化すための前提条件であることは,一昨日のブログに書いたドイツの精神科医たちが始めた「T4」作戦という大量殺戮が,なによりの証拠です。狂気に知性はなんの役にも立たないということの証拠でもあります。狂気の歯止めとなる最大の武器は,情緒豊かな感性です。人の「命」をなによりも優先させなくてはならないとする感性です。もっと言ってしまえば,生きものとしての動物的「本能」です。すなわち,「動物性」。

 その対極にある「人間性」は,いざとなれば「命」を軽視して平然としていられます。しかし,「動物性」は,どこまでも「生きる」ことが最優先されます。自己の「命」が大切であると同様に他者の「命」もまた大切なものであることを知っています。同種の動物間での死闘は,例外を除いて,滅多にみられないのがそのなによりもの証拠です。

 結論。「一億総狂気化社会」に歯止めをかけるのは「動物性」(動物的感性)。「一億総活躍社会」の行き着くゴールは「戦争」。以上。

※文章,いささか乱調。お許しのほどを。

2015年11月13日金曜日

「相撲は馬力です」。もどってきた尾車親方の名解説と嘉風。

 今場所は,横綱・大関などの上位陣が全員勢ぞろいしました。とても充実した取組が展開していて,楽しみな場所となりました。やはり,横綱が全員顔をそろえ,大関陣が元気な場所は,いやでも盛り上がってきます。こうなると幕内下位の力士たちも,いつもにもまして気合が入るようです。テレビ観戦をしていて,そのことをしみじみ感じます。

 今日(12日)で5日間の取組が終わり,序盤戦が終了。早くも明暗を分ける力士が登場し,これからの中盤から終盤に向けての予測をする上での重要な手がかりを与えてくれています。そんな中で,先場所から絶好調をつづけている嘉風に注目してみたいとおもいます。

 初日・鶴竜,二日目・稀勢の里とつづけて横綱・大関に土をつけ,三日目は大関・琴奨菊が対戦相手でした。そして,この日の解説が尾車親方(元大関・琴風)。しかも,尾車親方は嘉風の師匠。この相撲は立ち合いひとつで流れが決まる,とわたしなりに予測をしていました。そして,お互いに間合いをとって,混戦に持ち込めば嘉風,抱え込んでしまえば琴奨菊,と。はたしてこの一番,どういう展開になるのかとわたしは大いに注目していました。

 が,結果は予想に反してあっけなく勝負がついてしまいました。琴奨菊の立ち合いから一気のがぶり寄りで,一方的な勝負になってしまいました。好調を維持していた嘉風はなにひとつできないまま土俵下まで吹っ飛ばされてしまいました。まさに,琴奨菊の圧勝でした。

 嘉風を贔屓にしているわたしの目には,立ち合いの失敗,つまり,立ち遅れたようにみえました。ですから,琴奨菊の圧力をもろに受けることになり,嘉風は腰砕けのような格好で土俵下まで飛ばされてしまいました。それだけに,琴奨菊の立ち合いの鋭さ,前に出る圧力の凄さ,なりふり構わずがぶり寄る馬力の底力,そういったことばかりが目立ちました。みごとな大関相撲でした。

 この相撲の感想をアナウンサーから問われた尾車親方は,一刀両断のもとに「相撲は馬力です」と言い切りました。「いろいろの小技も大事ですが,基本は馬力です」,と。このひとことで,わたしはすべてを納得してしまいました。なるほど,馬力の前にはどんなに技をもってしても,なすすべもなく吹っ飛ばされてしまう,というわけです。

 もちろん,尾車親方はアナウンサーに問われるままに,さらに,きめ細かな解説をしていきます。それは聞いていて心地よいものでした。

 強い琴奨菊がもどってきましたねぇ。大関に駆け上がってきたころの琴奨菊を彷彿とさせますねぇ。この調子を持続させていくと,後半戦が楽しみですねぇ。ひと波瀾もふた波瀾も起きる可能性がでてきましたねぇ。ご当地場所だけに盛り上がるんじゃあないてすか。強い大関が復活してくると,他の大関にも大いに刺激となるでしょうし,横綱もうかうかしてられませんからねぇ。

 嘉風も悪くなかったですよ。ただ今場所は,絶好調の琴奨菊の立ち合いの圧力に圧倒されてしまいましたが,これを機にさらに立ち合いの鋭い踏み込みを身につければ十分戦える力をもってますからねぇ。相撲は負けて覚えるのですから。嘉風は悔しさとともにこの相撲を記憶しておいて,鋭い当りを磨くことです。来場所はまたどういう結果になるかわかりませんよ。

 と,負けた嘉風にもエールを送ります。尾車親方の解説は,病気で倒れる前の絶好調のときからいまにいたるまで,終始一貫して変わらぬひとつの鉄則があります。それは,勝った力士のいいところを引き出し,それを褒めあげることであり,ひるがえって,負けた力士には敗因をピンポイントで指摘した上で,そこを修正してくると来場所の取組はどうなるかわからないですよ,とエールを送ることです。この心遣いの優しさが聞いている者のこころに響きます。尾車親方の人柄がにじみ出ていると言っていいでしょう。

 そうして尾車親方の解説を聞いていますと,大相撲の醍醐味がどこにあるか,そして,そのふところの広さと深さが次第にわかってきます。それとともにわたし自身の相撲鑑賞の仕方がどんどん深化していきます。たとえば,土俵下の控えにいるときの所作,土俵の上での一つひとつの立ち居振る舞いまでもが重要な鑑賞の対象となってきます。そこには力士たちのこころの有り様が如実に現れているからです。

 その点からしても,最近の嘉風は土俵上の所作も大きく変化してきています。じつに楽しそうに,さあ,これから大好きな相撲をとるんだ,という雰囲気がふわりと伝わってきます。表情からして平常心そのまま。そして,どの力士に対しても同じテンポで仕切り直しをし,最後の立ち合いは,相手力士よりも早く両手をついてじっと待っています。つまり,相手の呼吸に合わせて立ち合います。これはみごとというほかありません。

 昨日(11日)は横綱・白鵬の立ち合い一瞬の変化でコロリと転がってしまいました。横綱はいろいろと批判を浴びることになってしまいましたが,負けた嘉風は,あんなことで転がってしまう自分が悪い,と反省しています。このあたりも「おみごと」というほかありません。

 そして今日(12日)も栃煌山に真っ向勝負にでて,まずは,立ち合いの当り負けを防ぎました。そのあとは,自分のペースの相撲に持ち込み,最後は双差しで寄り切りました。嘉風に先手,先手で攻められた栃煌山はなすすべもなく負けてしまいました。これが,嘉風の相撲です。

 明日は日馬富士との対戦。これまでの対戦成績は6勝2敗と嘉風が大きくリードしています。スピード相撲の激しい展開となり,その混戦を制した方が勝つというのがこれまでの対戦内容です。たぶん,明日もこのパターンは変わらないとおもいます。だとすると,どういうことになるのか,楽しみな一番です。

 嘉風がこの好調をとりもどした背景には,平幕力士のままで終わりたくないという反省があって,それから一心不乱に猛稽古をしたからだ,と聞いています。そして,やはり,なによりも立ち合いの当りの強さを磨いたのだ,と。ここで相手の勢いを一瞬,止めてしまえば,あとは自分のペースに持ち込めるというわけです。そして,もう一点は,一番一番,全力が出せればそれでいいのだ,と自分に言い聞かせ,相撲を楽しむことだ,と割り切れるようになったからだ,と。つまり,勝敗を度外視して,自分の相撲をとりきること,その一点を楽しむことだ,と。

 嘉風は位をひとつ上げたなぁ,とわたしは受け止めています。こうなりますと,どんな相手であろうと委細かまわず,淡々と相撲をエンジョイすることができるようになります。いいところに到達したなぁ,と嘉風ファンとしては大満足です。

 さあ,これから後半に向けての注目力士たちの活躍を期待することにしましょう。そして,尾車親方の解説の回数が多くなることを期待したいとおもいます。熱烈なる尾車親方ファンとして。 

2015年11月12日木曜日

FB(フェイスブック)でつながりませんか。上質の情報を手に入れるために。

 このブログを読んでくださっている方で,まだ,FB を開設していない方への呼びかけをさせていただきます。世の中が情報化社会と化してすでに久しいですが,その情報化社会がさらにつぎつぎに進化を遂げつつあります。そのスピードにわたしなどはもはやついていけないほどです。が,この世の中に生きているかぎりは,きちんとした情報をわがものとしないかぎり,生きている意味がありません。

 とりわけ,最近は,権力によるメディア介入が顕著になってきており,権力にとって都合の悪いまともな精確な情報がコントロールされ,排除されるようになってきました。その影響からか,なかでも,大手の全国紙と中央のテレビ局の体たらくぶりは目を覆うばかりです。つまり,権力におもねるような情報だけが最優先されているというわけです。ですから,わたしたちは無意識のうちに情報操作をされて,権力のおもうままに意識がコントロールされていく傾向が,日に日に強くなってきています。

 もちろん,賢明なみなさんのことですので,自己防衛のために,さまざまな工夫をされていらっしゃることとおもいます。わたしも遅ればせながら,この情報危機の時代をどうかいくぐっていくか,と苦心を重ねているところです。そのための柱になっているのが,わたしの場合には,FBの活用です。もっとも,このインターネットの世界にも権力が介入しつつありますが,それでもあまりに情報量が多すぎてその手にあまって苦戦しているようです。その意味で,この世界だけはなんとか凌ぎ切れるのではないか,とわたしは期待しています。

 ひとくちにFBといってもピンからキリまであります。わたしも始めたばかりのときにはなにもわかりませんでしたから,妙な,わけのわからない人たちから「リンク」を張られて,どうしたものかと悩んだことがあります。しかし,上質な情報は,探せば,これまた無尽蔵に流れていることがわかってきました。

 最近では,しっかりと身元がわかっている人,情報の取りあつかい方やその人の主張などをチェックして,どうも納得のいかない人は全部カットするようにしています。

 もう一点は,目まぐるしく変化する大事な情報に特化して,FB を演出しているということです。その主眼は,フクシマを中心とする原発問題,辺野古を中心とする沖縄問題,集団的自衛権やTPPをめぐる軍事・経済問題,それと東京五輪2020にかかわるスポーツの問題,などにフォーカスしてそれらだけを集中してとりあげる,というところにあります。

 そして,それ以外の問題で,わたしの個人的な興味・関心事については,このブログでとりあげることにしています。ブログの方のねらいは,ひとつには,わたしの思考訓練,もうひとつには,文章を書くトレーニングにあります。あとは,親しい友人たちにわたしの近況などをつたえるために,と考えています。

 つまり,大きくはFB とブログとを二本立てにして,自分の頭のなかを整理しているという次第です。もちろん,それ以外にも『世界』を定期購読したり,東京新聞,沖縄タイムス(こちは電子版)を購読したり・・・・といったさまざまな工夫はしているつもりです。

 それにしても,急いで,精確な時事的な情報を手に入れるには,まずは,SNS で検索したり,FB で確認したり,というのが一番手っとり早いという次第です。

 わたしのFB も,いつのまにか,とてもいい情報提供者とつながりをもつようになり,いまでは,手に余るほどの素晴らしい情報が,これでもかこれでもかというほどに集ってきています。全部はとても読んではいられませんので,これだけはという時事性と重要性の高いものだけを拾い読みしているというのが実情です。

 それにしても,びっくり仰天するような情報もときおり飛び込んできます。つい最近では,ドイツのホロコーストの手本となったのは「T4」と呼ばれる作戦だった,という動画がありました。それによりますと,ドイツの精神科の医者たちが,いろいろの特殊な事情や条件があったとはいえ,精神的・知的障害をもった人や特定の不治の病いをもった人たちをガス室に送り込んで大量殺戮をしていたという事実です。戦後70年を経て,ドイツの精神科のお医者さんたちの集りである医学会が,その事実を認め,謝罪し,その事実についての実態調査が歴史学会によって検証された,という次第です。

 大竹しのぶのナレーションがまた抜群で,迫力満点。わたしは一晩,ほとんど眠ることができませんでした。なぜなら,このお医者さんたちによる大量殺戮はヒトラーの指示によるものではなく,精神科の医師たちの独自の判断でおこなったという事実(つまり,もっともまともであるはずの精神科の医師の集団が,いとも簡単に「狂気」と化してしまうという事実,しかも,それに歯止めをかける人もいなかったという事実),そして,多くの市民がそれに気づいていたけれどもみんな「だんまり」を決め込んでいたという事実,そういうことを知って茫然自失してしまったからです。

 この有り様は,いま,わたしたちが目の前にしている「狂気」となんと酷似していることでしょう。法を無視して平然としている国家権力に対して,多くの国民が奇怪しいとおもいつつ「だんまり」を決め込み,「自発的隷従」に傾いていく,現代日本のこの情況は,どう考えてみてもまとめではありません。むしろ,「狂気」のなせるわざとしかいいようがありません。それは,まさに「悲劇」への道程以外のなにものでもありません。この「狂気」に陥っているのはたった一人だけではありません。その人に連なる多くの人も同時多発的に「狂気」に陥っています。しかも,それが「狂気」であるという自覚がまったく欠落していることも大きな特徴です。

これはどうみても「一億総狂気化社会」へとまっしぐら・・・・。恐ろしいことです。

 そうならないためにも,どうか,みなさん,少なくとも上質の情報を手にするためのFBを構築して,連携の輪を拡げていきませんか。来るべき選挙のためにも。

2015年11月11日水曜日

「TPP,合意したした詐欺」。嘘ばっか。『世界』12月号より。

 『世界』12月号に,TPPに関する二つの論文が掲載されています。ひとつは,首藤信彦:アトランタに仕組まれた「TPP大筋合意」,もうひとつは,内田聖子:市民社会の価値とTPP──実態を覆い隠すご祝儀報道。これらの論文はきわめて明解にTPPの問題点を洗い出してくれています。これを読んで,日本の政府はいったいなにを考え,なにをやっているのか,というその背景がまるみえになってきました。まことにタイムリーな企画で,助かりました。

 といいますのは,「TPP,大筋合意」とにぎにぎしく報道され,とうとうそんなことになってしまったのか,とわたしは落胆していました。これはえらいこっちゃ,と。それにしても,なにが,どのように「大筋合意」したのか,その具体的な内容がさっぱりわかりませんでした。なのに,メディアの大半は熱烈歓迎のお祭り騒ぎでした。

 それを見越したように,政府は,あたかもTPP締結は時間の問題であるかのごとく振る舞い,その対応を急ぎ,TPP対策予算まで組みました。しかし,SNSを流れる情報などによれば,「大筋合意」をしたとしても,各論の具体的条項の詰めをし,「文書合意」を経て,各国の議会で承認をえるまでには,早くて2年,遅ければ4年はかかるだろう,ということがわかってきました。加えて,アメリカの次期大統領候補たちは,両陣営ともにTPPには反対の立場を鮮明にしています。となると,TPPは成立不能になるという可能性までちらつきはじめています。

 となると,TPP対策予算はだれのため,なんのためのものか,という疑念が湧いてきます。そこで,思いついたのが,政府自民党の深慮遠謀のさきにあるものは,来年の参議院選挙のための軍資金ではないか,というものでした。このことは,このブログでも書きました。でも,そのときは自分でも半信半疑でした。

 しかし,上記の二つの論文を読んで,わたしの推測がズバリそのものであったことが判明しました。やっぱりそうだったのか,と。

 ここでは,二つの論文を取り上げて,ひとつずつ論評するということはしないことにします。いささか乱暴ですが,二つひっくるめて,なにを言っているのか,という結論的なことだけを述べておきたいとおもいます。

 ひとことで言ってしまえば,「TPP合意したした詐欺」だ,ということです。そして,政府自民党が仕掛けた「情報操作」は「嘘ばっか」だった,ということです。この「嘘ばっか」は佐野洋子の短編集のタイトルを借りました。この作品の書き出しは「桃太郎には桃次郎という弟がいました」というものです。まさしく「嘘ばっか」を創作した作品です。つまり,政府がやったことはこれとまったく同じだということです。つまり,存在しない「桃次郎」を想定して,ひとつの物語を仕組んだというわけです。それは「詐欺」にも等しい行為だ,と。だから,今回の政府の演出した情報操作は「TPP合意したした詐欺」と呼ぶにふさわしい,というわけです。

 どういうことかといえば,以下のとおりです。

 「大筋合意」は日本政府だけが編み出したことば(=嘘)にすぎない,ということです。その根拠は,「大筋合意」をした声明文すら,どこにも存在しないからです。日本政府が勝手にそう決めつけただけのことです。この種の決めつけは,なにも日本政府だけではないようです。どの国も,みんな,自分たちにとって都合のいい部分だけを強調して,わが国はTPP交渉の場においてかく戦かえり,といった勝利宣言をしている,と上記の二つの論文が教えてくれます。つまり,どの国も,TPP交渉は政局の道具にされている,ということです。

 すなわち,どの国も「桃次郎」を創作して,都合のいいように宣伝をしたにすぎません。だとしたら,「大筋」どころか,ほとんどなにも決まってはいないに等しい,というのが現実のようです。もちろん,何点かは,詰めた議論が展開され,それなりの「落としどころ」をみつけて解散したようです。しかし,その「落としどころ」に,アメリカ国内では猛反発が起きている,そのために次期大統領候補は両陣営ともに「反対」を表明するにいたった,というのです。

 ひるがえって,日本はどのような交渉をしたのか。情けないことに,日本はほとんどの条項を丸飲みして,聖域を守るどころか,放棄してまでして,交渉分裂回避に全力を挙げていたというのが実態だった,と二つの論文は強調しています。

 ここでも,集団的自衛権と同じように,日本は徹底してアメリカの「ポチ」であることを高らかに宣言したも同然であった,というのです。

 主権国家としての日本はどこに行ってしまったのでしょうか。わたしたちはこれまで気づかないできてしまいましたが,どうやら「サンフランシスコ条約」は見せかけのものであって,その裏で結ばれた「日米地位協定」にしばられたままの,言ってしまえば,アメリカの植民地にすぎなかったのではないか,そして,いまもなお,この「日米地位協定」のもとに完全に支配されているではないか・・・・と。だから,沖縄の米軍基地問題はまさに,この「日米地位協定」の産物にすぎないのだ,と。すなわち,辺野古問題で,日本政府が,沖縄県民の民意を無視してまで強硬策をとらなければならない背景には,この「日米地位協定」があるからだ・・・・と考えざるをえません。

 もうそろそろ多くの国民が目覚めて,アメリカの「ポチ」であることから離脱する道を模索しないことには,この国の行く末は哀れとしかいいようがありません。

 窓の外では,木枯らしに近い「秋風」が吹いています。 

2015年11月10日火曜日

「月面で猿が踊り狂っている」。「月光心猿」。又吉直樹の『新・四字熟語』より。

〔月光心猿〕

黄昏を不法投棄するため
外に出た 誰にも見つから
ないように歩く
                     黄昏 ティッシュ 残飯 ゴムが
                     弛んだ下着 シャツ 電気料金
                     表レシート 独り言 蕪雑な
                     袋の中で黄昏が汚れている
隠れているつもりか電柱の
陰に暗鬼 裸足の餓鬼がチョーク
で地面に描いた月 墨絵みたいな
鴉が翔び地面の月を襲う
                                    黄昏投棄
月が空に逃亡して夜が来た                   脳髄廃棄
辺りが覚えのある臭いに変わる                体躯遺棄
                                    感傷唾棄
                                    人間放棄

                     何かが爆ぜた


月面で猿が踊り狂っている


                     次の自動販売機で
                           珈琲を買おう 


 
∥ 月光心猿 ∥ げっこうしんえん

月明かりに照らされた途端,心の中で猿が
暴れるように,なにか行動を起こしたいと
いう衝動に駆られること。
迷い,悩み,苦しみ,立ち止まっていた人
間が,ひょんなことに刺激を受け,動き出
せそうな 『今』 というあの感じ。

 
ふたたび,又吉直樹の『新・四字熟語』から転載させてもらいました。どうしても転載したいという衝動に駆られて・・・・・。わたしのこころの中の月面で猿が踊り狂っています。読んだ瞬間に共鳴・共振してしまいました。もはや止めようもありません。

 やはり,又吉直樹は面白い。

2015年11月9日月曜日

MRIの検査結果がわかりました。

 今日(9日)の午後,MRIの検査結果を聞きに行ってきました。結論は,CTのときと同じでした。つまり,肝臓の末端に「一点」ものの転移が認められる,ということでした。肝臓のほかのところや,それ以外の臓器への転移もチェックしたが,とくに異常は認められなかったとのこと。そういう意味での「一点」ものの転移との診断でした。

 さて,ここからが問題です。担当医の総合的な見立ては以下のとおりです。

 現段階での検査技術でみるかぎり,一点ものであることはたしかである。しかし,肝臓の他の部位に癌の根がないとはいえない。ただ,見つけられないだけかもしれない。これはなんともいいようがないが,一応,視野のなかに入れておく必要がある。

 外科医としては,手術をお薦めする。しかし,短期間の間(二年間)に三度目の開腹手術をすることについては,かなりのリスクを覚悟しなくてはならない。とくに,高齢であること,それに伴う心臓・肺などの循環器系の機能の低下,低体重という体力の問題,などなど。手術をするとしたら,相当,慎重にならざるをえない。したがって,できることなら避けたいところ。

 第二の方法は,化学療法。つまり,抗ガン剤による治療。こちらは,入院して(2泊3日くらい)点滴で行う方法と飲み薬とを併用するもの。こちらの方法なら,まだみえていない癌の根にも効果が期待できる。ただし,この方法で,転移した癌を制圧できるかどうかは,やってみないとわからない。うまく効く人もいれば効かない人もいる。また,抗ガン剤の副作用もないとはいえない。

 いまのところ,この二つの方法を考えている,とのことでした。どちらにするかは,患者さんの意思による,とのこと。いますぐに結論をというわけにはいかないでしょうから,ご検討ください,と。

 一応,検討時間をということで,次回は12月17日(木)に外来の予約をとりました。それまでに,なんらかの結論を出すことにしました。

 帰宅してから,しまった,「QOL」の相談をしてくればよかった,と反省。つまり,この病院は,癌患者の「QOL」,つまり,Quolity of Life を支援するシステムをもっているかどうか,の確認です。でも,そういう対応ができる病院であれば,第三の方法として,これを提示することもできるはずですので,それがなかったということは,やはり,対応できないということなのでしょう。だとしたら,もし,患者がこれを選択した場合,病院はどのように対応してくれるのだろうか,とこのことも相談しておくべきだった,と反省。

 わたし自身としては,ある根拠があって,このQOL にはとても魅力を感じています。この問題は,また,機会をあらためてきちんと書いてみたいとおもいます。

 というわけで,とりあえず,12月17日(木)まで態度保留ということになりました。これから,じっくりと考え,相談できる人には相談に乗ってもらい,わたしの意思で最終決定をしたいと考えています。

 取り急ぎ,ご報告まで。

書芸の愉しみ。「へた・うま」の世界を超える経験。田中象雨。〇

 書は上手に,きれいに書かなくてはならない,という一種のトラウマのようなものがわたしたちのこころの片隅にあります。ですから,筆で文字を書くということは,できることなら避けたいと恐怖観念のようなものがあります。その結果,筆で文字を書くという習慣はどこかに消え失せてしまったようです。のみならず,手書きの文字すら姿を消しつつあります。

 ワープロが登場し,パソコンが普及するにつれ,もはや「直筆」の文字そのものがとても珍しい時代になってしまいました。その典型的な例が年賀状です。宛て名書きもすべて印字されたものばかりになってきました。そんな中で,手書きの宛て名に出会いますと,とても新鮮です。そして,その人の体温や呼吸までもが伝わってくるようにおもいます。そんな中に,時折,まさに例外的に,毛筆のものがでてきます。これはもう感動ものです。「いいなぁ」とおもわず声に出してしまいます。

 じゃあ,お前はどうだ,と問われますと,情けないことにこの2年ほどは年賀状も書けないほどの体たらくです。なのに,毎年,ことしこそは毛筆で・・・・とみずからを叱咤激励しています。が,実行力はゼロ。情けないかぎりです。ことしは,せめて,いただいた賀状に返信くらいはしなくては・・・とみずからに言い聞かせていますが・・・・,はたして,どうなることやら・・・・。

 さて,日展・書道をみてきてからというもの,妙に書に惹かれるようになってしまいました。大いなる刺激を受けてしまったようです。

 で,このブログでも紹介しましたが,又吉直樹の『新・四字熟語』に添えられている書が,たまらなく魅力的で,ぐっと惹きつけられてしまいました。ということで,その一端を,ここでは紹介してみたいとおもいます。まずは,以下の8点の書をとくとご覧ください。

 



驚くべきことに,これらの8点の書はすべて田中象雨の手になるものです。書にはいろいろの書体があることはだれでもご承知のとおりです。その書体を使い分けることも書の楽しみのひとつだとということも承知しています。しかし,たったひとりの手で,これだけの変化を可能にする,それもみごとに味を出す,その手法に驚いてしまいます。しかも,これらはそのほんの一部にすぎません。この本に載っているだけでも,240書体です。もはや,唖然とするほかありません。

 この書をみれば,一目瞭然,書は上手に書かなくてはいけない,という縛りはなにもないということがよくわかります。むしろ,自由闊達に,そのときの気分や書く文字の含意や紙の大きさや選んだ筆の太さや,その他,もろもろの条件に合わせて,好きなように書いていいのだ,ということがよくわかってきます。

 では,こんな文字がだれにでも書けるのかといえば,そうは問屋が卸しません。ひとつひとつの書法を初手からきちんと練習をして,そこを通過した者にしか不可能であることは明らかです。しかし,わたしたちは書家ではありません。ですから,それを作品として人さまにみてもらう必要はありません。書いている自分自身が楽しくさえあれば,それで十分です。ときに,親しい友人にでもちらりとみせて,それとなく論評してもらえれば,御の字でしょう。

 どんな紙に書いてもいいのです。いまでは,コピー用紙の裏側がふんだんに使えます。広告の裏紙でもいいのです。なんでもいいのです。そういう紙を集めておいて,惜しげもなく書き散らす。もう,衝動的に書き散らす。そのうちに筆遣いがわかってきます。そうしたら,つぎは和紙に挑戦です。この和紙もまた,いろいろの特性をもった紙が何種類もあります。となると,こんどはそれらの和紙に合う墨を選ぶことになります。その先は,もう,セミプロのやる世界だと思えば,そこに分け入っていく楽しさも倍増します。

 ちなみに,上の書の3段目の左は「矛先無茶」,右は「馬鹿駅員」と読みます。崩し方や筆順なども,自分で工夫して,その味を愉しむという手もあることを教えてくれる作品です。「矛先無茶」の「無」の字をよく眺めてみてください。おもしろい発見があるはずです。こんなことまでやってしまっていいんだ・・・・というような・・・・。

 さあ,どうですか。筆をもって遊んでみませんか。練習用の墨汁はどこにでも売っていますので,これを買ってきて,水で少し薄めて使うといいとおもいます。そうすれば,硯も墨も不要です。百均ショップで,お皿を2,3枚買ってくれば,それでもう準備完了です。

 上の書の「幹事横領」くらいから遊ぶといいとおもいます。場合によっては,左手で書くという遊び方もあります。そのくらいの気楽さではじめましょう。

※どうしても,画像が移動してしまいます。どうか,ご判読くださるようお願いいたします。

2015年11月8日日曜日

浅田真央の復帰戦,おみごと。異次元世界へあくなき挑戦。

 あくことなき可能性への挑戦。
 生まれ変わった浅田真央さん。みごとなまでの復帰戦でした。

 失敗もありました。レベルの高い跳躍技をふんだんに取り入れた演技構成。その大半をみごとに成功させ,まずまずの仕上がりぶりを披露してくれました。

 それよりなにより感動したのは,これまでとはまた一味違う異次元世界をかいま見せてくれたことです。守りにまわるのではなく,あえて,新しい自分を,自分の目標とする滑りを,全面に押し出したその勇気に感銘を受けました。

 リンクの中央に立ち,スタートのポーズをとった瞬間から,アップで映っていた顔の表情が変わりました。ここにいたるまでのプレッシャーを断ち切るかのように,ちょっと悲しげな仏像の表情になりました。そして,どこか遠い世界に思いを馳せているような,そんな表情にみえました。オーバーな言い方をすれば,興福寺の阿修羅像の顔が放つ,あの深遠な雰囲気が,一瞬でしたが流れました。この瞬間から,あっ,浅田真央が変わった,と確信しました。

 最初のジャンプを成功させると,一気に新しい浅田ワールドへの突入でした。滑りが違う。からだ全身から表出する動きの貯めが違う。いっぱいいっぱいの滑りの先に広がる夢幻の世界を彷彿とさせるなにか(etwas )が伝わってきました。彼女の理想とするフィギュアスケートに一歩近づいたのだ,とわたしは受け止めました。そちらに感情移入が大きくゆらぐとき,ジャンプに乱れがでてしまったようにおもいました。

 しかし,それでも彼女の演技は抜群の出来ばえでした。それは,みごとに点数に現れていました。採点競技は,どの種目でも同じですが,無慈悲なものです。きわめて物理的に「加点」「減点」をルールにしたがって行います。体操競技も同じです。ですから,よくわかります。

 浅田真央の前に滑った本郷理華も立派でした。元気いっぱい若さを全面に展開させる,これまたみごとな滑りでした。ミスもほとんどなく思い描いたとおりの滑りができたのではないかとおもいます。その結果は,フリーで最高得点。浅田に4.22点の差をつけました。が,SPの得点差を埋めることはかなわず,総合点で1.72点及ばず。しかし,大健闘でした。たくましい新人が登場し,日本女子フィギュアは,これからますます激しい切磋琢磨がつづきそうです。

 しかし,少しだけ厳しい言い方をしておきますと,浅田と本郷の滑りにはまだまだ格段の差があります。到達している境地そのものでいえば,天と地ほどの差があります。そこを,こんご,本郷はどう埋め合わせていくのか,大きな課題といっていいでしょう。でも,まだ若いのですから,本郷には十分そこを詰めていく可能性が残されています。それを楽しみに待つことにしましょう。

 この差はなにか。これを説明するのはむつかしい。体操競技でいえば,内村航平がめざしている「美しい体操」です。同じ演技内容で,同じように演技が成功したとしても,内村選手の演技と他の選手のそれとでは雲泥の差があります。しかし,物理的な加点・減点法のルールでは,ほとんど差はでません。にもかかわらず,ある程度,体操競技に精通している人間からすれば,まるで「次元」が違うという見方をします。見ていて,演技の内奥に秘められたetwas が伝わってくるのです。そこは,まさに深淵の世界であり,幽玄の世界です。こういう要素は加点の対象にはなっていません。ですから,現行ルールによる採点では,ほとんど差はでてきません。

 しかし,フィギュアの場合には,一人ずつ演技をしますので,会場の観衆のこころをつかむことはできます。今回の本郷は,ジャンプをつぎつぎに成功させることによって会場の空気をひとつにすることができました。ですから,彼女自身もその場の力に乗って,最後までのびのびと演技をすることができました。その結果が,フリーでトップの得点となって表れました。

 ということは,浅田選手の難度の高い構成のジャンプがつぎつぎに決まるようになってきますと,これはもう鬼に金棒です。おそらく,浅田選手はそれを目標にかかげているのだとおもいます。復帰第一線で優勝。このことが,まずは,なによりも「只者」ではない証拠です。強いセルフ・コントロールの持ち主です。自分に誓ったことはかならず実現させることでしょう。

 グランプリ・ファイナルに向けて,ようやくこれでスタートを切ることができます,と優勝インタヴューに答えていた浅田真央さん。これから,ますます,念願の「蝶々夫人」に磨きをかけて,ファイナルまでには完成させてくれることでしょう。どんな成長ぶりをみせるか,いまから楽しみにしたいとおもいます。

 浅田真央は,まずは,ひとりの人間として立派です。そこが好きです。ひとつの道を極めようというその姿勢が素晴らしい。こういう人に出会うと,わたしはもうぞっこんです。あっ,余分なことを書いてしまいました。最後の一文は「削除」(笑い)。

 浅田真央選手にこころのかぎりのエールを送りたいともおいます。

「河童速報」。又吉直樹著『新・四字熟語』より。〇

 
「明日,午後から関東を中心に河童が大量に発生します」というアナウンスがラジオから流れてきた。河童速報を聞くと,いつも思うのだが『発生』ではなく『出没』じゃないのか。河童は生まれてくるのではなく,何処かに隠れて存在していた者達が目に見えるところに出てくるだけなのだから。
 僕と同じような考えから,『出没』ではないのかとクレームの電話をかける人が未だに多くいるらしい。
 元々,河童速報の始まりは,天気予報を告げるキャスターが入院している自分の子供に一刻も早く病気を治し,外に出たいという気持ちを持たそうと即興で言った嘘だったらしい。そのため,もちろん原稿も用意されておらず天気予報で頻繁に使われている『発生』という言葉が自然と口から出たのだろう。
 そのキャスターは幸運なことに解雇されなかった。その日が四月一日でエイプリルフールだったのと,東京で桜が満開になりみんな機嫌が良かったからだ。
 ただ,問題はその後に起こった。速報を耳にした一部の若い河童達が,河童と人間の間で何かしらの協定が結ばれ,その日だけは河童が街に出ることを許容されたと勘違いして実際に出てきてしまったのだ。
 人間達は驚いた。若い河童達はもっと驚いた。何匹かの河童は捕獲されたが,人間の政界に紛れ込んでいた天狗の仲立ちもあって,三日以内に解放された。事後処理として,発端となった河童速報を流した番組のスポンサーである酒造メーカーがエイプリルフールと引っかけて仕掛けたキャンペーンだったということにした。翌年からも,不自然ではないように,そのキャンペーンを実行した。それが今も継続されている。
 しかし,実際に河童と遭遇した人間達は口を揃えて『あれは着ぐるみなんかじゃない』と言った。
 今でも,あれは本物の河童だったと信じる者もいるが,ほとんどの人は都市伝説と認識している。河童速報という言葉を,人々は『嘘で言ったことが本当になる』というニュアンスで使っているようだが,我々河童達の間では『千年に一度のお祭り』という意味で使われている。

 
以上は,又吉直樹の『新・四字熟語』(幻冬舎よしもと文庫,平成27年,3版,P.159~161.)からの引用です。冒頭の書も,P.161.に掲載されている書家の田中象雨の手になるものです。じつは,この本は,又吉直樹の創案になる四字熟語とその解説に,田中象雨の書が加わった,一種のコラボレーションという形式をとっています。

 世間では,もともとお笑い芸人ではないか,と上から目線の人が多いようですが,どっこい立派な芥川賞作家です。冒頭の引用を読めば,そのことは歴然としています。ユーモアを語るにしても,じつによく目配りの効いた観察眼は尋常ではありません。読後にほっとさせる,心根のやさしさがほんのりと伝わってきます。

 新・四字熟語としての「河童速報」は,「嘘で言ったことが本当になる」というニュアンスと,「千年に一度のお祭り」というニュアンスとの二つの意味が籠められている,と又吉さんは解説しています。こんな,四時熟語がこのテクストには満載です。

 たとえば,「神様嘔吐」「馬面猫舌」「夕焼左折」「編曲過剰」「構内抱擁」「日常主演」「無駄目撃」「水玉刺青」「放屁和解」「裏声柔道」「幹事横領」「布団反復」「肉村八分」「素人八段」「返事天才」「元祖偽物」「便所便覧」「全力保養」「絶命読書」・・・・といった具合です。もちろん,お笑いのネタになりそうなものばかり。それでいて,どこか人間の本質に突き刺さるような諧謔が籠められています。読んでいておもわず唸ってしまうものも少なくありません。

 加えて,この四字熟語を「書」にしてページを飾っている書家の田中象雨の存在が,わたしの目にはとても印象的でした。一人の書家が,全部,書体を変化させ,四字熟語の意味を忖度して,みごとな「書芸」としてみせてくれているからです。この人の書だけをめくってみていても楽しめる,不思議な本になっています。

 近日中に,この人の書芸を取り上げて,論評をしてみたいとおもいます。書とはなにか,ということを考える上でとても役に立つとおもうからです。

 ということで,今日のところはここまで。

2015年11月7日土曜日

こんな本,これまでにあったか?驚愕の書。『SEALDs 民主主義ってこれだ!』を精読。◎

 いやはや,参りました。

 民主主義を甘く考えていました。
 民主主義は,制度としてそこにあるものではなくて,自分たちで一つひとつ構築していくものだ,と叱咤されてしまいました。
 「民主主義ってなんだ!」から「民主主義ってこれだ!」に到達するまでの経緯が手にとるようにわかりました。そして,凄い,とおもいました。ここまで考えているのだ・・・と。

 この本は,「民主主義とはなにか」を学ぶためのバイブルにも等しい。

 
SEALDs の若者たちは,ほんとうに,素朴な疑問からスタートし,一つひとつ壁にぶち当たりながら,勉強をし,みんなで議論し,納得のできたところから実践していく,その並々ならぬ「不断の努力」を知り,感動しました。
 そして,なによりも,純粋で,しなやかなこころの持ち主たちに心の底から敬意を表します。
 同時に,これ以上,黙っていてはならないと決断したその「勇気」にも,こころからのエールを送りたいとおもいます。

 それにしても,一人ひとりが,いかにみごとに自立・自律していることか。
 自分の頭で考え,自分の足で歩き,自分のことばで語り,自分のからだ全体で表現をし,反省し,また,スタートから考える。
 そして,それをみんなが尊重し合い,認め合っている。お互いにだれからも束縛されない,だれをも束縛しない,この精神が貫かれている。こういう集合体であるということが,ほんとうに素晴らしい,とおもいます。

 そして,なにより,奥田愛基君,牛田悦正君をはじめ,みんながなんとよく勉強していることか。
 その読書量と読解力にびっくり仰天しました。
 そして,しっかりと自分のことばで語れる,その力量に驚きました。(※牛田君とは短い時間でしたが,直接,お話をすることがありました。)

 とりわけ,実践の一つひとつがたしかな思想・哲学に支えられていることに驚きました。
 たとえば,SEALDs という組織体は,あくまでも個人の集合体であって,そこには党派的な拘束力はいっさいありません。そのヒントは,モーリス・ブランショの『明かしえぬ共同体』(西谷修訳)にあるといいます(牛田君)。これはほんの一例にすぎません。思想・哲学の勉強だけではなく,憲法をはじめとする各種の法令の勉強から,過去の抗議行動の歴史を国内だけではなく外国の事例にまで触手をのばして研究しています。

 そして,実践をとおして鍛えられる思考力こそたしかなものはない,と知りました。机上の空論(あるいは,観念論)とは天と地ほどの差があります。かれらは,つねに「エッジ」に立たされています。つまり,個人をまるごと公衆の前にさらけ出してスピーチをし,コールの指揮をとり,デモという抗議行動をするということは,ありとあらゆる誹謗中傷から批判・批評をもすべて引き受けることを意味します。言ってみれば,退路がないということです。ですから,必死になって智恵をしぼり,勉強をし,議論をし,理論武装して,みずからの立ち位置をたしかなものにしなければなりません。その作業が不可欠です。こうして,若者たちは短時日のうちに,鍛えに鍛えられ,みごとに飛躍的に成長していきます。

 そうした足どりが,生々しく,痛いほど伝わってくるのです。この本を精読していると・・・・。

 わたしの長い生涯のなかでも,これほどの衝撃を与えた本はそんなにはありません。それほどにインパクトの強い本です。これからも,思い出しては,あちこち拾い読みしたいとおもっています。

 騙されたとおもって,ぜひ,ご一読を。

2015年11月6日金曜日

芸術の秋。日展・書道で,日比野光鳳(顧問),吉川美恵子(会員・審査員)さんの作品に出会う。感動。

 知人から日展のチケットをいただきましたので,早速,でかけてみました。秋晴れのいい天気でした。いつも感ずるのは新国立美術館の中のロビーに入ると,まるで空港のロビーに到着したような気分になることです。白い鉄骨を組んだ,全面,明るいガラス張りの明るい窓。しかも,全体が直線ではなく曲線。だから,室内の空間が広く感じられ,しかも,ソフトな雰囲気につつまれている。いい感じ。

 日展の全部門の展示が全館に繰り広げられているので,とても一日でみてまわれるようなわけにはいきません。だから,最初からみるポイントを決めてでかけることになります。

 わたしの場合には,いつも,まっさきに書道から。あとは,体力・気力の残余にしたがうことに。つまり,それほどに疲れるということです。作品の数と展示場の広さは半端ではないからです。延々と,何時間あっても見終わることはありません。疲れたら途中でロビーにでて,コーヒー・タイムをしながら,休憩をとります。この日は,風もなく晴れ渡っていたので,オープン・スペースにでてコーヒーを飲みました。紅葉した欅の葉が,時折,舞い落ちてくる。なかなか風情があっていい。

 さて,書道展。入口を入ったところから不思議な緊張感があって,例年になく作品に力があるな,と感ずる。このところ(ほぼ,毎年,見にきている),いろいろ騒動(審査の方法をめぐって)があったために,こちらの見る目が疑心暗鬼になっていたこともたしかだ。だから,どことなく「上手ではない」という先入観があった。でも,ことしはちょっぴり違う感じ。やはり,いい作品はないなぁ,などと勝手に類推していました。

 ことしはもうそういう先入観から抜け出たのか,比較的素直にみることができました。第一感は,みんないい作品ばかりだ,というもの。よくよくみてみると,入口にいい作品が集めてあるようです。が,それにしても上手い。達意の書が並ぶ。みごとなものだ,と感心してしまいました。が,欲をいえば,横一線。みんな似たような雰囲気の作品ばかり。つまり,そつなくこなれた筆づかいの作品ばかり,ということ。作品に,もうひとつ,気魄のようなものが感じられない。みる者のこころを「グイッ」と鷲掴みにして,動けなくさせるような迫力のようなものが伝わってこない。これは「ないものねだり」なのだろうか。

 ある展示室の入口のあたりに人が大勢いて,だれかが解説のようなことをしている。名札をつけた人も数人いる。ちょっと邪魔だなぁ,とおもいながら通りすぎようとしたら,「かな」の素晴らしい作品がかかっている。ああ,この作品の鑑賞をしているんだ,と納得。わたしは,作品全体の印象がとてもよかったので,足を止めてじっくりと鑑賞する。

 作品の右肩のところに「日展会員賞」と書かれた金紙が貼ってある。その下に,「春日の山」とあり,さらに「吉川美恵子(会員,審査員,奈良県)」とある。おもわず「アッ」と声を挙げてしまった。あの「吉川さん」だ,と。わたしが奈良教育大学に勤務していたころ(もう,30年以上前になる)に,新しい書道の先生として着任されたうら若き女性の名前が「吉川美恵子」さん。以後,年に何回かある懇親会でお話もさせてもらった懐かしい人。もともと書道は好きだったので,書道の先生方とは仲良しでした。しかも,奈良教育大学の書道の先生方はむかしから実力者ばかり。だから,書道科には全国から学生が集ってくる,人気の学科でした。

 大学祭や奈良県の芸術祭や,その他のもろもろのアート関連の展覧会があると,書道科の先生方がふるって作品を投じていました。そのたびに,わたしは足を運んで楽しませてもらいました。だから,先生方もとても喜んで迎えてくれました。そんな懇意にしていた先生のおひとりである吉川美恵子さんの作品に,期せずして,ことしの日展で出会うことになるとは・・・。しかも「日展会員賞」。

 
作品は,「春日の山」という題で,つぎのような歌が書かれていました。
 「妹が目を始見の崎の秋萩は
 この月ごろは散りこますゆめ
 雨隠り情いふせみいで見れば
 春日の山は色づきにけり
 ──以下略。」

 
かなりの大作で,しっかりと鑑賞させてもらいました。

 じつは,奇跡はこれだけではありませんでした。

 この作品の斜め向かい側に,なんと「日比野光鳳」さんの作品が額に入ってかかっているではないか。この日比野光鳳さんも奈良教育大学の書道の先生で,学内では「池田先生」でした。わたしとほとんど同じ年齢でしたので,とても仲良くさせてもらいました。スキーの好きな先生で,学生のスキー実習に参加させてほしいと言って奥さんとお二人でいらっしゃったことがあります。お手並みを拝見したら,思いの外お上手でしたので,わたしの班(1班,一番上手なクラス)に入ってもらって,一週間ともに楽しく過ごしたことがあります。

 池田先生もわたしもまだ若かったので,お互いにまだ無名でした。が,すっかり意気投合し,仲良しになりました。しかし,その直後くらいから池田先生の大活躍の時代がはじまります。あっという間に日展・特選をへて会員となり,審査員となり,いまや「顧問」です。気持ちのやさしい人で,いつも飄々として,空気のような存在でした。なにごとも淡々とやりすごしながらも,時折,きらりと目が光ることがありました。そんなところを,池田先生のお師匠さんは(日比野五鳳),しっかりと見ておられたのでしょう。池田先生の号は「光鳳」。

今回,展示されていた作品は,以前にもまして飄々とした作風になっていました。
作品は以下のとおり。(大伴家持 新年)

「新しき年の初めの
初春の今日降る雪の
いやしけ吉事」

 
まあ,偶然とはいえ,こんな「出会い」もあるんだと欣喜雀躍の日展・書道の部でした。会場をあとにするときには,なんだかわたしまでも「偉く」なったような気分でした。古い知己の人びとが,世の中で活躍している姿に接するのは,これまたなにものにも代えがたい至福の時と言っていいでしょう。

 やはり,長生きはするものだ,としみじみ。とてもいい秋の一日でした。

2015年11月5日木曜日

ヒップホップ集団《クルギ》を迎えて,ライブとシンポジウム「非暴力の牙」開催のご案内。

 東京外国語大学の真島一郎さんから,写真のようなフライヤーがとどきましたので,ご紹介させていただきます。アフリカニストを自認され,セネガルと深くかかわって来られた真島さんの入魂の企画と受け止めました。これはなにがなんでも参加させていただこうとおもっています。23日(月)のプログラムはもとより,場合によっては,28日(土)の琉球大学でのシンポジウム「ヤナマール,新たな非暴力のかたち」も追っかけてみようかな,と密かに計画中です。

 もちろん,ついでに辺野古にも足を伸ばして・・・・・。


このフライヤーでは字が小さくて判読できないとおもいますので,必要な情報について補足しておきますと,以下のとおりです。

 〔主催〕東京外国語大学グローバルスタディーズラボラトリー(Global Studies Laboratory)。
 科学研究費基礎研究(B)「統治思想としての<オイコノミア>」

 〔日程〕
 2015年11月23日(月・祝)※入場無料・予約不要。
 ライヴ&国際シンポジウム「非暴力の牙」
 14:40~15:40 クルギ野外ライヴ 東京外国語大学 外語祭野外ステージ
 17:20~19:40 国際シンポジウム「非暴力の牙」 外国語大学研究講義棟226教室
             〔講演〕クルギ(チャット&キリフ&DJゼー)
             〔発言者〕西谷修/土佐弘之/桑田学/真島一郎/中山智香子

 2015年11月24日(火)※予約制 連絡先:hibouryokunokiba@gmail.com
  「社会変革の作り方」
 16:00~19:00 東京・馬喰町ART+EAT  tel:03-6413-8049
                                   https://www.art-eat.com/

  2015年11月26日(木)※予約制 連絡先:hibouryokunohito@gmail.com
  17:30~19:30(若干変更の可能性あり)仙台・センダイコーヒー(カフェ)

 2015年11月28日(土)
 「ヤナマール,新たな非暴力のかたち」
 9:30~12:00 沖縄・琉球大学
            〔出演〕阿部小涼/西谷修/土佐弘之/真島一郎/中山智香子
 〔関連企画〕
 11月29日(日)夜 沖縄・爆発コラボ・ライヴ「ヤナマール」


ラップ集団「クルギ」(Keur Gui )については,わたしのような者でも,どこかで聞いたことがある名前だな,とおもうくらいですから,いまさら説明をする必要はなかろうとおもいます。上のフライヤーにも詳しく紹介されていますが,残念ながら読めません。どうしても知りたい方はネットで検索してみてください。大量の情報を手にすることができます。

 最後に,このフライヤーのキャッチ・コピーを繰り返しておきたいとおもいます。

 非暴力の牙
 世界の鏡に照らして
 ≪3・11≫以後の思考を脱領土化する
 社会変革の新たな波動を牽引する
 ヒップホップ集団≪クルギ≫
 セネガルより来日!

 奮って参加してみてください。わたしも楽しみにしているところです。

2015年11月4日水曜日

「私は消費主義を敵視しています」。世界一,質素な大統領ホセ・ムヒカのことば。

  『ホセ・ムヒカの言葉』(佐藤美由紀著,双葉社,2015年3刷)を読みました。ざっくりとした書き方になっていますので,だれでも,すぐに読める本です。

 
ホセ・ムヒカ。南米・ウルグアイ共和国の大統領。2010年3月から2015年3月までの5年間。任期満了で退任。いまは,一国会議員として,政治活動を継続。

 若いころに極左武装組織「トゥパマロス」に参加。ゲリラ活動に従事するも逮捕され,1972年8月から1985年3月に釈放されるまでの約13年間,過酷な獄中生活を送る。1995年,左派中道政党「拡大戦線」から立候補して下院議員選挙で初当選。政治家としての道を歩みはじめ,上院議員を経て,2005年に農牧大臣として初入閣。2010年3月1日,第40代ウルグアイ大統領に就任。2012年にブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開催された国連会議でのスピーチが世界中の人びとを感動させ,一躍,時の人となる。

 大統領に就任しても,大統領官邸には住まず,農場にある掘っ建て小屋のような自宅に住み,自分で愛車(フォルクス・ワーゲン)を運転して通勤。警備員はひとりだけ。徹底して余分な経費を削減する。奥さんも議員であるので,お金は十分あるとして,大統領としての給料の9割を寄付。残りの1割を貯金。この貯金は,議員を引退してから貧しい人たちと一緒に働く農場を確保するためのもの。ネクタイはなんの意味もないとして着用しない。

 こんな大統領が追究したテーマは,豊かさとは何だろう?という問いでした。そして,圧倒的多数は貧しい人たちだ。ならば,その人たちの側に立つ政治を行うのは当たり前のことだろう,と考えました。そのためには,みずから質素な生活を送ることがなにより重要であると考え,議員になる前から住んでいた掘っ建て小屋のような自宅から議会に通うことにした,というのです。

 そんな大統領から飛び出してくるスピーチのことばが,世界中の人びとのこころをとりこにしました。以下には,スピーチのなかにでてくる珠玉のことばをいくつか挙げておきたいとおもいます。

 〇貧乏な人とは,少ししかものを持っていない人ではなく,無限の欲があり,いくらあっても満足しない人のことだ。

 〇西洋の富裕社会が持つ傲慢な消費を,世界の70億~80億の人ができると思いますか。そんな原料がこの地球にあるのでしょうか。可能ですか。

 〇なぜ私たちはこのような社会をつくってしまったのですか。マーケット経済の子供,資本主義の子供たち,つまり私たちが,間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作ってきたのです。

 〇マーケット経済がマーケット社会をつくり,このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。

 〇私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか。グローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか。

 〇このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で,「みんなで世界を良くしていこう」といった共存共栄な議論はできるのでしょうか。

 〇我々の前に立つ巨大な危機問題は,環境危機ではありません。政治的な危機問題なのです。

 といったような名言がつぎからつぎへと繰り出されてきます。こういう初歩的で,しかも,根源的な問いを発する大統領,それがホセ・ムヒカです。そして,かれは,みずから批判する「消費主義社会」から離脱し,あらたな「持続可能な社会」を構築する政治へと舵を切り換え,真剣に取り組みました。

 その政治的な実績はともかくとして,まずは,ホセ・ムヒカの「ことば」にぜひ一度,耳を傾けてみていただきたいとおもいます。わたしたちの生き方の,なにが,間違っているのか,がもののみごとに指摘されています。かつて,ものの豊かさはこころの貧しさを導き出す,と大塚久雄(経済史研究者)が指摘し,大きな反響を呼んだことがあります。が,いつのまにか,日本人はそんなことをすっかり忘れ去ってしまっているようです。

 その意味でも,この本をお薦めしたいとおもいます。

2015年11月3日火曜日

辺野古に機動隊100人投入。沖縄タイムスの反応。

 政府がなにがなんでも辺野古に新基地を建設しようとする強行姿勢に対して,翁長知事を筆頭に多くの沖縄県民は一歩も引かない姿勢を示している。これからますます新基地建設反対運動が過激化することを想定して,政府は辺野古に機動隊100人を投入するという。それを受けて沖縄タイムスの一面下のコラム「大弦小弦」が,沖縄県民のふところの深さとゆるぎない意思の強さのよってきたる所以を,みごとに言い当てている。

 広い意味での沖縄の特殊事情をみごとに言い当てているようにおもうので,引いておきたい。

 沖縄タイムス,11月2日朝刊一面,「大弦小弦」より転載。

 座り込む市民の中に,姉がいた。強制排除する機動隊の列には,弟がいた。オスプレイの配備が強行された2012年,普天間飛行場のゲート前。目が合い,二人は愕然とした──▼県警の警察官はここで共に暮らし,働いている。だから,こういうことが起きる。全国紙の記者に言わせると,「沖縄の警察は生ぬるい。東京だったらすぐに排除ですよ」となる。でも,県民多数の意思を肌で感じるから,むちゃはできない▼今,キャンプ・シュワブのゲート前でも,目をうるませる警察官がいる。年配の市民は「戦争に行くのはあなたたちだよ」と語り掛ける。現場が荒れた後も,最低限のつながりが生まれる▼そこへ,警視庁の機動隊を導入するという。沖縄の歴史と現状を知らない彼らの暴力が心配だ。抗議行動の「激化」は理由にはならない。一番激しかったのは昨夏だから。いまさら「長期化」でもない▼機動隊増派は,琉球処分で派遣された軍隊や警察を思い起こさせる。政府が反発を計算しなかったはずはない。新基地建設の強行へ,あえて力を見せつけ恐怖で支配する意図が見える▼安保関連法では根幹である憲法を破った。法の解釈や運用はどうにでも変えて,県との法廷闘争にも勝つつもりだろう。だが,政府が制御できないものがある。尊厳を踏みつけられる者の怒りだ。(阿部岳)

 解説は不要だろう。ただ,ひとことだけ感想を。わたしはこれを読んで胸が詰まった。このコラムを書いた記者のしなやかなハートと温かさと怒りの強さに。そして,いかにも「沖縄」らしいふところの深さを感じて。それに引き換え全国紙の記者のハートの冷たさに。この温度差こそが,辺野古問題を考えるときの,大きな分かれ目になっているのだ,と。

 かつて,このブログにも書きましたが,それこそ学生時代から購読していた朝日新聞に別れを告げて,東京新聞に乗り換えました。そして,しばらくして,沖縄タイムスもネット購読することにしました。お蔭で,沖縄をみる目,辺野古を考えるスタンスが一変しました。とりわけ,沖縄県民のハートをつかむ記事というものがどのようにして編み出されているのかがよくわかってきました。それはきわめて単純なことでした。それは読者に対して,いま,起きていることがらの「事実」をいかに的確に伝えるか,その一点にあるということ。たとえば,翁長知事とは反対の立場の主張もしっかりと記事にしているということ。つまり,政治的中立ということ。

 政治的中立ということは,賛否両論をあるがままに報道すること。そして,読者がそれらの主張について考える場を提供するということ。一方的な押しつけはしないということ。それを忠実に実行しているのが,いわゆる沖縄2紙といわれる琉球新報と沖縄タイムスです。その点で,この2紙は長年にわたって凌ぎを削ってきたのでしょう。ですから,全国紙などは遠く足元にも及ばない,真の意味でのジャーナリズムが生き生きと息づいていると言っていいでしょう。

 今日,紹介した「大弦小弦」の阿部岳さんのコラムはその典型的なもののひとつと言っていいでしょう。そんなおもいを籠めて,あえて,このコラムを紹介させていただきました。とくと,ご熟読のほどを。

2015年11月2日月曜日

MRI の検査を受けてきました。結果は9日に。

 11月2日(月)。予定どおり,MRI の検査を受けてきました。朝食抜きで,午前10時から。

 朝から雨。それも風雨。しかも,気温が低い。傘をさして駅まで歩く間に両手が完全に冷えてしまって,痛いほどでした。手袋を・・・と出掛けにちらっとおもったのですが,まだ,早いだろうと判断したのが間違いでした。ひらめきは大事にしなくては・・・。

 病院に到着してもからだは冷えっぱなし。でも,すぐに検査にとりかかるという。少しからだを温めてからにしてほしい,と言えず(気が弱いものですから),そのまま検査室へ。造影剤を注入する針を入れる血管がみつからず,看護師さんが苦労する。しばらくの間,こすったり,叩いたりして,ようやく血管が浮き上がってくる。それで針を刺す。この針がまた長い。しかも,痛い。

 こんなことは初めてでしたが,検査室に入ると,すぐにヘッドホーンをつけられ,これで検査技師の指示を聞き取ってください,という。「大きく息を吸って,吐いて,止めて」という,例のやつだ。なるほど,と納得して横になる。これも初めてでしたが,両腕を頭の上に伸ばしたまま,円筒形の機器の中にベッドが移動して入っていく。この円筒形の機器の中でストップしたまま撮影に入るらしい。その空間がまたけたたましく狭い。

 しばらくしたら,ヘッドホーンからなにか声が聞こえてくるが,はっきりとは聞き取れない。これはいけない,と慌てて「聞こえませんッ!」と大きな声で何回も怒鳴っても,検査技師には聞こえないらしい。円筒形の中で両腕は頭の上に伸ばしたまま,しかも,胴体はしっかりとしたベルトで固定されている。この円筒形の機器の中から出るに出られない。困った。足元をみてみたら,足先が少しだけ円筒形の外にでていることがわかり,急いで,足をバタバタさせる。ようやく,検査技師が気づいて中に入ってきて「暴れないでください」という。冗談じゃあないとおもいながらも,「音声が聞き取れません」と,これまた遠慮がちに言う。「はい,わかりました。音声を調整します」ということで一件落着。

 かとおもいきや,検査がはじまると音声が次第に小さくなっていく。かすかに聞こえてくる「指示」にしたがって,なんとか検査を終える。あとで気づいたのは,ヘッドホーンがぶかぶかで,耳にうまくフィットしていなかった,ということ。これなどは初歩的なミス。

 途中で,「これから10分間,間を空けてから,また検査をはじめます」という。この間,なにも聞こえない,なにも見えない,いやーな気分。この10分間の長いことながいこと。円筒形の中に缶詰にされたまま,眼をつむって,ひたすら待つ。せめて音楽でも流してくれればいいのに・・・などと考える。そのうちに,尿意を催してきて,これとの闘いがはじまる。必死で我慢するのだが,これは無理だと考え,「トイレに行きたいのですが!」と数回,怒鳴ってみても応答なし。冷や汗を流しながら,必死で堪える。やがて,「検査を再開します」という音声。

 これはもう駄目だと諦めて,少しだけ「ちびる」ことに。ほんの少しだけ「ちびった」つもりだったのでけすが,終わってみたら立派に「びしょ濡れ」。薄いブルーの検査着に着替えていたので,大きな,りっぱな「世界地図」が出来上がっていました。「はい,お疲れさまでした」と言って入ってきた看護師さんに,ことの顛末を話す。「ああ,大丈夫ですよ。よくあることですから」とあっけらかんと言われてしまう。そうか,俺ひとりだけではないのだ,と知る。

 このシステムには致命的な欠陥がある。音声が一方通行である,ということだ。これが双方向になっていれば,会話ができる。患者の要望も即座に伝えることができる。しかし,そうではないのだ。だから,検査の途中で尿意を催してもトイレに行くことができず,不本意ながらも「もらす」ことに。こういうことはいくらでも起こりうる。

 もう一点は,円筒形の機器の中に入れられてから,今日の検査は「約40分」ほどかかります,と言われたこと。そのときは,「40分」かぁ,少し長いなぁ,でも大丈夫だろう,くらいにおもっていました。が,この検査室が想像以上に寒く,途中でからだが冷えてきて,「寒い」と吼えてみましたが,応答はありませんでした。いやな予感が現実になってしまい,後悔してしまいました。あらかじめ,「40分」という時間を知らせてくれれば,その前に準備ができたのに・・・・と。

 とまあ,文句たらたら。どこかのタイミングでこの欠陥は修正するよう言わなくては・・・・とおもいながら帰宅。

 結果は,専門医のコンファランスを経て,一週間後の9日(月)にわかる。まあ,どういう結果になろうとも,慌てるな,と自分に言い聞かせている。でも,やはり不安ではある。でも,仕方がない,ともおもう。やはり,かなり「揺れて」はいる。正直に白状してしまえば・・・・。あとは,運を天にまかせる以外にはない,とみずからに引導をわたす。幸運を祈るのみ。