ル・クレジオが27歳のときに書いたといわれる『物質的恍惚』(豊崎光一訳,岩波文庫)を読みはじめる。なんともはや,驚きの連続である。
まずは巻末に収められている今福さんの解説「ル・クレジオの王国を統べるもの」が抜群で,ちょっとものが申せない,という状態である。この部分だけで立派な独立した読物になっていて,40ページ余に及ぶ。濃密な文体で,今福節がうなる。しかも,心地よい。こういう解説が書けるということ事態が脅威である。この部分は,何回も熟読玩味してから,そして,自分なりのことばで語れるようになったところで,このブログでもとりあげてみたいとおもう。
今回は,その前に,このテクストの冒頭にかかげられた「物質的恍惚」ということについて,考えてみたい。全体は三部構成になっていて,第一部に相当するのが「物質的恍惚」,第二部が「無限に中ぐらいのもの」,第三部が「沈黙」という具合。で,なにが驚いたかといえば,第一部の「物質的恍惚」は,ル・クレジオがこの世に生まれてくる前のイメージを語っていること,そして,第二部の「無限に中ぐらいのもの」では,生きるということはどういうものであるのか,ということについてさまざまな角度から分析・考察し,第三部の「沈黙」は,死後の世界を取り扱う。つまり,「誕生前」「生前」「死後」を語っているのである。しかも,27歳という若さで。
まだ,全部を読み切っているわけではないので,及び腰で語るしかないが,ル・クレジオの考える「人間とはなにか」の総体的なイメージが微に入り細にわたり描かれているようにおもう。そして,もし,そうだとしたら,ル・クレジオは,この世に生きている間だけが「人間」なのではなくて,誕生以前も,死後も,全部ひっくるめて「人間」である,と考えているようだ。こういう発想をル・クレジオはどこから身につけたのか,それが知りたいところ。この点については,今福さんはあまり強い関心を示そうとはしない。(ひょっとしたら,わたしが読み取れないでいるのかもしれない)。
で,「誕生前」を扱った第一部「物質的恍惚」というタイトルである。(これが書名タイトルにもなっているわけだが・・・)。この意味が不明というか,不思議である。最初にこの本を書店で手にとったとき,いったいこの本はなんの本なのだろうか,と考えた。まず,ふつうに「小説」なのだろうなぁ,と。しかし,どんな小説なのかがまったくイメージがわかない。で,あちこち拾い読みをしてみて,驚いた。これはなんという世界を描いた本なのか,と。
第一に「物質的恍惚」とはなにごとか,と。意味不明である。物質が恍惚になるわけがない。あるいは,物質のように恍惚,と読み替えてもなんのことかわからない。かなりしつこく第一部の部分を読み込んでみて,なるほど,と合点がいく。それは,まさに,ル・クレジオ自身が生まれる前のイメージをひとことで言い表すとすれば「物質的恍惚」ということになるのか,と。人間がヒトであった時代には,「内在性」の中に生きていたといわれる,その「内在性」に生きるイメージですら,相当に頭を柔軟にしないと理解不能である。ましてや,自分の誕生以前のイメージを,ル・クレジオは語ろうとしているのである。しかも,そこから自己という存在のはじまりを見届けようとしているかのように。自己のはじまりは,時間も空間も超越してしまって,単なる「物質」として,しかも,あらゆる物質の中を自在に行き来しながら浮游していた,あるいは,あらゆる物質の内・外に関係なく遍在していた,とル・クレジオは考えているかのようである。
でも,それにしても「物質的恍惚」とは? じっとにらめっこしながら考える。はたして,自己の誕生以前は「恍惚」なのであろうか,と。フランス語の原語を確認してみると,バタイユと同じ「extase」(エクスターズ)である。だから,「恍惚」でいいのである。しかし,・・・とまた考える。エクスターズは,「バタイユの恍惚」としてあまりに知られているので,ここでも「恍惚」と訳出したのであろうが,「物質的恍惚」の内容をよくよく読んでみると,「バタイユの恍惚」につながるようなイメージはどこにもない。だとしたら,これは意味が違うことになる。で,はたと気づくのは,哲学用語の訳語にある「脱存」「脱自」の方が近いのでは・・・と。しかし,「脱自」は,自己が存在しているのに不在となることを意味するので,この訳語ははまらない。で,ゆきついたのは「脱存」である。自己の存在が最初から不在と考えれば,まさに,自己の誕生前を表現するにはぴったりではないか,と。
で,行き着いたのが「物質的脱存」。それでも,どこか変だ。でも,「物質的恍惚」よりは,いくらかイメージは近いようにおもう。それにしても,ル・クレジオは誕生以前の自己のイメージをこのようなことばで表現しようとしたのか。まだまだ,疑問は多い。
そう思いながら,眼を皿のようにして「物質的恍惚」の章を読み込んでいく。すると,意外なことがわたしの頭のなかにひらめいた。それは,「父母未生以前の本来の面目」という禅問答の公案である。両親が生まれる前のお前の存在はいかに,というのである。公案であるから正解はないのだが,応答の仕方は相当に工夫をしないことには相手にしてもらえない。ひょっとしたら,ル・クレジオは,禅のこの公案を知っていたのではなかろうか,と。そう考えながら,さらに読み進めていくと,これは仏教的世界ではないか,とおもわれる説明がいくつもでてくる。(一にして多であるこの世界)(生きること,それは死んであることであり,そして死は生きているのである)など。しかも,相当に日本通である。(ミゾクチの作品は・・・)(「ミゾクチ」の名前が何回も登場する)
ひょっとしたら,この公案への応答として,この「物質的恍惚」を読むことも可能なのではないか,と考えたりしながら読み進む。だとしたら,ここの訳語は「物質的恍惚」がぴったりである。西田幾多郎を引き合いに出すまでもなく「絶対矛盾的自己同一」の世界を,この「物質的恍惚」は言い当てている,と読むこともできるからだ。しかも,死と再生のテーマを輪廻転生的に語っているのではないか,と読み取れる部分も少なくない。
ル・クレジオが,27歳にして,このような発想をもっていたとすれば,それから4年後に『悪魔祓い』を刊行するのも,わたしのなかではまことにすんなりと納得できてしまう。
さて,この本を最後まで読み切ったとき,わたしはいったいどのような感想をもつことになるのだろうか。いまから楽しみである。
なお,今福さんの解説のところには,ル・クレジオに関して,びっくり仰天するような話がでてくる。この問題についても,意識しながら,このテクストを読み進めていきたいと考えている。大変な本との出会いである。困ったものだ。が,楽しみでもある。久しぶりに味わうドキドキ感である。読書の醍醐味。
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