2010年7月27日火曜日

「静坐する身体」と格闘するわたし。

 「静坐」ということに,しばらく前から取り組んでいる。世間では「正座」というらしいが,「正」と「座」という文字がどうも気になって,わたしとしては「静坐」の方がしっくりくる。
 いきなり,いささか余談めいた話になるが,最近,気になっていることに「正しい姿勢」「正しい歩き方」「正しい食事の仕方」などという具合に,なにかと「正しい」が濫用されすぎているのではないか,ということがある。「正しい」ことには,かならず,なにかの基準があって,ただそれに合っているかどうかというだけのことであって,それ以上の意味はない。だから,その基準が違うところでは「正しい」は通用しない。つまり,その基準というものが,それぞれの地域や人びとの文化として構築されてきたものにすぎない。当然のことに,文化が違えばその基準は違う。こうして,「正しい」などということはあっという間に雲散霧消してしまう。
 はたして,「正しい座り方」などというものがあるのだろうか。正座の意味は,おそらく公的な場で威儀を正して座るときの座り方,くらいのことで,それ以上の意味はないだろう。つまり,正面を向いてきちんと座る,ということ。こちらの方の意味が強いのだとしたら,わたしがひとりで坐るのに「正座」は必要ない。だれも意識しないで,たったひとりで静かに坐る,だから「静坐」。ただ,それだけ。でも,それだけのことだからこそ,こだわりたいのだ。
 もうすでにお気づきかとおもうが,「座」か,あるいは「坐」か,ということにもわたしなりのこだわりがある。詳しくは白川静の辞典で確認していただきたい。が,かんたんに言っておけば,「座」には歴史的・文化的にいろいろの意味賦与がなされてきていて,その使用範囲はきわめて広い。一方,「坐」の方は,ただ坐るだけの意味しかない(もちろん,例外はあるが)。このように考えると,「正座」にはそれなりの意味があり,「静坐」は「ひとり静かに坐る」というきわめて単純な意味しかないことがわかってくる。だから,わたしの場合には「静坐」でなければならない,ということになる。こういうこだわりは,趣味の領域においてはきわめて重要なことだ,とにんまりしながら自己満足している。
 以上が「前座」。
 さて,そのこだわりのわたしの「静坐」。ただ,坐るだけなのに,これができない。困ったものである。もう,ずっと以前からできないのだ。それには理由がある。
 最近では,初対面の人はほとんどだれも信じてはくれないが,こうみえてもわたしはスポーツ大好き人間だったのだ。しかも,ほんの一瞬のまぼろしではあったが,オリンピックにでてみたい,とまで夢見たことがある。これを言うと,みんな大笑いになる。でも,あまりに素直にあっけらかんと笑われてしまうと,ほんのちょっぴり寂しい思いがよぎる。でも,まあ,それを黙って見過ごして,しつこくスポーツに熱中したころの話をする。熱中したスポーツは,野球,体操競技,登山,スキー,卓球,水泳,テニス,バドミントン,など。この間に,さまざまな大怪我をした。それが完治しないまま,適当にしてきたツケがいまごろになってまわってきた。とりわけ,左足首の捻挫と左膝の捻挫。しかも,慢性の捻挫。その他のところは,だましだまし,なんとか使える。が,この左足の故障は,いまもときおり疼く。天気予報よりもよく当たるほどの感度のよさである。
 それはともかくとして,この故障があって静坐ができないのである。だから,法事などで,どうしても「正座」をしなくてはならないときには,腰を少しだけ浮かせてごまかす。その分,座高が高くなって立派な人にみえるらしい。しかし,左足全体の力を抜いて,ペタッとお尻を足裏に当てることはできない。だから,若いときから「正座」はできなくなったまま。
 ところが,不思議なことに「坐禅」の結跏趺坐はできた。捻挫で痛めた角度がちょうどうまい具合に結跏趺坐と噛み合っていたようだ。が,この得意の結跏趺坐も,あるときから,とても困難を感ずるようになった。つまり,あちこちの関節に痛みを感じ,長く持続することができなくなってきたのだ。それで,いまでは半跏趺坐でごまかすことにしている。が,これで十分なのである。大事なのは,どこまで無心になれるか,ということなのだから。だから,坐禅はいまでも思い出したように,その気になったときには,坐って楽しんでいる。
 にもかかわらず,なにを思ったのか,ある日,突然,静坐がしてみたくなったのである。なんだかわけのわからないものに誘われるかのように。坐れないことは百も承知しているというのに。いまだにその理由がわからない。でも,こういう入り方をするというのは,そのむかし,ある日,突然,逆立ちがしたくなったのとそっくりである。なんの理由も根拠もなく,もちろん,理性のはたらきもなく,ふらふらっとそう思ったのである。それが,こんにちに至る,わが人生の最初の間違いだった,ということにいまごろになって気づく。では,今回の「静坐」への誘惑は,わが人生においてなにを意味しようとしているのだろうか。などと大げさなことは考える必要はなかろう。すでに,余命いくばくもなくなってしまったのだから(今日の新聞によれば,日本人の男子の平均年齢は78歳,?記憶違いかな)。そんなことはなにも考える必要はない。ただ,やりたくなったのだからやりはじめた,それだけで立派な意味がある,とみずからを励ます。
 (突然ですが,時間切れ。あとは明日のブログで)つづく。

 

1 件のコメント:

竹村匡弥 さんのコメント...

平均寿命ってなんのことだにかぁ?kappaには分からないだにぃ。
それの国際的な比較って、どんな意味があるんだにかぁ・・・まったく分からないだにぉ。
正しい寿命・・・みたいになってしまったりするんだにかぁ。笑
そんな感覚の人間が出現してたりするかもだにねぇ。
正しい・・・といえば、正しく美しい日本語っていうのもあっただにねぇぇぇ。笑