昨日のブログの「見牛」(第三),「得牛」(第四),「牧牛」(第五)につづく図が,今日これから考えてみようとしている「騎牛帰家」(第六)と「忘牛存人」(第七)である。
「騎牛帰家」(きぎゅうきか)は,「十牛図」のなかではもっとものどかな雰囲気があって,わたしの大好きな図柄である。そのむかし,まだ,時間がたっぷりあって,ゆったりとした時間が流れていたころ,丑年の年賀状にこの図柄を選んで版画にして刷って送ったことがある。たいへんな手間暇がかかったが,送った方は大満足,受け取った友人たちからも喜んでもらえたことを思い出す。この当時(たぶん,20代の後半),すでに「十牛図」に強い関心があって,何冊かの解説本を読んだ記憶がある。しかし,ほとんど理解不能であった,といってよい。それでも,第六図の「騎牛帰家」の意味するところだけはそれとなく理解していたとおもう。
この図柄は,ゆったりと歩く牛の背中に牧人が座って天を仰ぎみながら笛を吹いている,というものである。牛と人とが一体化して,なんの迷いもなく,清らかな音曲の世界に浸っている,そういう姿として描かれている。この図柄を眺めながら,当時のわたしは,悟りの境地というものはこういうものなんだろうなぁ,と想像していた。つまり,他者と自己とが一体化して,お互いに溶け合っている状態,自他の差異(区別)がなくなる,そういう世界を想像していた。だから,この「牛」が「真の自己」であるなどとは考えていなかった。牛は他者の代表であって,それは路傍の石ころでもいいはずであるし,竹藪のなかの竹であってもいいし,自然そのものでもよかったはずである。そんな風におぼろげに考えていた。
それはちょうど,芥川龍之介が描いた短編『寒山拾得』のイメージと重なっていた。水墨画の画題としてもよく描かれる題材なので「寒山拾得」の話は繰り返す必要はないだろう。ただ,ここで指摘しておきたいことは,二人とも寺の裏山に住んでいる野生の虎と仲良しで,村人たちが恐れおののいているのもどこ吹く風とばかりに,ときには虎の背中にまたがって寺に帰ってくることもあったという。この「寒山拾得」は牛ではなく虎であったが,その虎と一体化するほどの境地に達していたことを,芥川龍之介はみごとに描いている。だから,わたしのなかでの第六「騎牛帰家」は,この虎のイメージと重なっている。
しかしながら,このテクストの著者である上田閑照は,まったく別の解釈を試みている。その読解にわたしは刮目する。
「牧牛の次は第六騎牛帰家。牛の背に騎(の)り,笛を吹きながら家路を行く。牧牛の境位では,牧人と牛とは肯定的に統一されつつもまだ二重であったが,ここでは,牧人と牛とはすでに一体,自己の自己への関わりにおける分裂葛藤がやみ,自己存在はおのずから詩趣を帯びてくる。牧人と牛との「二」の統一の「一」がすっかり自然になり,その一体の自然さはおのずから天地の自然に交響して笛の音になる。牧人が吹いているというより,牧人と牛との一体性が吹いているのである。天地との一体性という曲を。「限りなき意」がこめられている。その曲の中で自己自身の「一」性そのものに還帰してゆく。還郷の曲と言われている。もはや,外からはそのような一体性に隙を入れることはできない。ここの図は美しい。画調そのものから調(しらべ)が聞こえてくるよである。それまでは牛にのみ注意を集中していた彼の目(まなこ)は,今や遥かに大空をのぞみみる。」
「拾牛図」の読解とはこういうものなのだ,と初めて知る。読解そのものが美しい。上田閑照の独り舞台という印象すら受ける。このように読み解けるほどに上田閑照自身が禅の修行を積んでいる証拠である。このことについては,また,いつか機会をみつけて書いてみたいとおもう。ここでは,これ以上に深追いはしないことにしよう。
こうして,いよいよ,問題の第七図に入るとしよう。
まずは,上田閑照の読解を紹介しておこう。
「このように騎牛して,帰るべき本来の家郷,自己が真に自己であるその在り処に現に帰着した境位が,第七忘牛存人(牛を忘れ人を存す)である。ここで主題的に忘牛と言われるのは,牛と全く一つになりきり,牛が完全に現に自己化されて,もはや牛として別に見られることが全くないところだからである。自己自身が現に牛であるが故に牛のことはすっかり忘れたという意味である。今までは第一から第六までずっと牛をめぐって標題がつけられていたが,この第七忘牛存人において「忘牛」とともにはじめて標題に「人」(にん)があらわれる。牛が人(にん)になったのである。さきの第六では求める自己が求められている真の自己と一つになるという方向であったが,第七ではその一体の内で真の自己が現実の人になったのである。図の上では,家に帰り着いて自己自身に落ち着き安坐した(図柄によっては,ごろんと閑(のど)かに寝ころがった)一人(いちにん)だけが描かれている。牛の姿は消えている。すなわち,その一人のうちへと消えているわけである。これは,この境位の大切な点である。」
みごとな読解である。もう,余分なことはなにも言えない,完璧な読解である。なるほど,このように読むのか,とこころの底から納得である。しかしながら,わたしの少しばかり曲がった臍がもぞもぞと動きだす。なぜ,牛が消えて「人」(にん)だけが残ったのか,と。牛が「真の自己」であるのなら,その「真の自己」と一体化をはたした自己が消えて,「真の自己」が残るべきではないのか。すなわち,「人」(にん)が消えて「牛」だけが残る,ということにならないのか。わたしの頭のなかでは,ごろりと牛が寝そべっていて,「人」(にん)が消えている方が,迫力があっていいし,自然の流れのようにおもうのだが・・・・。
この第七図までは,とにかく「真の自己」に目覚め(第一「尋牛」),「真の自己」の痕跡(牛の足跡)を見つけ(第二「見跡」),それを追ってみると牛の後ろ姿を見つける(第三「見牛」),牛に縄をかけて捕獲する(第四「得牛」),そして,その牛(「真の自己」)を飼い馴らす(第五「牧牛」),ついには牛との一体化をはたして家路につく(第六「騎牛帰家」),という具合に,現前する「自己」が目には見えない「真の自己」をなにがなんでも「わがもの」としよう,そして「一体化」しようと一直線に精進するわけである。その結果として至りついたところが第七「忘牛存人」なのである。そこにきて,「真の自己」である「牛」が消えてしまって,「自己」である「人」(にん)だけが残る,というのである。なぜ,このようなことになるのか,という素朴な疑問がわたしのこころのなかにわき上がってきたのである。そして,静かに考えてみる。やがて,この疑問はすんなりと消えていくことになるのだが・・・。この点については明日のブログで挑戦してみるとしよう。
一般的には,この第七「忘牛存人」をもって,一応の「悟り」の境地に達したと考えられている。しかし,「十牛図」で説くところの禅は,この第七図は,まだまだ「通過点」にすぎないのである。しかも,この第七「忘牛存人」の境地は,たしかに「悟り」には違いないのだが,もっとも危険な「悟り」の境地なのだ,という。その鍵を握るのが,まさに,牛が消えて「人」(にん)が残る,という図柄にあるというのである。
上田閑照の腕の冴えどころである。まさに「自己の現象学」と言い切るところの根拠ともなる言説がこのあとにつづく。明日は第八「人牛倶忘」(じんぎゅうぐぼう)に挑戦である。
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