2010年7月24日土曜日

「1日1万5000歩」子どもは歩こう・・・・だって?!

 昨日の朝日の夕刊に,こんな見出しの記事が載っていた。そして,「体力低下に危機感」都教委,歩数計配る,という小見出しがつづく。
 記事を読んで,唖然としてしまった。子どもたちに歩数計を持たせれば,歩数が増えるだろう,その結果,体力低下を防止できるだろう,という考えのなんといういい加減さ。都教委というところは,この程度のことしか考えられないのか,と。あまりの情けなさに涙もちょちょ切れてしまいそう。あきれ返ってものも言えないとはこういうことだ。
 都教委が考えることはこんな程度。同じように,横綱審議委員会も似たようなもの。そして,新しく設置された特別調査委員会も,みていると同じようなもの。自分たちで考えることはほとんどできない。NHKの大相撲放送中止も同じ。世の中の声に右往左往した結果の保身の術でしかない。みんな,思考停止。お相撲さんは,特殊な社会にいて世の中の常識をわきまえない,というのが通り相場になっているようだが,はたしてそうだろうか。小中学校からずっと優等生で,大学も一流大学に進学して,一流企業に就職した人間もまた「世の中」をほとんど知らない。優等生を演ずることはできても,世の中の困難を克服するための智慧を生み出せる人は少ない。ましてや,その困難を克服するためにからだを張って実行できる人はもっと少ない。それは,優等生だけではない。ふつうの成績をとってきた人も,成績の悪かった人も,みんな同じだ。簡単に言ってしまえば,みんな自己保身しか考えない。自己中心主義,だ。自分本位。
 いま,街中を歩いていても,電車に乗っても,よくみかけるのは「ベビー・カー」に乗った比較的大きな子ども。もう立派に歩ける,しかも駆けだしたら母親よりも早いかもしれないほどに成長している子どもが,ふんぞりかえって「ベビー・カー」に坐っている。なぜか。親しいご婦人に聞いてみたことがある。その答えがなんと,「うろちょろされるより世話がないから」という。なるほど,ベビー・カーに閉じ込めておけば,母親は自分の思うままに歩くことができる。子どもがうろちょろ歩き回られたら,つねに監視し,注意を向けていなくてはならない。それが大変だから,というのだ。この気持ち,わからないわけではない。
 つまり,街中も電車のなかも,小さな子どもを寄せつけない,ある種の圧力がかかっている。小さな子どもたちが,うろちょろ動きまわると,まわりの大人たちは一様に不快な表情を浮かべる。ときには母親が叱りつけられている。こうなったら,ベビー・カーに縛りつけておく方が気が楽だ。子どもも慣れたもので,黙ってふんぞりかえって,まわりの景色をうつろな眼でぼんやり眺めている。生き生きとした眼とはほど遠い。それはそうだ。自分で判断して行動する必要がないのだから。丸抱えの受け身。なにも考える必要がない。
 「思考停止」の原因の一つはここからはじまる(じつは,もっと深い根があるのだが,その話はまたの機会にする)。つまり,子どもは,自分の判断で,あるいは,自分の興味にしたがって,うろちょろ動いてはいけない,と早い時期からしつけられる。幼稚園や小学校でも,きちんと椅子に坐っている子がいい子。こういう子はたぶんベビー・カーでしっかりとしつけられた子に違いない。そうでない子は,教室に入ってもうろちょろ動きまわる。先生は困り果てて,「多動性症候群」なる病名まで発明して,みずからを納得させる。
 これは根本が違う。「多動性症候群」というレッテルを貼られる子どもの方がむしろ「健全」そのものであって,じっとして動かない子の方が危ない,とわたしは考えている。少なくとも,わたしの子ども時代を考えればそうだ。みんなじっとしてなんかいなかった。先生たちは苦労しながら,いかに授業を面白いものにするかと智慧をしぼっていた。そして,いい授業が展開されるとみんなおとなしくなった。こうして先生と生徒の信頼関係はおのずから構築されていたようにおもう。もちろん,力が抑えつけようと必死になった先生もいた。表面的にはうまくいっているようでいて,生徒たちはみんな裏で舌を出していた。
 子どもは,うろちょろ動く。興味のあるものが眼に入れば,かならずそこに近づく。そして,そこから緊張の時間がはじまる。真剣そのものの時間が。そのむかし『人生で大事なことはみんな幼稚園の砂場で学んだ』というベストセラーがあった。先生や親から教えてもらうことも多い。しかし,人生に役立つ智慧の多くは,子どもどうしの遊びのなかで学ぶ。この子どもどうしの遊びの「時間」や「空間」を奪ってしまったのはだれなのか。
 子どもたちは,快適な場所を与えられれば,放っておいても「動き回る」。歩数などに関係なく動く。面白い遊びをわがものとすることのできる「空間」「時間」をまずは確保すること,都教委の考えることは,まずは,ここからだろう。この問題には眼をつむり,歩く歩数を数えさせよう,というのだ。大人たちが,健康のために歩きましょうといって歩数計で計りながら歩くことを,子どもたちにやらせよう,というのだ。わたしに言わせれば,歩数計を腰につけて手を大きく振って歩いている大人は,基本のところで狂っているとおもう。つまり,健康のために歩く,この発想がまずは大間違いなのだ。別に歩かなくても健康は保持・増進することができる。その智慧も持ち合わせない人間こそが問題なのだ。なにかといえば,マニュアル。偉い先生が推奨しているから,それをする。完璧なる「思考停止」。諸悪の根源はここにある。
 一人ひとり,大人も子どもも,身長も体重も,食事も睡眠時間も,労働内容も,みんな違う。それをみんな平均値に置き直して「1日1万5000歩」歩こう,と子どもに呼びかける都教委の発想のお粗末さ。いま,一番必要なのは,好きなことに熱中することのできる「時間」と「空間」を確保することだ。そのための智慧を発揮するところの一つが都教委ではないか。もっと画期的な提案をしてみたらどうか。
 たとえば,サマー・タイムの導入。わたしたちの子ども時代にはこれがあった。そして,夜9時すぎまで明るかったことを覚えている。夕食を済ませてから,学校の運動場に集まって,その日,二回目の野球の試合をしたものだ。最後は,ボールがよく見えなくなってきて,石灰を塗って見えるようにしたこともある。このころの子どもたちは,一日にどれほど動きまわっていたことだろう。ただ,食べ物が充分ではなかったので,やたら空腹であったことも忘れられない想い出である。
 もっと,みんなで智慧を出し合って,大人も子どもも,どうすれば運動不足を解消することができるか,できるところから試行錯誤的に展開してみたらどうか。そのためには,もっともっと,頭を使おうではないか。理性的にものごとを考えるということは,こういうところからはじめるべきなのだ。すなわち,生きものの要請に応える理性の復権を。
 ああ,Nさんの顔が浮かんできた。

 

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