いよいよ上田閑照のテクストに導かれながら,マルチン・ブーバーの『我と汝』の世界に入っていくことにしよう。しかも,それが「十牛図」との対比が目的なので,これ以上のテクストはない。
まず,上田閑照はつぎのように切り出す。
「・・・・ブーバーの『我と汝』と十牛図第十の人『間』(十牛図のテクストが直接にテーマとしているのは『老人と若者』であったが,その『間』をも含めてより基本的には第八空円相が示すような絶対無における『自己と他己』という人『間』)とを簡単に対照して,それによって後者の構造を別方向から照らし出してみたい。このような対照は現代世界のうちでの禅の新しい位置を探る試みの端緒ともなり得るであろう。」
まずは,「十牛図」の構造を,ヨーロッパの精神史の考え方と対比させることによって,まったく新たな禅の位置づけをしたい,というのが上田の意図であることを明らかにする。おそらく,マルチン・ブーバーの思想と禅の思想とをクロスさせるような試みはこれまでみられなかったことだろう。その意味では刮目すべき,上田の試みである。
「ブーバーの『我と汝』は,『人(にん)と人(にん)』,あるいは『問答』という出来事となってその活生命を展開する禅とある根本的な親近性を示していると言えるが,同時に,両者の間には微妙にしてかつ決定的な違いもあるように思われる。」
上田はまず,ブーバーの思想と禅の思想との「親近性」に着目する。しかも,その上で,この両者の「微妙にしてかつ決定的な違い」もしっかりと意識している。じつは,ここのところにわたしは注目しているのである。わたしの分析では,マルチン・ブーバーの思想と禅の思想とは,まったく相容れないものであるというひとことで一蹴して,おわりである。だから,何故に,竹内さんのなかでは,禅の思想がベースにありながら,マルチン・ブーバーの思想が矛盾なく受け入れられたのか,ここが知りたいところである。上田は,そんなわたしの疑問にきわめて有益な助け船を出してくれたのである。上田は,この両者には「親近性」がある,と断言する。しかしながら,厳密にいえば,「微妙にしてかつ決定的な違い」がある,ともいう。この「親近性」と「違い」はどこにあるのか,それがわかれば,竹内さんのレッスンの着眼点も明白になってくるのではないか,とわたしは考える。
さて,マルチン・ブーバーの考え方の基本はなにか。
「ブーバーにおける『我と汝』という考えの出発点は『人間存在の原本的事実は人間と共にある人間』ということであった。この『と共に』は,個人にも全体にも還元され得ない独特の領域であって,その独自性を把握するためには,個でもなく全でもない第三の範疇が必要である。そこでブーバーは人間存在の原範疇として『間(あいだ)』という基本語を提出する。それはしかし,人間と人間との間柄というように対象化してみられるようなものではない。あくまで,向かい合っている双方の『間』に,向かい合っている当の双方にとってのみ,そして双方から向かい合いとしてのみ開かれる主体的な場である。それ故にブーバーは『我と汝』と言う。この『我と汝』に人間存在の根源的リアリティが置かれることによって,自我を出発点とする近代の思想に対して,いわゆる「主観─客観」の枠を破って動く原理的に新しい立場が開かれたと言える。そしてブーバーはこの『我と汝』を,人間存在そのものが『人間とはいったい何であるのか?」という問に化してしまったその問としての存在(虚無,孤独,機械化など)の根本的解決という意味をもって提出したのである。」
いささか長い引用になってしまったが,マルチン・ブーバーの思想が竹内さんを引きつけたことの,もっとも根幹的なことがらが,この引用文のなかにほとんど言い尽くされているようにおもう。ブーバーのいう「我と汝」は,向かい合う者同士の双方の「間」という第三の範疇を設定し,そこに生ずる向かい合いとしてのみ開かれる双方の主体的な場である,という。つまり,「我と汝」の「と」によって開かれる場,ここに人間存在の根源的リアリティを置く。ここのところに竹内さんは注目し,「と」によって開かれる場をいかにして確保していけばいいのか,という実験(模索)にとりかかったのだろう,と理解することができる。
そのうちの一つが「呼びかけのレッスン」として,次第にその精度を高めていくことになる。呼びかけに対する応答。呼びかける「我」と応答する「汝」。最初に呼びかけた「我」は,「汝」の応答を聞く。呼びかけた「我」も主体,応答する「汝」も主体。こうして向かい合いとしてのみ開かれる双方の主体的な「場」が成立する。すなわち,対話のはじまりである。こうして,主体と客体という関係は,絶えず逆転しつつ,対話が進行する。そして,そのような対話が成立する「場」はおのずから純度が高まっていく。そうなると「じか」の降り立つ「場」はすぐそこだ。
人間存在そのものが「虚無,孤独,機械化,など」の隘路に落ち込んだときの根本的解決が,「我と汝」の「間」に生まれる双方の「主体的な場」を開くことによって,すなわち,「じか」に触れる体験をとおして,可能となる,と竹内さんは考えたのではなかったか。
「このような意義をになった『我と汝』をブーバーは『我とそれ』との対比によんて鮮明に特色づけてゆく。『我とそれ』というあり方は,我からの一方向的な対象化であり,対象とされたもののある特定の抽象的断面についての知を獲得し,それに基づいてまた我からの一方的関心によってその対象を利用してゆくあり方である。そしてそのようなあり方において実は我もまた抽象化してゆくのである。『それ』世界のほとんど無制限の拡大が人間をどこにつれてゆくかをブーバーは近代の科学技術社会の中に見ている。それと異なって『我と汝』は,たんに我からの一方向的な関わりではなく,相互的双方向的な真正面からの出会いである。私に対して直接に自(みずか)らを向けてくる相手が与えられる「恩寵」であるとともに,その相手に応じて自らの全体を向けてゆく「本質的行為」でもある。ここでは双方の存在の全体と全体とが直接に具体的に触れ合い,それが存在の充実であり真の現在になる。」
この上田閑照の要約はみごとというほかはない。これ以上にコンパクトにマルチン・ブーバーの思想や概念をわかりやすく説くことは不可能であろう。「相互的双方向的な真正面からの出会い」「私に対して直接に自らを向けてくる相手が与えられる『恩寵』」「本質的行為」「双方の存在の全体と全体とが直接に具体的に触れ合い,それが存在の充実であり真の現在になる」などという表現を,わたしは何回も口ずさんでしまう。突然,現れた「恩寵」ということばに「ハッ」として,からだごと惹きつけられてしまう。熟読玩味あるのみ。
これらとはまったく別のところで,わたしには,しっかりと考えさせられてしまうところがある。それは,つぎのようなところである。
ブーバーは「我と汝」(ICH UND DU)に対比するための概念装置として「我とそれ」(ICH UND ES)という対立項を立てる。ドイツ語で「DU」は第二人称の親称であり,尊称の「SIE」とは区別される。では,親称である「DU」は,どの範囲までを意味しているのであろうか。いわゆる親しい友人関係,親子関係,師弟関係,親戚関係,などに適用されるという。しかし,それを日本語に置き換えることは,ほとんど不可能である。そのため,わたしには「我と汝」(ICH UND DU)という関係の具体的なイメージが湧いてこない。だれでもいいというわけにはいくまい。竹内さんは,ここの問題をどのようにクリアされたのだろうか。この点は,竹内レッスンに詳しい人がいらっしゃるので,あとで教えていただくことにしよう。わたしの危惧は,現代の日本の社会にあって,「DU」と呼べる関係がどこまで保証されているのか,すでに,そういう関係すら結べないところにきてしまっているのではないか,と。だからこそ,竹内さんは,「我と汝」という関係を基軸に据えることに,強い決意とともに立ち向かわれたのだろう,と。
それと,もう一点は,「我とそれ」(ICH UND ES)というときの「ES」である。英語でいえば「IT」である。ドイツ語の「ES」も英語の「IT」もじつは,日本語の「それ」ではあっても,一筋縄では片づかない意味内容をもっている。ここで,ややこしいドイツ語論議を展開する必要はないが,いずれにしても日本語の「それ」であると同時に,「それ」以外の意味内容もある(しかも,ESが主語になったときの用例はじつに複雑だ)。
なにゆえに,ドイツ語の,こんなところにこだわるのか。
その根拠については,明日のブログで明らかにしたいとおもう。
とりあえず,今日のところはここまで。(つづく)
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