2010年7月9日金曜日

「せぬときの坐禅」「動中の工夫」ということについて。

 昨日のブログの最後のところに「せぬときの坐禅」「動中の工夫」ということを紹介しておいた。そして,見牛──得牛──牧牛という行の相続においてこの問題は特に大切である,と。
 おまけに,みなさんはどのようにお考えだろうか,と問題を投げかけておわりにしておいた。ところが,親しい友人たちから「投げかけだけで終わるのは許せない」という趣旨のメールが何通か直接わたしのところにとどいた。問いは問いのままにしておくのが禅のいいところなのだが,近代合理主義に毒されてしまった近代人には,それでは居心地が悪いらしい。無粋を承知で,わたしなりの「解」を少しだけ書いておくことにしよう。もちろん,それ以外にも「解」は無限にある,ということだけは最初にお断りしておく。
 昨日のブログに引いた最後の文章の重要なところを,もう一度,確認しておこう。
 「行とはしかしいわゆる坐禅だけの事ではない。いつでも,何をしていても問題になるのが自己というあり方であり,行は『全自己』(西田幾多郎)の問題だからである。行住坐臥すべてが行によって統一されなければならない。」
 いささかしつこいかもしれないが,わたし流の「解」を求めてみることにする。
 「行とはしかしいわゆる坐禅だけの事ではない」・・・・ここでいう「行」とは,いわゆる「修行」のことだと解釈すれば,いかなるものもすべて「行」と名づけることは可能となる。仰向けに寝ころがって,ぼーっとしていても,それを「仰臥禅」と呼ぶこともできる。要は外見上の姿勢や行動だけで判断すべきではなくて,そのときの意識がなにと向き合っているのか,ということが肝腎なのであろう。
 「いつでも,何をしていても問題になるのが自己というあり方であり」・・・・つまり,「自己」と向き合っているかどうか,これがポイントとなろう。しかしながら,禅でいうところの「自己」はなかなかやっかいなのである。いま,現前している自己と,もう一つ「見えないもの」としての「真の自己」が,いつもワン・セットになっている。だから,なにをしていても,いつも問題になるのは,この「真の自己」なのだ。この「真の自己」と向き合うことが大事なのだ,と。
 「行は『全自己』(西田幾多郎)の問題だからである」・・・・西田に言わせれば,「行」は,いま現在の「自己」のすべてが問われるのだから,それを表現するとすれば「全自己」というしかないだろう,となる。つまり,自己という全存在が問われるのだから,という意味である。ここには,意識的自己も行為的自己も分け隔てなく,すべての「自己」=「全自己」が表出するのみである。道元のいう「修証一等」「修証一如」である。そこにはごまかしは一切ない。
 「行住坐臥すべてが行によって統一されなければならない」・・・・というよりも,わたしの「解」でいえば,「行住坐臥がすべて行になってしまう」となる。言ってしまえば,「行ならざる行」から「行そのものの行」にいたるまでの範囲のなかに「行住坐臥」は包括されてしまうからである。それは,仮に「坐禅」をしていたとしても,頭のなかで「妄想」にふけっていたら,それは「行ならざる行」であって,坐禅でもなんでもない,ということになろう。仮に歩いていても坐禅とまったく同じような境位にあるとしたら,それは,まさに「歩行禅」と呼ぶにふさわしい。
 ここまで「解」を提示してくれば,もう,わたしがなにを言おうとしているのかは,大方の理解をえられたのではないかとおもう。「せぬときの坐禅」「動中の工夫」は,なにも「禅」の世界に限定する必要などまったくない,ということだ。一つの道を追究する姿勢は,どの世界にあっても同じである。たとえば,茶道のいうところの「茶の湯」の工夫も,千利休を引っ張りだしてこなくても,すべては禅の工夫と同じであることはよく知られているとおりである。
 同じ路線でいえば,弓道,柔道,剣道,相撲道,などもまったく同じである。ここでいう「道」はすべて「禅」の精神を根底においていることを意味している。だから,これらはすべて「行」なのである。「礼にはじまって礼におわる」という教えもまた「武道」の根源をなすものである。ここでいう「礼」がなにを意味しているかは,「十牛図」の第十で解きあかされることになろう。それまで意識しておいていてほしいのだが・・・・。
 「見牛──得牛──牧牛という行の相続においてこの問題は特に大切である」・・・・見牛(第三図)という行,得牛(第四図)という行,牧牛(第五図)という行のそれぞれの「相続」において,「せぬときの坐禅」「動中の工夫」が大切である,という。いよいよクライマックスである。これを自分の経験してきたスポーツの問題にそっくり置き換えることができるからだ。
 たとえば,「見牛」。牛は「真の自己」を意味するが,この牛をスポーツの技(わざ)に置き換えてみると,われわれの得意の地平が一気に視野のなかに入ってくる。スポーツの技はなんでもいい。たとえば,鉄棒の蹴上がり。初心者にとってはマジックにみえる。上手な人の蹴上がりほど,なにを,どのようにしているのか,さっぱりわからない。つまり,技が「見えない」のである。しかし,この技を分解して,一つひとつの要素に分けて説明されると,なんとなくわかったような気になる。そこで,部分に分けての反復練習がはじまる。わたしたちは,自分の眼で「見えた」運動しか習得できないのである。だから,まずは「見る」力を養うことが肝要となる。反復練習をかさねるうちに少しずつ技の全体像が「見えてくる」。そうなると,とりあえず,蹴上がりという技の運動経過ができるようになる。これが「得牛」(第四図」の段階である。しかし,粗形成である。まことに粗っぽい技のままである。これに,さらに磨きをかける。もっと細かな技の分節化がなされ(それらが「見える」ようになり),その一つひとつが身についていく。そうして,最終的に,流れるような美しい「蹴上がり」という技が完成する。精形成である。「牧牛」(第五図)の段階である。
 この運動習熟の段階によって現れる「牛」は,自己の「内なる他者」と呼ぶことができるだろう。つまり,意のままにならない身体。すでに習熟した運動をするときの,わたしの身体は意のままになる。しかし,いまだ習熟していない運動をするときには,つねに,この意のままにならない身体,すなわち,自己の「内なる他者」との格闘がはじまる。それを克服した暁には,「内なる他者」はどこかに消え去っていて,あるいは,自己と一体化していて,もはや,意識すらされなくなる。こうした一つひとつのプロセスは,「十牛図」に指し示された禅の境位を高めていくことと,みごとに符号する。
 しかしながら,「行の相続において」という表現が意味するところを,さらに注目しておくことが肝要であろう。「相続」ということばが,禅の世界で用いられると,これはまた特別の意味を帯びてくる。行の「継続」とも,「持続」とも異なる「相続」である。「せぬときの坐禅」「動中の工夫」は,「継続」でも「持続」でもなくて「相続」なのである。ということは,「工夫」というものに鍵がありそうだ。つまり,「工夫」というものは時々刻々に変化していく。その,つねに変化・変容していく「工夫」というものを積み重ねていくには「相続」しかないのだろう。
 「相続」。よくよく眺めてみると,なかなかいいことばである。より優れた技は,満足した時点で,技の精彩を欠く。つねに,創意工夫を重ねて,磨きに磨いてこそ名人の技となる。その技は,「継続」でも「持続」でもなく,まさに「相続」なのだろうとおもう。
 この意味での「相続」は,練習や訓練では得られない世界の話であろう。それよりは,日本の伝統芸能で用いられる「稽古」の方が受け止めやすいようにおもう。つまり,つねに創意工夫を重ねながらの稽古こそ,ここでいう「相続」に値しよう。「差異のある反復」という意味での「稽古」,これがここでいう「相続」ということなのだろう。なんと味わい深い表現ではないか。
 「せぬときの坐禅」「動中の工夫」があって,はじめて「行の相続」は可能となる,という次第である。以上が,とりあえずの,わたし流の「解」である。ということは,このつづきもののブログが終わるころには,さらに思考が深まり,また,違った「解」に到達することになるであろう。そのためにこそ,「せぬときの坐禅」「動中の工夫」を「相続」したいものである。

 

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