午前中に参議院議員選挙を済ませて,午後から表記の「第27回全日本武術太極拳選手権大会・2010」を見物する。
会場は例年どおり東京体育館。全部で三日間開催され,今日が最終日。つまり,決勝が多く組まれていて,もっとも盛り上がる日。今回は「第16回アジア競技大会日本代表選手選考会」を兼ねているので,選手も応援団もたいへんである。とりわけ,最後のプログラムになっていた「自選難度競技」は新国際競技ルールにもとづいて行われる初めてのこころみ,と聞いていたのでこれが見たかった。国際化・グローバル化の道を選んだ太極拳競技がいったいどういう路線を進むのか,わたしにはとくべつの興味があった。いやはや,驚いた,というのが第一印象。
全国の予選を勝ち抜いた男女23名の選手によって競われた。種目は,長拳,南拳,太極拳の3種目。それぞれ男女の優勝者がアジア大会の日本代表となる。だから,選手も応援団もいやがおうでも熱が入る。このときばかりは,観客席から選手たちへのエールも間断なく送られる。技が決まると拍手も起きる。
さすがに,この23名のなかに選ばれた選手たちはレベルが高く,みていても気持ちがいい。動きの切れもいいし,表現力も豊か。「自選難度競技」(規定套路ではなく,自選套路の難度を競うもの)なので,自分で技の組み合わせを考え,演出も考えることになる。つまり,選手の得意な技を,どれだけ美しく見せるか,が競われることになる。よく鍛え抜かれた選手たちばかりなので,演技はみんなみごとなものである。
長拳と南拳は,以前から,飛んだり跳ねたりする動きの激しい套路がつづく。こちらは体操競技のゆか運動に似たところがあって,わたしには馴染みやすかった(見るという点で)。以前は,わたしのつける点数と審判が出す点数はほとんど違わなかった。しかし,今日は違った。それも,かなりのズレがある。その理由は「新国際競技ルール」にある。
それによると,一人の選手の採点を,A組審判,B組審判,C組審判の三つのグループに分かれて採点し,それを集計するという。簡単に説明しておくと以下のとおりである。
A組審判は,動作の質とその他のミスを3人の審判員がチェックする。配点は5点。
B組審判は,演技レベルを3人の審判員がチェックする。配点は3点。
C組審判は,難度動作を3人の審判員がチェック。配点は2点。
これらを集計して,10点満点で採点される。わたしは,ただ,演技の流れなどをみながら「うまいなぁ」とおもえば,前の演技者の点数をもとにして加点する。「へただなぁ」とおもったら,やはり前の演技者の点数から引き算をする。ただ,それだけだった。だから,わたしの判定はA組審判のところしかわからない。つまり,5点分しかわからない,ということ。あとの「演技レベル」も「難度動作」も,細部の規則を知らないのだから,ここに「ズレ」がでてくる。
これをみていて,いまの体操競技の採点とよく似ているなぁ,とおもった。体操競技の点数は,わたしにはまったく不明である。むかし,経験した体操競技の採点方法とはまったく異なる。わけがわからない。だから,見ていて楽しくない。その点,まだ,太極拳の方が素人採点でもかなり近い点数になる。その分,見ていて楽しい。
自選難度競技として行われる太極拳は不思議だ。これだけは考え方の基本が理解できない。太極拳は,陳式にしろ,楊式にしろ,ゆったりとした動作が基本である。しかも,基本となる技の型をつなぎ合わせたものである。だから,いろいろな流派太極拳の技がつぎつぎに演じられることになる。これはこれで見ていて楽しい。しかし,この太極拳が,突然,飛び上がるのである。しかも,高さを競うかのように。おまけに,飛び上がって半回転,一回転,一回転半と,アイス・スケートのフィギュアのように回転して着地するときは「片足」で,「ピタッ」と静止しなければならない。しかも,その着地のときの足の角度が,180度なら180度,ときちんと回転して着地しなければならない,という。これは,みていて笑ってしまった。なにをやってんだか,と。これは,もはや,武術ではない。武術とはなんの関係もない。忍者でもこんなバカなことは考えない。もっともっと合理的である。
回転が足りないとか,回転しすぎとか,は直近でみていないかぎりわからない。観客席からはほとんど無理である。このルールは,だから,二つの欠点をもっている。一つは,武術を無視していること,もう一つは,観客の眼を無視していること。もはや,これは太極拳にして太極拳にあらず,というまったく新しい競技種目が生まれつつある,というべきであろう。
それともう一点,気になったことがある。太極拳の演技者たちの基本動作はほとんど完璧と言っていいほど磨き上げられ,流麗で,美しい。しかし,どこか違う。太極拳ではないのである。それは,かぎりなく舞踊に近い。重心の低さ,足の運び,しなやかさ,目線,腰の回転,手の運び,どれもうまい。しかし,なにかが足りないのである。
あえて言ってしまえば,李老師の太極拳からにじみでてくる,あの「味」がないのである。李老師の太極拳は,見る者のこころもからだも鷲掴みにして,引っさらっていくような,不思議な力がある。会場にいる全観衆が静まり返ってしまうほどの吸引力がある。しかも,それは立派な「武術」であることを主張している。奥の深さが垣間見られるのである。こうした「味」は,点数化はできないものなのであろう。その「味」は見る人のレベルによって(たとえ一流の審判員といえども),それぞれ異なるものなのだろう。ある一人の名人がすべての演技者の「味」を採点するのならば,それは可能であろう。しかし,その客観性は,だれにも判定はできない。新ルールが目指すもの,の中につぎの条項がふくまれている。3.審判員の採点基準を数量化し,客観化をすすめる,と。
こうなってくると,ますます,太極拳がもともとの太極拳から遠ざかっていき,似て否なるものに変化していくことは間違いないだろう。それは,ちょうど,日本の柔道が国際化・グローバル化によって経験した道と同じ道をたどっているようにみえる。いまごろになって,日本の柔道関係者が,国際化した柔道のことを「もはや,あれは柔道ではない」と言わなくてはならなくなってしまったように。そう,世界に広まった「JUDO」は「柔道」ではないのである。そのうち,日本では,「JUDO」の選手権大会と「柔道」選手権大会とを区分して,別の競技として行うようになる日がくるのではないか,とわたしは想像している。それでいいのだ,とおもう。進化するとか,発展するということは,そういうことなのだから。生物学がそのことをみごとに教えてくれる。そして,いつしか自然淘汰されて,適者生存の法則どおり,生き残るものと,死に絶えるものとに分かれるだけのことだ。
柔道もJUDOも面白いという人が大勢いれば,どちらも残って,さらに細胞分裂をして,もっと多くの「ジュウドウ」や「じゅうどー」が生まれてくるのかもしれない。
いいとか,悪いとかは,ここでは問題ではない。太極拳も,いま,大きく「進化」しようとしているだけの話である。このとき,人間の智慧がどのようにはたらくのか,なんのためにはたらくのか,なにをよしとするのか,そこでいかなる取捨選択がなされるのか,わたしには興味津々である。ここにこそ,歴史を考える醍醐味がある。
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