2011年6月9日木曜日

なぜ,いま,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』なのか。

今月の18日(土)の午後に,青山学院大学の教室をお借りして,西谷修さんと一緒に『宗教の理論』(ジョルジュ・バタイユ著,湯浅博雄訳,ちくま学芸文庫)の読解を計画している(詳しくは,わたしのHPを参照のこと)。当然のことながら,なぜ,いま,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』なのか,という問い合わせがわたしのところにやってくる。

そういうことも折り込み済みで,わたしはこの企画を立てた。いまこそ,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』をしっかりと読み込むべきときだ,と。あるいは,ようやくバタイユの『宗教の理論』が受け入れられる情況が,あるいは,時代がやってきた,と。しかも,「3・11」という未曽有の災害を契機にして一気に『宗教の理論』でバタイユが主張していることを理解できる「情況」ができあがった,とわたしは考えている。つまり,ものの見方・考え方を逆転させることなしに,わたしたちは「3・11」以後を生きることはできない,ということに気づいたからだ。

わたしは,かなり早い時期から,このテクストがもっと世の中でまじめに読まれるべきだ,と考えてきた。世間には,バタイユという名を口にしただけで,鼻でせせら笑う「哲学者」は少なくない。わたしは,そういう「哲学者」の何人かに,軽くあしらわれた苦い経験がある。こちらは大まじめにバタイユの話を切り出しているのに,「まあ,あの人も変わった人ですからねぇ」と取り合ってくれない。ならば,ニーチェはどうなんだ,と切り込む。すると,「この人も,ちょっと主流からははずれてますからねぇ」と。これが哲学の主流といわれる「形而上学」にどっぷりと身を浸している哲学者たちの言い分だ。そこから一歩も外に出ようとはしない。なぜなら,「理性」という名の「砦」に囲まれた安住の地であるからだ。そこには人間の「命」という視点が欠落している。つまり,生きものとしての人間の存在をトータルに考える視点が欠けている。

「バタイユは変わった人だ・・・」と?そんなことは百も承知している。その上で,バタイユに挑んでいるというのに・・・・。

バタイユ自身はもっともっと意図的・計画的に自分の思想・哲学を展開した。主流といわれるヘーゲル哲学,とりわけ,『精神現象学』を徹底的に読み込んだ上で,それをいかにして超克していくべきか,と考えた。いな,ヘーゲルを読み込むことによって,みずからの思想・哲学の位置づけが可能となったとさえバタイユは述べている。その結果として,ヘーゲル哲学の「絶対知」の対極に位置づく「非-知」(non savoir)をキー・コンセプトに設定して,まったく新たな哲学体系の構築を試みる。つまり,ヘーゲルのいう「知」(理性,絶対知)を真っ向から否定するところから出発したのだから。このことが,のちの哲学者たちの多くの誤解を招いたようだ。しかし,バタイユの書き残した著作を丁寧に読みこんでいくと,そこには恐ろしいほどのスケールの大きな思想・哲学上の問題提起が仕掛けられていることに気づく。いわゆる「無神学大全」の構想である。

ここで断わるまでもなく,ヘーゲル哲学がヨーロッパ近代の論理を構築していく上できわめて大きな役割をはたしたことは周知のとおりである。つまり,ヨーロッパ近代の合理主義的な考え方の基本はヘーゲルに求めることができる。とりわけ,科学的合理主義はヘーゲルのいう「絶対知」への過剰な信頼なしには語れないだろう。つまり,現代世界を支配しつつある「科学」神話」の根源にあるものの見方・考え方の根底にあるものは,ヘーゲル哲学にその端を発しているといっても過言ではない。この「科学」神話」の一端が,いま,もろくも崩壊しはじめている。

「3・11」以前までは,こうした「科学」神話,すなわち「原発安全」神話が大手を振ってまかりとおっていた(マダラメ君を筆頭に)。しかし,「3・11」を通過したこんにちでは,すでに,そんな「原発安全」神話は間違っていたことを,世界中の多くの人びとが「学んで知った」(マダラメ君もとうとう「間違っていた」と国会で答弁している)。わたしたちは,「3・11」を通過することによって,「科学」一辺倒のものの見方・考え方の悪夢からようやく「目覚めた」というべきであろう。では,この「科学」神話に修正を加えるとしたら,どこからはじめればいいのか。

いま,話をわかりやすくするために「原発安全」神話を例にとり出したが,それは,市場原理を中心とする「経済」主義とも深く深くリンクしていることを忘れてはならない。「科学」も「経済」もわたしたちの「理性」によって支えられている。しかし,その「理性」がどこかでボタンを一つかけ違えたばかりに,最後の最後でボタン穴が一つ余ってしまった。その一つ余ってしまったボタン穴のための「ボタン」はどこにも見当たらないのである(松田道雄)。どこかで狂ってしまった「理性」を,もう一度,原点から立て直さなくてはならない(「生きもの」としての人間理解を),と西谷修はいう(『理性の探求』岩波書店)。そして,同じ論理を『”経済”を審問する』(西谷修編,せりか書房)の第一章でも展開している。

「3・11」以前に,すでに,『未来ははじまっている』(宇沢弘文,内橋克人著,岩波書店)のだ。そのことに多くの人たちは気づいていなかった(気づいていても,気づいていないフリをする知識人も多くいる=「原発安全」を唱えつづけている御用学者たちはその一例)。エッジに立つ批評のできない,ぬるま湯に浸っている「評論家」の多くはそういう人たちだ。しかし,「3・11」を通過したいま,わたしたちは,それ以前まで主流とされてきた考え方(たとえば,「原発推進」という考え方,経済の「金融化」,経済の進歩発展主義,大量生産・大量消費,など)が,もはや通用しないことに,ハタと気づいた。では,それに代わるべき考え方はなにか。そのキー・コンセプトはなにか。

それに代わるべき考え方も方法も見つからない・困難である,といって口を濁す評論家・学識経験者のなんと多いことか(ほんとうなら,ここに実名を挙げておきたいくらいだが,誤解のもとになるので,やめておく。少なくとも,いま,マス・メディアにちやほやされて,大きな顔をしてものを言っている人たちのほとんどは,なんの定見も示すことができないまま,問題を「むつかしいもの」に仕立てあげて,一時を糊塗して平気でいる。そのつもりでご確認いただきたい)。それは,ある意味では,当然の帰結というべきだろう。ヨーロッパ近代の論理(形而上学)で,ヨーロッパ近代の論理(形而上学)がぶちあたった壁を乗り越えることは不可能だから。それとは違うまったく違う論理,すなわち「形而上学」を超克する思想・哲学が必要なのはだれの眼にも明らかだ。

その期待に応える思想・哲学が存在するのに,多くの識者たちは「みて,みない」フリをしている。そう,ジョルジュ・バタイユの思想・哲学だ。ヨーロッパの近代論理主義者は,みんな,バタイユが嫌いなのである。だから,読もうともしない。

しかし,ほんの一握りの識者たちは,しっかりとジョルジュ・バタイユを視野に入れて,「未来ははじまっている」と予言する。たとえば,経済学の領域で。こんにちの経済の「金融化」の隘路から抜け出すには,もう一度,経済とはなにか,という根源的な問いから出発すべきだ,と(宇沢弘文,内橋克人,金子勝,西谷修,ほか)。しかも,その大きなヒントはマルセル・モースの『贈与論』にある,と。このマルセル・モースの『贈与論』をヒントにして,もっと気宇壮大な「経済学理論」を構築しようとしたのがほかならぬジョルジュ・バタイユだ。かれは,モースのいう「贈与」の原点にあるものは「消尽」であると考え,経済のはじまりは,物々交換ではなく,贈与であり,消尽である,と主張する。この贈与や消尽を否定する考え方が「有用性」である。この「有用性」という考え方こそ「理性」が主役を演ずるための舞台装置だったのだ。そして,贈与や消尽を「呪われた部分」として抑圧・隠蔽・排除してしまう。「理性」に「狂気」が忍び込んだとすれば,ここではないか,とバタイユを読みながら,わたしは考える。

そして,バタイユはその理論的裏づけの糸口を,なんとヘーゲルの『精神現象学』から導き出すのだ。それが,『宗教の理論』の冒頭にかかげられたアレクサンドル・コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』からの引用文である。こうして,バタイユは,ヘーゲルを徹底的に批判しつつ継承するという立場をとる。

そのヒントになったものが,ヘーゲルが『精神現象学』で展開している「自己意識」をめぐる議論である。ヘーゲルは『精神現象学』の中で,まずは,動物的な「意識」の問題を論じることからはじめ,やがて,人間の「自己意識」がどのようにして構築されるのか,を取り上げる。この問題を,バタイユはさらに掘り下げ,「動物性」の世界から「人間性」の世界への<横滑り>という概念を用いて論じている。そして,人類が動物から人間になるときに,いったい,なにが起きたのか,と問う。そのきっかけとなったのが,さきほども指摘した『宗教の理論』の冒頭に引用されているアレクサンドル・コジェーヴの,謎かけのような文章である。もう少しだけ触れておけば,コジェーヴの読解のテクストは,ヘーゲルの有名な「主人と奴隷」の議論である。主人を奴隷が乗り越えていく弁証法的なロジックのコジェーヴ的読解を手がかりにして,バタイユは,さらにもう一歩踏み込んで,いかにもバタイユらしい固有の議論を展開する。

かくしてバタイユは,「呪われた部分」と「有用性」の思考に到達し,ヘーゲルとはまったく次元を異にする「自由」の理想に向って飛翔していく。すなわち,「呪われた部分」にこそ人類の理想郷が存在したのだ,と。それが『宗教の理論』に籠められたバタイユのひとつの重要なメッセージではなかったか,とわたしは受け止める。

この「呪われた部分」に封じ籠められてしまった原初の人間にとっての「聖なるもの」に,宗教の源泉をバタイユは見届けている。この「聖なるもの」の出現と「スポーツ的なるもの」の発現とは,ほとんど「同根」ではなかったか,というのがわたしの大きな仮説である。しかも,それを裏付ける根拠が『宗教の理論』のなかには満載されているのだ。つまり,「スポーツ的なるもの」こそ,まさに「消尽」そのものであり,「贈与」そのものであったではないか,と。それは,こんにちわたしたちの眼になじんでいる近代競技スポーツの根源のところに,潜在化しているものだ。それが,ときに「顕在化」する。そのとき,わたしたちは「神の降臨」をみる。すなわち,スーパー・プレイ出現の瞬間のことだ。

ヨーロッパ近代の「科学」はこの「宗教」を否定することからはじまり,いつのまにか「科学」の多くが「宗教」と化してしまった。そして,その宗教化した盲目的な「科学」が破綻をきたした。だとしたら,もう一度,宗教とはなにか,という問いからはじめるべきではないか。経済も科学も,そして「スポーツ文化」も,「3・11」を通過したいま,もう一度,原点に立ち返って議論する必要がある,というのがわたしの考えである。そのキー・ワードは「命」。人間は「生きもの」であり,「命」をまっとうする存在である。その意味で,動物性の枠組みから抜け出すことは不可能なのだ。このことは,コジェーヴの引用文のなかにも明記されている。そのことを徹底的に論じたもの,それがバタイユの『宗教の理論』なのだ。

「3・11」以後を生きるわたしたちの新しい道しるべとなるべき思想・哲学を,わたしはバタイユの『宗教の理論』に求めている。と同時に,それは,21世紀のスポーツ文化論を展開していくための根拠であり,21世紀のスポーツ史研究の大前提でもある。

いま,わたしが18日(土)の企画について考えていることは以上のようなことである。
その詳論については,これから,できるだけ,このブログで取り上げていきたいと考えている。
乞う,ご期待!

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