いま,12時少し前,鷺沼の事務所でこのブログを書いている。東側と西側の窓をそれぞれ5センチほど開けてある。風向きがいいのか,今日はとてもさわやかな風が吹き抜けていく。室温は31℃。からだは熱くほてっているのだが,流れる風がこの熱を奪ってくれる。汗ばんではいるが,汗が流れるほどではない。心地よい風だ。
人間の体温はホメオスターシス(恒常性維持)の機能がはたらいて,つねに一定の体温を保つことができるようになっている。そんなことはみなさんもご承知のとおり。だから,ほうっておいても暑ければ汗を流し,寒ければ鳥肌を立てて,体熱の調節をしている。だから,わたしたちのからだは基本的には暑さ・寒さにたいしてはほうっておいても自動的に調節してくれるようにできている。それでも耐えられないときには,むかしは扇子や団扇で涼をとった。それで長いことやってきたのだ。扇風機を自分の部屋に置けるようになったのは,たしか,40歳をすぎていたころだと思う。いまから30年前は,みんなそんな生活をしていたのだ。
夏休みには,上半身裸になって背中に濡れタオルを背負いながら,必死になってハンス・グロルの翻訳をやっていたことを思い出す。奈良教育大学に転勤になってまもないころだ。もちろん,大学の研究室にもエアコンなどはなかった。だから,あのころの学生さんたちはみんなタオルと団扇をもって教室を移動していた。われわれも同じだった。ちょっとだけ差をつけて,しゃれた扇子を使いながら講義をしていた。それが「ふつう」だった。
この夏は,あのころに戻ればいい,とさっさと覚悟を決めていた。たぶん,電車の車内も暑かろう。ならば,扇子とタオルをもって乗り込めばいい。デパートや本屋(大型の)さんも,少しはエアコンを入れても,そんなには涼しくなることはなかろう。とにかく,ことしの夏はみんな我慢して,節電に励み,来年に備えよう・・・・そうするものだと勝手に思い込んでいた。
しかし,である。この2、3日の猛暑に,さすがにデパートもスーパーも電車もエアコンを入れて,一気に涼しくなっている。今日は,昨日よりもエアコンを強くしているように感じた。いつも,溝の口の丸井の1階を通り抜けして電車に乗り,鷺沼ではスーパーに立ち寄って昼食の食材を買って,事務所にくる。これがわたしの定番のコースである。そこが,今日になって,すべて一段と涼しいのである。いや,ひんやりと寒いのである。この設定温度はだれが決めているのだろうか,と思わず考えこんでしまった。
われわれお客の側からすれば,外気よりほんの少し気温が低いだけで,それで十分に涼しいのである。だから,こんなに冷やす必要はなにもない。いまも,事務所の部屋で,このブログを書いている。室温31℃。風はときおり吹き込んでくるだけ。たぶん,秒速2~3m。風速1m/秒で,体感温度は約1℃といわれている。登山などをしているときには,風速10m/秒であったら,10℃気温よりも低いと思え,とむかし教えられた。いま,部屋にいて,2~3mの風が吹いているとすれば,31℃より2~3℃低い温度を体感しているはずだ。風が吹かないと暑い。しかし,適当な間隔で風は吹いてくる。すると,とても涼しいのである。
人間のからだは,7℃の温度差までは自動的に体温調節ができるように,ホメオスターシスの仕組みができている。これ以上の温度差が起きた場合には,着ているものを脱ぐなり,重ね着をするなりして,体温調節を助けてやる必要がある。
丸井も通過するだけ,電車は7分,スーパーは2,3点の買い物をするだけ。だから,ひんやり感から冷たいなぁへ移るころには,その場を離れるから問題はない。もし,電車で15分以上乗らなければならないとしたら,上着を一枚持って歩かなくてはならない。冷やしすぎである。去年までは,わたしは都心へでかけるときは,かならず上着を一枚持ってでかけた。そうしないと途中でからだ冷えてしまって調子がおかしくなってしまう。そういう馬鹿げたことを,この日本の文明化社会は,なんの疑問ももたずにやってきたのだ。
この構造は,まさしく,原発推進と軌を一にしている。電力は有り余るほどあるからどんどん使え,と。もっと必要なら,原発を増設すればいい。じじつ,そのような計画で進んできていたのだ。そして,有り余る電気料金の徴収分を,あちこちにばら蒔いて「口封じ」につかってきた。その隠蔽工作の実態がいまわたしたちの眼前にひろがっている「事実」だ。いまも臆することなく研究費という名の献金をたくさんいただいた「御用学者」さんたちが代わる代わるテレビにご出演なさって,「原発は安全です」とほざいている。あるいは,「わたしは原発推進でも反原発でもありません」と,さも客観的な立場に立っていますといわぬばかりの,まことに無責任な評論活動を展開している著名人は枚挙にいとまがないほどだ。
電車もデパートもスーパーも,去年並みの冷え方をみると,会社も同じなのか,と想像してしまう。たぶん,窓も開かない欠陥ビルを建てておいて(電力は無限にあるという前提に立って),エアコンを入れなければ仕事にならない,といいわけをすることだろう。この姿勢,これまでの考え方が基本的に間違っていたことが,今回のフクシマで実証されたのだ。だから,このことをこそ大いに反省すべきではないのか。こんな欠陥ビルを建ててしまったのだから,ほかの職場よりも,この際,設定温度が高くても仕方がないと我慢するしかないのだ。その覚悟が求められているのだ。
わたしのような人間ですら,ことしの夏はエアコンは入れない,と決めた。そして,いよいよになれば,背中に濡れタオルを背負えばいい,と覚悟を決めている。若いサラリーマンは,もっともっと我慢ができるはずだ。夏にランニング・シャツ一枚で仕事をしていた,わたしの子供時代の市役所の風景が彷彿とする。小学校の先生も,夏はランニングシャツ一枚で教室の授業をやっていた。
ちょうど,このブログを書きはじめて1時間が経過。
今日はここまで。
ことしの夏は我慢の夏だ。みんながその覚悟をするだけで,電力なんかなんの心配もいらない。そして,原発がなくてもやっていけるという実績を残すべきだ。そうしないと,原発で被曝しながら作業をしている人たちに申し訳がたたない。サラリーマン諸君,頼みますよ。
人間の体温はホメオスターシス(恒常性維持)の機能がはたらいて,つねに一定の体温を保つことができるようになっている。そんなことはみなさんもご承知のとおり。だから,ほうっておいても暑ければ汗を流し,寒ければ鳥肌を立てて,体熱の調節をしている。だから,わたしたちのからだは基本的には暑さ・寒さにたいしてはほうっておいても自動的に調節してくれるようにできている。それでも耐えられないときには,むかしは扇子や団扇で涼をとった。それで長いことやってきたのだ。扇風機を自分の部屋に置けるようになったのは,たしか,40歳をすぎていたころだと思う。いまから30年前は,みんなそんな生活をしていたのだ。
夏休みには,上半身裸になって背中に濡れタオルを背負いながら,必死になってハンス・グロルの翻訳をやっていたことを思い出す。奈良教育大学に転勤になってまもないころだ。もちろん,大学の研究室にもエアコンなどはなかった。だから,あのころの学生さんたちはみんなタオルと団扇をもって教室を移動していた。われわれも同じだった。ちょっとだけ差をつけて,しゃれた扇子を使いながら講義をしていた。それが「ふつう」だった。
この夏は,あのころに戻ればいい,とさっさと覚悟を決めていた。たぶん,電車の車内も暑かろう。ならば,扇子とタオルをもって乗り込めばいい。デパートや本屋(大型の)さんも,少しはエアコンを入れても,そんなには涼しくなることはなかろう。とにかく,ことしの夏はみんな我慢して,節電に励み,来年に備えよう・・・・そうするものだと勝手に思い込んでいた。
しかし,である。この2、3日の猛暑に,さすがにデパートもスーパーも電車もエアコンを入れて,一気に涼しくなっている。今日は,昨日よりもエアコンを強くしているように感じた。いつも,溝の口の丸井の1階を通り抜けして電車に乗り,鷺沼ではスーパーに立ち寄って昼食の食材を買って,事務所にくる。これがわたしの定番のコースである。そこが,今日になって,すべて一段と涼しいのである。いや,ひんやりと寒いのである。この設定温度はだれが決めているのだろうか,と思わず考えこんでしまった。
われわれお客の側からすれば,外気よりほんの少し気温が低いだけで,それで十分に涼しいのである。だから,こんなに冷やす必要はなにもない。いまも,事務所の部屋で,このブログを書いている。室温31℃。風はときおり吹き込んでくるだけ。たぶん,秒速2~3m。風速1m/秒で,体感温度は約1℃といわれている。登山などをしているときには,風速10m/秒であったら,10℃気温よりも低いと思え,とむかし教えられた。いま,部屋にいて,2~3mの風が吹いているとすれば,31℃より2~3℃低い温度を体感しているはずだ。風が吹かないと暑い。しかし,適当な間隔で風は吹いてくる。すると,とても涼しいのである。
人間のからだは,7℃の温度差までは自動的に体温調節ができるように,ホメオスターシスの仕組みができている。これ以上の温度差が起きた場合には,着ているものを脱ぐなり,重ね着をするなりして,体温調節を助けてやる必要がある。
丸井も通過するだけ,電車は7分,スーパーは2,3点の買い物をするだけ。だから,ひんやり感から冷たいなぁへ移るころには,その場を離れるから問題はない。もし,電車で15分以上乗らなければならないとしたら,上着を一枚持って歩かなくてはならない。冷やしすぎである。去年までは,わたしは都心へでかけるときは,かならず上着を一枚持ってでかけた。そうしないと途中でからだ冷えてしまって調子がおかしくなってしまう。そういう馬鹿げたことを,この日本の文明化社会は,なんの疑問ももたずにやってきたのだ。
この構造は,まさしく,原発推進と軌を一にしている。電力は有り余るほどあるからどんどん使え,と。もっと必要なら,原発を増設すればいい。じじつ,そのような計画で進んできていたのだ。そして,有り余る電気料金の徴収分を,あちこちにばら蒔いて「口封じ」につかってきた。その隠蔽工作の実態がいまわたしたちの眼前にひろがっている「事実」だ。いまも臆することなく研究費という名の献金をたくさんいただいた「御用学者」さんたちが代わる代わるテレビにご出演なさって,「原発は安全です」とほざいている。あるいは,「わたしは原発推進でも反原発でもありません」と,さも客観的な立場に立っていますといわぬばかりの,まことに無責任な評論活動を展開している著名人は枚挙にいとまがないほどだ。
電車もデパートもスーパーも,去年並みの冷え方をみると,会社も同じなのか,と想像してしまう。たぶん,窓も開かない欠陥ビルを建てておいて(電力は無限にあるという前提に立って),エアコンを入れなければ仕事にならない,といいわけをすることだろう。この姿勢,これまでの考え方が基本的に間違っていたことが,今回のフクシマで実証されたのだ。だから,このことをこそ大いに反省すべきではないのか。こんな欠陥ビルを建ててしまったのだから,ほかの職場よりも,この際,設定温度が高くても仕方がないと我慢するしかないのだ。その覚悟が求められているのだ。
わたしのような人間ですら,ことしの夏はエアコンは入れない,と決めた。そして,いよいよになれば,背中に濡れタオルを背負えばいい,と覚悟を決めている。若いサラリーマンは,もっともっと我慢ができるはずだ。夏にランニング・シャツ一枚で仕事をしていた,わたしの子供時代の市役所の風景が彷彿とする。小学校の先生も,夏はランニングシャツ一枚で教室の授業をやっていた。
ちょうど,このブログを書きはじめて1時間が経過。
今日はここまで。
ことしの夏は我慢の夏だ。みんながその覚悟をするだけで,電力なんかなんの心配もいらない。そして,原発がなくてもやっていけるという実績を残すべきだ。そうしないと,原発で被曝しながら作業をしている人たちに申し訳がたたない。サラリーマン諸君,頼みますよ。
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