前節で考察したように,戦争が戦士の内在性を回帰させるかにみえて,じつはそうではない,戦士が利益を享受する仕組みなのだ,とバタイユは説く。つまり,戦士の力は「一部分は嘘をつく力」だというわけだ。そして,この「虚偽の性格」は重大な結果をもたらすことになる,と。では,なにが,どのように?か。
戦争は計り知れないほどの大きな荒廃をもたらすことになる。同時に,戦士の激烈な暴力性が内奥性を喚起するかのような錯覚に陥る。が,それはきわめて表面的なことであって,内実はそうではない。戦士は,利益につながる労働として戦争に従事するという意識を,じつに曖昧ではあるけれども,一応は排除している。しかしながら,結果として,戦争は負けた戦士たちを奴隷として捕縛してしまう。こうして捕縛された奴隷は,勝者たちの完全なる「事物」に仕立てあげられてしまうことになる。
こうして,「軍事秩序は,そのような奴隷を一個の商品」にしてしまう。戦士たちの勇気ある行動(とりわけ,戦いの勝利)は,現実秩序を支配的なものにする上で大きな貢献をする。この戦士たちの獲得する「聖なる威信」は,じつは深いところで「有用性」と結びついているのだが,それを押し隠すための装置として機能することになる。つまり,表面をとりつくろうための仕掛けにすぎない,とバタイユは主張する。そして,つぎのようなパンチの効いたことばを投げつける。
「戦士の高貴さとはちょうど淫売婦の微笑と同じような性質のものであって,その真実は利益追求にあるのである。」
ここまで読み進めてきたところで,わたしは立ち往生をしてしまう。なぜなら,スポーツの起源の一つは,この戦闘行為に求めることができるからである。しかも,スポーツ(あるいは,スポーツ的なるもの)が代理戦争的な役割をはたしてきたことも歴史的な事実である。もちろん,ヨーロッパ近代という時代をとおして,スポーツのもつ「激烈なる暴力」は極力排除・隠蔽されていく。しかし,それでもなおスポーツから「戦闘」のイメージは抜きがたく残る。しかも,戦闘にかかわる用語がスポーツ用語としていまも多用されている(いまは死語になってしまったかもしれないが,アタック,キル,など)。それよりもなによりも,わたしの思考のなかで渦巻いていることは,スポーツのヒーローたちに付与される「神的な次元」である。つまり,「神話」作用である。
いまでは,ほとんどの人がなんの意識もなく,ひたすら偉大なるスポーツマンたちの「勝利」を称賛し,絶賛する。その結果,スポーツは勝利至上主義の名のもとで完全に「事物化」し,「商品化」していくことになる。いまや,スポーツに関するありとあらゆるものが「金融化」への道を歩んでいるといっても過言ではない(そのことによる荒廃ぶりは,大相撲をみよ。もちろん,他のスポーツも大同小異である)。こうして,スポーツもスポーツマンも「有用性」という名のもとで,そのもの本来の内実を喪失しつつ,ますます「事物化」が進展していく。
そのゴールは「金融化」だ。そのうち,金メダリストの「精子」や「卵子」が商品として売買される時代がくるのではないか。あるいは,遺伝子が・・・。いやいや,金メダリスト同士が結婚したら,まだ,うまれる前の子供の「遺伝子」が前倒しで「金融化」されていたり・・・といったことも絵空事ではなくなってきている現実がある。
この節の投げかけている問題提起は,わたしにとっては重大そのものである。すなわち,スポーツの世界にいま起きていることが,つまり,わたしたちの視野のうちに入ってくる「表面的なことがら」とは裏腹に,その深いところの根っこでなにが起きているのか,いかなる「化け物」が待ち受けているのか,そこまで思考の触手をのばしていくことが不可避であり,不可欠となるからだ。わたしたちは,いま,いかなる「淫売婦の微笑」の前で目くらましに遇い,真実をごまかされているのだろうか。・・・・原発問題もふくめて。・・・・その根はすべてに通底している。
戦争は計り知れないほどの大きな荒廃をもたらすことになる。同時に,戦士の激烈な暴力性が内奥性を喚起するかのような錯覚に陥る。が,それはきわめて表面的なことであって,内実はそうではない。戦士は,利益につながる労働として戦争に従事するという意識を,じつに曖昧ではあるけれども,一応は排除している。しかしながら,結果として,戦争は負けた戦士たちを奴隷として捕縛してしまう。こうして捕縛された奴隷は,勝者たちの完全なる「事物」に仕立てあげられてしまうことになる。
こうして,「軍事秩序は,そのような奴隷を一個の商品」にしてしまう。戦士たちの勇気ある行動(とりわけ,戦いの勝利)は,現実秩序を支配的なものにする上で大きな貢献をする。この戦士たちの獲得する「聖なる威信」は,じつは深いところで「有用性」と結びついているのだが,それを押し隠すための装置として機能することになる。つまり,表面をとりつくろうための仕掛けにすぎない,とバタイユは主張する。そして,つぎのようなパンチの効いたことばを投げつける。
「戦士の高貴さとはちょうど淫売婦の微笑と同じような性質のものであって,その真実は利益追求にあるのである。」
ここまで読み進めてきたところで,わたしは立ち往生をしてしまう。なぜなら,スポーツの起源の一つは,この戦闘行為に求めることができるからである。しかも,スポーツ(あるいは,スポーツ的なるもの)が代理戦争的な役割をはたしてきたことも歴史的な事実である。もちろん,ヨーロッパ近代という時代をとおして,スポーツのもつ「激烈なる暴力」は極力排除・隠蔽されていく。しかし,それでもなおスポーツから「戦闘」のイメージは抜きがたく残る。しかも,戦闘にかかわる用語がスポーツ用語としていまも多用されている(いまは死語になってしまったかもしれないが,アタック,キル,など)。それよりもなによりも,わたしの思考のなかで渦巻いていることは,スポーツのヒーローたちに付与される「神的な次元」である。つまり,「神話」作用である。
いまでは,ほとんどの人がなんの意識もなく,ひたすら偉大なるスポーツマンたちの「勝利」を称賛し,絶賛する。その結果,スポーツは勝利至上主義の名のもとで完全に「事物化」し,「商品化」していくことになる。いまや,スポーツに関するありとあらゆるものが「金融化」への道を歩んでいるといっても過言ではない(そのことによる荒廃ぶりは,大相撲をみよ。もちろん,他のスポーツも大同小異である)。こうして,スポーツもスポーツマンも「有用性」という名のもとで,そのもの本来の内実を喪失しつつ,ますます「事物化」が進展していく。
そのゴールは「金融化」だ。そのうち,金メダリストの「精子」や「卵子」が商品として売買される時代がくるのではないか。あるいは,遺伝子が・・・。いやいや,金メダリスト同士が結婚したら,まだ,うまれる前の子供の「遺伝子」が前倒しで「金融化」されていたり・・・といったことも絵空事ではなくなってきている現実がある。
この節の投げかけている問題提起は,わたしにとっては重大そのものである。すなわち,スポーツの世界にいま起きていることが,つまり,わたしたちの視野のうちに入ってくる「表面的なことがら」とは裏腹に,その深いところの根っこでなにが起きているのか,いかなる「化け物」が待ち受けているのか,そこまで思考の触手をのばしていくことが不可避であり,不可欠となるからだ。わたしたちは,いま,いかなる「淫売婦の微笑」の前で目くらましに遇い,真実をごまかされているのだろうか。・・・・原発問題もふくめて。・・・・その根はすべてに通底している。
1 件のコメント:
本日の中日新聞朝刊の4面に韓国で卵子売買摘発されるとの見出しを見つけました。
女性の容姿学歴で格付けし、インターネット上で運営していたようです。
実際に「金融化」が始まっているんですね。
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