2011年6月14日火曜日

バタイユ『宗教の理論』読解・その7.「6.祝祭」について

この読解シリーズのクライマックスである。
すなわち,「祝祭」をバタイユはどのように考えていたのか,の読解である。当然のことながら,バタイユの「祝祭」解釈は,これまた独特のものである。少なくとも,わたしにとっては眼からウロコの経験であった。そして,スポーツの本質は「(抑圧されてしまった)内在性への回帰願望の表出である」とする,わたしの仮説に確たる信を与えてくれた節でもある。

しかも,この節でのバタイユの文章は喜々とした躍動感にあふれている。だから,読んでいて快感である。気持ちが落ち込んだら,ここを読むといい。少なくとも,わたしにとっての特効薬である。

この節は,大きく三つのパラグラフで成り立っている。
第一のパラグラフは,祝祭なるものの特質の全体像を,バタイユはじつに美しいことばで歌いあげていく。しかも,このパラグラフの冒頭の一文で,この節でバタイユが言おうとしている意図が明示されている。引いておこう。
「聖なるものはこのように生命の惜し気もない沸騰であるが,事物たちの秩序は持続するためにそれを拘束し,脈絡づけようとする。」
「聖なるもの」は,つまり,内在性は,まるで太陽が惜し気もなく燦々と燃えつづけるように「生命の惜し気もない沸騰である」。しかし,「事物たちの秩序」は,つまり,人間が生きる世俗の現実秩序は,(祝祭を)「持続するためにそれを拘束し,脈絡づけようとする」。すなわち,祝祭での沸騰をあるところでコントロールすることによって,この祝祭の持続が可能となる,とバタイユは説くのである。祝祭のすべてを内在性の沸騰にゆだねてしまうと,それはもはや無秩序状態になってしまって,その祝祭を「持続」することは不可能になってしまうので,そこに若干の抑制がかかることによって祝祭が成立するのだ,とバタイユは説く。ここで暗示されていることは,ここに「人間性」の問題を考えるエキスがある,ということだ。つまり,内在性と事物のバランスのとり方の問題として。しかも,この「聖なるもの」(=内在性)と「事物」(人間性)の葛藤に,わたしは「スポーツ的なるもの」の原初形態の出現をみる。

第二のパラグラフでは,さらに,この問題に深く踏み込んでいく。
たとえば,供犠をきっかけにして一気に「聖なるもの」の炎が燃え上がる。しかし,ここでバタイユは驚くべきことを指摘する。この「聖なるもの」の燃焼には限界がない,と言いつつ「そういう発火状態に適合しているのは人間の生であって,動物性ではない」と指摘する。その上で「内在性に対立する抵抗こそが,その内在性に再び噴出するよう命ずるのである」という。言ってしまえば,発火状態を準備しているのは「事物」を生きる人間の「生」だというのである。その事物(理性)が内在性を抑圧するからこそ,その内在性がより噴出しやすくなるのだ,と。この動物性と人間性の相補関係をどのようなバランスで保っていけばいいのか,これは生きものとしての宿命を生きる人間の永遠の課題なのかもしれない。だから,バタイユはつぎのように述べてこのパラグラフを閉じる。
「・・・・一個の事物であることなしには人間として存在することが不可能であり,また動物的な睡りに回帰することなしには事物の限界を逃れることが不可能であるという事態が常に提起し続ける問題は,祝祭という形によって制限つきの解決を得るのである。」
つまり,両者のバランスをとっているのは「祝祭」という文化装置なのだ,と。

さいごの第三のパラグラフは圧巻である。
祝祭は,供犠をきっかけにして燃焼状態へと開かれていくのだが,その燃焼は「逆方向に働くある種の知恵」によってコントロールされる。
「祝祭の内に炸裂するのは破壊への熱望であるけれども,保守的に作用する知恵がそれを整序し,制限するのである。」
この文章はそのまま,近代スポーツの成立過程を説明するためのテーゼとして用いても,なんの矛盾もない。そして,ついには,わたしのいうふ仮説のクライマックスを迎える。
「一方では,消尽のあらゆる可能性がとり集められる。舞踊(ダンス),詩,音楽そしてさまざまな技芸が繰り拡げられるおかげで,祝祭は目を奪う劇的な昂揚と奔騰の場となり,また時間となる。」
ここでいうところの「さまざまな技芸」のなかに,「スポーツ」の原初形態がふくまれることは,あえて断わるまでもないだろう。しかも,それは純粋なる「消尽」であることも,ここでしっかりと確認しておくべきだろう。
われわれのよく知っている古代オリンピアの祭典競技もまた立派な「消尽」だったのである。それは,まさに,このような祝祭空間のなかで展開されたものであり,そのような「時間」を保証したものである。もちろん,ここでバタイユが述べている祝祭に比べれば,はるかに時代が下ってからの祝祭であるのだが・・・。

ここで再度,確認しておくべきことは,以下のことであろう。
動物性の世界から人間性の世界に<横滑り>してしまったことによって人間は内在性を抑圧した事物と化してしまう。しかし,事物は現実秩序の持続が義務づけられているために,それをかき乱す「死」に怯え,「不安」に陥る。この不安解消のために供犠が執り行われることになる。事物をもう一度,内在性の世界に送り返すために。しかし,この供犠を契機にして,事物のなかに抑圧されていた内奥性が一気に解き放たれ,奔騰する。こうして祝祭の時空間が生まれる。なにものにも制約をうけない酒池肉林の混沌の世界が表出する。しかし,その一方で,この混沌の世界と和合しえない事物の意識が,密かにこれをコントロールすることになる。そうして,あるバランスがとれたところで祝祭の時空間が承認され,持続することになる。

言ってみれば,動物性と人間性のせめぎ合い,これが生きものである人間の避けてとおることのできない宿命でもあるのだ。祝祭はその両者の折り合いをつけるための文化装置として誕生した。スポーツという文化装置もまた,まったく同じ土壌のなかから立ち現れる・・・・とわたしは考える。そして,この地平から,いま一度,「スポーツとはなにか」という根源的な問いを発すること,そして,それに応答する「スポーツ学」「スポーツ史」「スポーツ文化論」を立ち上げること,これが,いま,わたしの考えていることの核心にある。

このことの「是非」についての議論が,こんどの18日(土)の6月東京例会で,できれば幸いである。


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