2011年6月6日月曜日

論文「メディア(論)の憑依」を読む(『美学芸術学論集』第7号)。

昨年の5月の日本記号論学会でお世話になった前川修先生から『美学芸術学論集』第7号(神戸大学文学部芸術学研究室編集・発行)が送られてきた。この手の論文集は読んだことがなかったので,わたしにはとても新鮮だった。特集:テレビゲームの感性的論理──ニューメディアと文化,というとても魅力的なタイトルにまずは惹かれた。

この論集の巻頭を飾る論文が,前川修先生の「メディア(論)の憑依」を読む──ボスト・メディウム的状況における写真,である。まずは,この論文から読みはじめる。やはり,知っている人のものから読むというが,わたしの流儀。
しかし,いきなり,躓いてしまった。タイトルの「憑依」という用語で。論集のタイトルは「憑依」ではなくて,憑の字が,下の心のない字になっている。あれっと思って辞書を引いてみる。憑依はこの表記しか載っていない。だとすると,これは前川先生の造語(専門用語としての)かな,と思ってあちこちその根拠を探してみる。どこにもそれらしき「断り書き」はない。むしろ,「参考文献」をみると,同じ前川先生の論文に「映画に憑く写真,テレビに憑く写真──心霊写真の現在形」というものがあって,ここでは「憑」の字が用いられている。だとすれば,憑依と同じ意味になるはずなのに・・・。と,素人はこんなところで躓いてしまう。困ったものだ。

なぜ,こんなことにこだわるのかといえば,それもわたしの勝手な解釈があってのこと。つまり,憑依といえばエクスターズかな,だとすればバタイユとの接点があるな,メディアやメディア論が憑依するというのはどういう現象のことをいうのだろうか,そうか,ひょっとしたらメディア(論)が近代の呪縛から解き放たれて,まったくの「開かれた」状態になることなのかな,サブタイトルの「ボスト・メディウム的状況における写真」というのはいったいなにを意味しているのだろうか,などなど。

ここまでが,前川先生の論文を読みはじめる前の,表紙と目次を眺めている段階のわたしの想像の世界。が,論文を読みはじめたら,なんのことはない全部「憑依」となっている。なんだ,単純な誤植だったのか,といささか拍子抜け。こういうことはよくあることなのだが,意外に気づかないことが多い。あとで「しまった」と思うのみ。わたしも何回もにがい経験をしてきている。かなり念入りにチェックを入れたつもりなのに,一番目立つところに目溢しが多い。

で,わたしの頭のなかは「憑依」「憑依」とこのことばばかりが一人歩きをしていて,論文の中味が頭に入ってこない。それもそのはず,バタイユのエクスターズとはなんの関係もないところでの論理の展開だったから。前川先生が「霊媒写真」の研究者であるということは聞いてはいたものの,じっさいにその論文を読んだことがない。だから,これまでの蓄積の上にこの論文が成り立っているはずなので,いきなり,この論文を読もうする方が無茶な話だ。でも,どんなことが書いてあるのかぐらいはわかるはずだ,と勇み立つ。しかし,素人には難解で,立ち往生することばかり。

面白いと思ったのは,メディウム(英語でいえばメディアム)ということばの語釈である。情報伝達手段としての新聞・ラジオ・テレビ・インターネット,写真,映画,ビデオ,などはごくふつうに頭に浮かぶ。しかし,このメディウムには,巫女,霊媒も含意されている,という。これは,わたしにとっては新しい発見であった。もっとも,人と人との間をとりもつ「媒体」という意味で考えれば,なんの矛盾もない。そうか,だとすれば,お相撲さんも人と神の間をとりもつ「異形の人」「異能の人」なのだから,お相撲さんもメディウムであり,霊媒なんだ。

とここまで頭がつながったとき,前川先生のさきほど引いた論文のタイトル「映画に憑く写真,テレビに憑く写真」という意味がおぼろげながらみえてくる。そこで,あらためて気合を入れて前川先生の論文を読み直す。内容を要約するだけの力はないので,とりあえず,小見出しだけを紹介しておく。とても魅力的なので。
1.憑依されるメディウム
2.憑依するメディウム
3.メディア論の憑依
4.霊媒=メディウムとしての写真
おわりに

まだ,全部を読んだわけではないので,部分的な紹介というか,わたしの眼に止まった面白そうなところを紹介しておくと以下のとおり。
河田学「(コンピュータ・)ゲームの存在論」はしっかりと読んでみたいと思った。こちらも小見出しを紹介しておくと,
序論
1.テーマ論の試み──模倣としての(コンピュータ・)ゲーム
2.「遊び」としての(コンピュータ・)ゲーム──カイヨワによる「遊び」の定義
3.フィクションとしてのゲーム──ウォルトンの「ごっこ遊び」(メイク・ビリーヴ)の理論
4.ゲームのスペクトル
5.コンピュータ・ゲームの身体性
結語にかえて
とある。その中の図6ゲームのスペクトルでは,現実から暴力性を排除したスポーツをさらに脱身体化すると古典的ゲームになる,そして,そのさきにコンピュータ・ゲームが位置づくのでは,という仮説の提示がわたしの眼を引いた。そして,そのあとに5.コンピュータ・ゲームの身体性の論考がある。わたしの頭のなかは,いきなりタイムスリップして,1793年に書かれた『青少年のための体操』(ドイツの汎愛学校の先生だったグーツムーツの著書)が駆けめぐる。ここには,目測(距離の測定)や大声での朗読も「体操」(Gymnastik)の内容として取り上げられている。
ちなみに河田学先生は京都芸術大学芸術学部専任講師とある。一度,お話を伺ってみたいなぁ,と思った次第。

ときにはこういう冒険もして,頭を揺さぶっておかないと,ますます脳のはたらきが硬直化してしまうので,要注意と自分に言い聞かせている。「美学芸術学」という研究領域が意外なところで,わたしたちの関心事とつながっていることを知っただけでも大収穫だった。もっともっと視野を広げないといけない,と反省ばかり。前川先生はとっくのむかしにわたしの研究領域まで触手を伸ばしていらして,強い関心をもっていらっしゃることを初めてお会いしたときに知った。それにしても,いい人との出会いは嬉しい。幸せである。

0 件のコメント: