2011年6月21日火曜日

バタイユの内奥性に接近する,触れる経験とスポーツ的なるもの。その2.

その1.につづいて,その2.を書いてみたいとおもう。
その前に,その1.をいま読み返してみたら,あまりの文章のつたなさに驚き,大急ぎで応急処置をほどこしておいたので,いくらか読めるものになったつもりである。一度,確認しておいていただけると幸いである。

さて,その2.である。内奥性に接近する,触れるという経験は,さまざまなことばで表現することが可能である。たとえば,自己を超えでていく経験,わたしの身体がわたしの身体であってわたしの身体ではなくなる経験,フロー体験,ランニング・ハイ,ゾーンに入る,スローモーションの世界,幽体離脱,などなど。

18日の「6月例会」では,「自己を超えでていく経験」ということが話題となり,しばしば取り上げられ内容が検討された。かんたんに言ってしまえば,「自己を超えでていく」とは主体を超えでていくことであり,理性を超えでていくことである。つまり,自己意識の管理下から自己の身体がはみだしてしまい,ある意味ではコントロール不能の状態に入っていくことを意味する。コントロール不能という表現からは,かなり危ない状態が想像されてしまうかも知れないが,ここでは「いい意味」での「自己を超えでて」いくことを指す。

よく知られているように,おすもうさんたちが調子のいいときにいうセリフに「からだが動く」というものがある。自分で考える前に,からだが動く,というのである。だから,気がついたときには勝ち名乗りを受けている,と。野球の王貞治は調子のいいときには「ボールが止まってみえる」と言っている。あるいは,「ボールが大きくみえる」とも。そういうときには,からだが勝手に反応してバットがでていくという。

ローマ・オリンピックの金メダリスト(ボートのエイト)で,のちに著名な哲学者となったドイツのハンス・レンクは,金メダルを獲得したときのレースでフロー体験をしたことを,自著の『スポーツの哲学』という本の冒頭でかなり詳しく述べている。それによると,決勝レースの最後の500mくらいのところで,突然,フローの状態に入った,と。ボートの残りの500mといえば,「死ぬほどくるしい」デッド・ゾーンとしてよく知られている。しかし,かれは,このとき恍惚状態でゴールにたどりついたという。しかも,その状態に入った瞬間に,すでに勝利を確信していたという。フローに入った瞬間に,まわりの景色は霞がかかったようにぼんやりとしはじめ,すべてのものがスロー・モーションで見えていた,と。だから,自分のオールさばきも普段よりも細かく分節化された状態で見えているので,じつに細かく修正を加えることができた,とも。そして,オールのひとかきごとに相手の艇との距離が着実に広がっていくのも冷静に見えていた,という。
普段であれば,ボートの残り500mといえば,死に物狂いでオールを漕ぐ場面であり,意識も朦朧としてくるところだという。その苦しさは言語を絶するという。

ボートのオリンピック選手で太宰治に弟子入りして作家となった田中英光は『オリンポスの果実』のなかで,主人公につぎのように言わせている。恋人の彼女から「ボートを漕ぐのはたいへんなんでしょうね」と問われ,「漕いだことのある人には説明しなくてもわかるけれども,漕いだことのない人にはいくら説明してもわかりません」と。もう,生きた心地はない,とも。でも,だから楽しいのだ,と主人公は言う。

わたしは,こういう経験を「死に限りなく接近していく」経験と名づけている。もう,これ以上頑張ったら死んでしまうという,ある意味では「臨死体験」に近い経験がスポーツ実戦のなかではしばしば起こる。つまり,「生と死の境界領域」,すなわち,「グレイ・ゾーン」に自己を超えでていく時空間が広がっているようにおもう。

この領域は,バタイユの内奥性に接近する,触れる経験と,まさに隣接しているのではないか,とわたしは考える。それがまた人間が生きる実在の世界ではないか,と。つまり,生きものとしての人間の生がまっとうされる場ではないか,と。

この問題は,また,視点を変えて考えてみたいと思う。
とりあえずは,今日はここまで。

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