しばらくは時事ネタも新聞ネタも,このブログで書くことを禁欲してバタイユに専念しようと思っていたが,今日の朝日新聞夕刊をみて,黙ってはいられなくなってしまった。恥ずかしながら私見を書かせていただく。
トップ・バッターは見田宗介さん。久しぶりに大きな顔写真入りの記事。「時の回廊」に登場。お顔のことは好みの問題もあるので触れないことにしておく。しかし,ずいぶんとお変わりになりましたね。こういうお顔になられるとは,ちょっと意外でした。わたしが最後にお会いしたのは,故竹内敏晴さんの追悼記念集会のときですから,もう3年が経過しているということでしょうか。そのときも,すでに,奇人にみえました。遅れて駆けつけて,いきなりスピーチをなさって,しかも「トンチンカン」な内容にびっくり仰天。これが,かつて,わたしが愛読した真木悠介の成れの果てか,と。その前に,朝日新聞は竹内敏晴さんの訃報に,見田宗介さんの追悼文を掲載した。それがまた,とんでもない文章だった。竹内さんがなにをどのようになさったのかということの実績についてほとんど触れることなく,10年も前の思い出話でお茶を濁してしまったのである。このときも唖然としてしまった。あまつさえ,竹内さんの没後1周年を記念して藤原書店が季刊誌『環』で竹内さんの小特集を組んだ。そのときもまた,見田宗介さんは,朝日新聞に書いた記事をそのまま転載してお茶を濁した。わたしはもう開いた口がふさがらなかった。この人はもう完全に終わった,と。
その見田宗介さんを,「時の回廊」に取り上げた。しかも,見田宗介「現代社会の理論」,幸福な社会 道筋示した,という見出しのもとで。聞き手・塩倉裕,とあるのでかれがインタビューをして書いたようだ。その意味ではこの記事を書いた記者もまた同罪だ。かつて輝かしい業績を残した学者といえども,いつまでも輝いているとは限らない。そして,1996年に書かれた『現代社会の理論』(岩波新書)は当時にあっては注目もされた。かく申すわたしも熱読したひとりだ。しかし,この新書もいま読むと,すでに色あせてしまって過去の遺物と化している。それを取り上げて,褒めあげ,もう一度,著者の考えを聞こうというのだ。しかも,この記事にみるべき内容はなにもない。第一,これを書いた記者の塩倉さん,おかしいとおもわなかったのでしょうか。そして,それがそのまま記事になる。これは,記者に問うべきか,朝日新聞社の文化欄担当のチーフに問うべきか。いずれにしても,この部局で一応の議論を経て,見田宗介さんをとりあげる「決定」をしているはずだ。だから,わたしは問う。朝日新聞社さん,ほんとうに大丈夫ですか?と。
見田宗介さんとは同世代なので,若いときから,わたしはすごい人がいるものだと尊敬していた。そして,見田さんの本は出版されるとすぐに飛びつくようにして読んできた。そして,大きな影響をうけた。また,それが大きな励みにもなった。だからこそ,残念でならないのだ。こういう無残な姿を目にすることに耐えられないのだ。中沢新一事件以来,見田さん,あなたはもはや時代の寵児ではなくなったのですから。そして,ほんとうの意味で「馬脚」を現してしまったのですから。それをまた承知で,朝日新聞社は「追っかけ」をする,このクレイジーな「ファン」心理がわからない。狂った者同士はなんの違和感もないのかもしれないが・・・・。
セカンド・バッターは,赤坂憲雄さん。なんでまたそろいもそろって,見田さんと同じ日の同じページで登場することになったのでしょう。これもなにかのご縁ということでしょうか。赤坂さんもまた,若いときから彗星のごとく現れて,一世を風靡した学者さんだ。わたしも「東北学」などという理論仮説がとても新鮮だったし,内容が面白かったので「追っかけ」をしたひとりだ。が,あるときから,おやっ?とおもうことがあった。以後,赤坂さんの書かれるものにも批判的に読むようになった。そして,今回のこの記事である。見田さんと違って,赤坂さんはご自分でこの記事を書いておられる。だから,もっと責任重大である。なにが?赤坂さんもまた「わたしは原発推進でも,反対でもない」と書かれた。東浩紀さんと同じだ。このごに及んで(つまり,3・11から3カ月が経過したいまに及んで),いまなお,「原発推進でも,反対でもない」と仰るその神経の太さにわたしは参る。それでいて平気なのだ。いったい,赤坂さん,あなたは,いまも日夜,交代しながら,どうにも制御できなくなってしまった原発と向き合い,放射能を浴びながら,なんとかしなければと命懸けで取り組んでいる「作業員」と呼ばれる人たちの決意と努力を,平然と覚めた目でみることができるんですね。
ほんとうに,ほんとうに,朝日新聞社さん,大丈夫ですか。
もう,これ以上は書かないつもりですが,それにしても,最近の記事のまとめ方は信じられないほどの狂い方をしているように,わたしには見えるのですが・・・。「産官学の癒着が・・・」と朝日新聞が批判的に書く資格があるのだろうか・・・と。朝日新聞さん,あなたもまた同罪ではないですか。自分のことは棚にあげて・・・・。無責任。
断わっておきますが,わたしは50年にわたる朝日新聞の愛読者です。その歴史的変遷(報道内容や報道の姿勢)もともに歩いてきました。が,ここ10年くらいの朝日は驚くべき無節操ぶりです。とくに,3・11以後はみるに耐えられない記事が多くなってきました。もう,とっくのむかしに購読を止めればいいのに,人間は惰性で,慣れ親しんだ新聞から離れられないものなんですね。今月で終わりにしよう,今月こそ・・・と思いつつ,いまだに購読しています。いよいよ,購読打ち切りの時期が迫ってきたなぁ,と思いはじめています。それが朝日新聞のためだ,とおもうようになったからです。
こういう長年の購読者の期待に応えられるような記事を書いてほしいのです。かつての朝日の栄光はどこに行ってしまったのでしょうか。是々非々の歯切れのいい記事が,なぜ,書けなくなってしまったのでしょうか。そういう期待と失望とがないまぜになって,いま,このブログを書いています。猛省を信じつつ・・・・・。
トップ・バッターは見田宗介さん。久しぶりに大きな顔写真入りの記事。「時の回廊」に登場。お顔のことは好みの問題もあるので触れないことにしておく。しかし,ずいぶんとお変わりになりましたね。こういうお顔になられるとは,ちょっと意外でした。わたしが最後にお会いしたのは,故竹内敏晴さんの追悼記念集会のときですから,もう3年が経過しているということでしょうか。そのときも,すでに,奇人にみえました。遅れて駆けつけて,いきなりスピーチをなさって,しかも「トンチンカン」な内容にびっくり仰天。これが,かつて,わたしが愛読した真木悠介の成れの果てか,と。その前に,朝日新聞は竹内敏晴さんの訃報に,見田宗介さんの追悼文を掲載した。それがまた,とんでもない文章だった。竹内さんがなにをどのようになさったのかということの実績についてほとんど触れることなく,10年も前の思い出話でお茶を濁してしまったのである。このときも唖然としてしまった。あまつさえ,竹内さんの没後1周年を記念して藤原書店が季刊誌『環』で竹内さんの小特集を組んだ。そのときもまた,見田宗介さんは,朝日新聞に書いた記事をそのまま転載してお茶を濁した。わたしはもう開いた口がふさがらなかった。この人はもう完全に終わった,と。
その見田宗介さんを,「時の回廊」に取り上げた。しかも,見田宗介「現代社会の理論」,幸福な社会 道筋示した,という見出しのもとで。聞き手・塩倉裕,とあるのでかれがインタビューをして書いたようだ。その意味ではこの記事を書いた記者もまた同罪だ。かつて輝かしい業績を残した学者といえども,いつまでも輝いているとは限らない。そして,1996年に書かれた『現代社会の理論』(岩波新書)は当時にあっては注目もされた。かく申すわたしも熱読したひとりだ。しかし,この新書もいま読むと,すでに色あせてしまって過去の遺物と化している。それを取り上げて,褒めあげ,もう一度,著者の考えを聞こうというのだ。しかも,この記事にみるべき内容はなにもない。第一,これを書いた記者の塩倉さん,おかしいとおもわなかったのでしょうか。そして,それがそのまま記事になる。これは,記者に問うべきか,朝日新聞社の文化欄担当のチーフに問うべきか。いずれにしても,この部局で一応の議論を経て,見田宗介さんをとりあげる「決定」をしているはずだ。だから,わたしは問う。朝日新聞社さん,ほんとうに大丈夫ですか?と。
見田宗介さんとは同世代なので,若いときから,わたしはすごい人がいるものだと尊敬していた。そして,見田さんの本は出版されるとすぐに飛びつくようにして読んできた。そして,大きな影響をうけた。また,それが大きな励みにもなった。だからこそ,残念でならないのだ。こういう無残な姿を目にすることに耐えられないのだ。中沢新一事件以来,見田さん,あなたはもはや時代の寵児ではなくなったのですから。そして,ほんとうの意味で「馬脚」を現してしまったのですから。それをまた承知で,朝日新聞社は「追っかけ」をする,このクレイジーな「ファン」心理がわからない。狂った者同士はなんの違和感もないのかもしれないが・・・・。
セカンド・バッターは,赤坂憲雄さん。なんでまたそろいもそろって,見田さんと同じ日の同じページで登場することになったのでしょう。これもなにかのご縁ということでしょうか。赤坂さんもまた,若いときから彗星のごとく現れて,一世を風靡した学者さんだ。わたしも「東北学」などという理論仮説がとても新鮮だったし,内容が面白かったので「追っかけ」をしたひとりだ。が,あるときから,おやっ?とおもうことがあった。以後,赤坂さんの書かれるものにも批判的に読むようになった。そして,今回のこの記事である。見田さんと違って,赤坂さんはご自分でこの記事を書いておられる。だから,もっと責任重大である。なにが?赤坂さんもまた「わたしは原発推進でも,反対でもない」と書かれた。東浩紀さんと同じだ。このごに及んで(つまり,3・11から3カ月が経過したいまに及んで),いまなお,「原発推進でも,反対でもない」と仰るその神経の太さにわたしは参る。それでいて平気なのだ。いったい,赤坂さん,あなたは,いまも日夜,交代しながら,どうにも制御できなくなってしまった原発と向き合い,放射能を浴びながら,なんとかしなければと命懸けで取り組んでいる「作業員」と呼ばれる人たちの決意と努力を,平然と覚めた目でみることができるんですね。
ほんとうに,ほんとうに,朝日新聞社さん,大丈夫ですか。
もう,これ以上は書かないつもりですが,それにしても,最近の記事のまとめ方は信じられないほどの狂い方をしているように,わたしには見えるのですが・・・。「産官学の癒着が・・・」と朝日新聞が批判的に書く資格があるのだろうか・・・と。朝日新聞さん,あなたもまた同罪ではないですか。自分のことは棚にあげて・・・・。無責任。
断わっておきますが,わたしは50年にわたる朝日新聞の愛読者です。その歴史的変遷(報道内容や報道の姿勢)もともに歩いてきました。が,ここ10年くらいの朝日は驚くべき無節操ぶりです。とくに,3・11以後はみるに耐えられない記事が多くなってきました。もう,とっくのむかしに購読を止めればいいのに,人間は惰性で,慣れ親しんだ新聞から離れられないものなんですね。今月で終わりにしよう,今月こそ・・・と思いつつ,いまだに購読しています。いよいよ,購読打ち切りの時期が迫ってきたなぁ,と思いはじめています。それが朝日新聞のためだ,とおもうようになったからです。
こういう長年の購読者の期待に応えられるような記事を書いてほしいのです。かつての朝日の栄光はどこに行ってしまったのでしょうか。是々非々の歯切れのいい記事が,なぜ,書けなくなってしまったのでしょうか。そういう期待と失望とがないまぜになって,いま,このブログを書いています。猛省を信じつつ・・・・・。
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