2011年6月12日日曜日

バタイユ『宗教の理論』読解・その3.「2.神的世界の非現実性」について

「神的世界」のイメージをバタイユがどのように描いているのか,ここはいささか慎重にならざるをえない。たとえば,前節の最後のところでバタイユは,供犠執行者の呟きとして,つぎのように語らせている。

「内奥においては,この私は神々の至高な世界に,神話が示すような至高性の世界に属している。すなわち激烈な力が荒れ狂う,利害や打算を離れた雅量の世界に属している。ちょうど私の妻が諸々の私の欲望に属しているのと同じように。生贄の獣よ,私はおまえをそのいる世界から引き戻す。つまりおまえが事物の状態に還元された形でしか存在できず,だからおまえの内奥の本性にとっては外的な意味しか持てないような世界からおまえを引き戻すのだ。そして私はおまえを神的世界との親密な交わりへと,あるいは全て存在するものの深い内在性との親密な交わりへと立ち返らせる。」

供犠執行者の「内奥」は「神々の至高な世界」に,あるいは,「至高性の世界」に属しているという。ということは,生贄の獣もまた,その内奥においては供犠執行者と同じ「神々の至高の世界」や「至高性の世界」に属していることになる。だから,生贄の動物を事物の状態から内奥の世界に引き戻すと,供犠執行者はいう。そして,「神的世界との親密な交わり」へと,あるいは「深い内在性との親密な交わり」へと立ち返らせる,という。ということは,「内奥性の世界」も,「神々の至高の世界」も,「至高性の世界」も,「深い内在性の世界」も,そして「神的世界」も,すべて一連の「世界」とバタイユはとらえているようだ。つまり,そこには確たる境界線はなく,みんな自他の区別のない,曖昧模糊とした世界としてイメージされていることがわかる。

だとすれば,神的世界が「非現実」的なものであることは,あらためて断るまでもないことだ。しかし,なにゆえに,ここで「神的世界の非現実性」という節を立てて,このことを論じなくてはならないのか。その意図は,つぎのようなところにある,と類推するのだが・・・。つまり,供犠は事物としての「現実」を否定することによって成立するものなのだが,生贄となる動物の「客観的な現実」というものがきわめて曖昧なものでしかない(確認のしようがない)。だから,「供犠にまつわる領界には,なにやら子供っぽい無動機性という様相がつきまとう」とバタイユはいう。そして,事物が破壊されて「内在的な内奥性へと回帰することは,当然の帰結として意識が朦朧と曇ることを含んでいる」という。

この「子供っぽい無動機性」と「意識が朦朧と曇ること」とが,「内在的な内奥性へと回帰」する場合には不可欠だ,ということが確認できれば,わたしとしては満足である。

なぜなら,「スポーツ的なるもの」の発現する現場がこのようなところにあった,と確認することができたことになるからである。


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