2011年6月12日日曜日

バタイユ『宗教の理論』読解・その2.「1.供犠が応じている必然性,供犠の原理」について

供犠とはいったいどういうことなのか。なにゆえに,神さまにいけにえを捧げなくてはならないのか。なにゆえに,仏さまに初物(農産物)を供える習慣があるのだろうか(わたしは禅寺で育ったので,こどものころから疑問に思っていた)。

周囲の大人たちに聞いてみると,神さまや仏さまに感謝するためだ,という。こういう自然の恵をいただいて,わたしたちはいまも元気に生活しています,という報告とこれからもよろしくというご挨拶だ,と。つまり,感謝と予祝の意味がある,とのちに書物で知ることになる。しかし,それでもまだなんとなく不明瞭だった。

古代ギリシアの祭典競技の一つ,オリンピア祭でも,生きた牛をいけにえとして捧げていた。ゼウス神殿の前で牛の首を刎ね,その血を祭壇のあちこちに塗りつけ,胴体を解体して,みんなで焼いて食べてしまう。これは祭典の公式行事としても行われたし,選手たちが必勝祈願を兼ねて牛をいけにえにして捧げたりもしている。その数たるやたいへんなものだった,とものの本に書いてある。神さまは,洋の東西を問わず,よほど「いけにえ」がお好きなのだ,とずっと考えてきた。

しかし,バタイユはそうは言わない。しかも,驚くべき仮説を提示する。わたしは天地がひっくり返るほど驚いた。しかも,瞬時にして納得してしまったのである。眼からウロコであった。こんにちのわたしたちの思考のベクトルとはまったくの正反対なのである。こういう世界の見方,認識の仕方があったのか,と感極まってしまった。
この節の冒頭でバタイユはつぎのように書き出している。
「収穫の初物を供犠として献上したり,一頭の家畜を供犠に捧げたりするのは,事物たちの世界から植物や動物を引き戻すためであり,そして同時に農耕者や牧畜者を引き戻すためである。」

この文章を理解するためには,この「Ⅲ.」にいたる「Ⅰ.」と「Ⅱ.」の章でのバタイユの議論が前提となっている。この引用文を読み解くためのキーは「事物たちの世界から植物や動物を引き戻すため」というところにある。もっと絞れば,「事物たちの世界」ということになろう。では,この「事物たちの世界」とはどういうことなのか。

人類が動物性の世界から抜け出してきて人間性の世界を構築し,植物を栽培し,動物を飼育するようになる。このとき,人間は植物の本来のあり方を否定して「栽培」をはじめる。つまり,人間の意のままになる「所有物」として取り扱うようになる。このことを,バタイユは,植物が「事物」になる,と表現する。同じように,動物もまた「飼育」されるようになると,それは人間の「所有物」となり「事物」となる。つまり,植物や動物が,それぞれ本来の「生」をまっとうするのではなくて,人間の都合のいいように利用される「事物」として囲いこまれてしまう,というわけだ。もっと言ってしまえば,栽培植物も飼育動物も,みんな人間に従属する「事物」となる,ということだ。

のみならず,人間もまた,植物や動物とともに内在性を生きていたのに,そられを「事物」にしてしまったために,みずからもまた内在性を生きることができなくなり,「事物」と化してしまうことになる。こうして,人間性の世界が構築される。こうして,栽培植物や飼育動物は人間の手によって本来の「生きもの」の世界(動物性の世界)から引き離されてしまう。同時に,人間もまた本来の「生きもの」の世界から引き離されてしまう。

その結果,なにが起こったか。ここが,この『宗教の理論』がめざす核の部分になる。事物になってしまった人間は,折あるごとに「内在性」への回帰願望が頭をもたげることになる。つまり,生物としての「生きもの」である人間は,当然のことながら,事物としてのみ生きることに満足できなくなる。そのことは,栽培植物も飼育動物も同じであろうと人間は推測する。だとしたら,定期的に栽培植物や飼育動物を「内在性」(動物性)の世界に引き戻してやる必要がある。同時に,農耕者も牧畜者も同じように「内在性」(動物性)の世界に引き戻すことが必要となる。そのための儀礼が「供犠」だというのである。

「動物性」と「人間性」の端境期,あるいは,境界領域こそ,宗教が立ち現れるハイマートなのだ。その仲立ちをする儀礼が「供犠」だというわけだ。このように「供犠」がはじまる「必然性」,あるいは,「供犠」の「原理」が理解できたときに,わたしのなかの根源的な疑問が一気に瓦解した。古代オリンピアの祭典競技もまた,「動物性」への回帰願望の表出として編み出された文化装置だったのだ。

だとすれば,わたしの大きな仮説の一つである「聖なるもの」(宗教的なるもの)と「スポーツ的なるもの」とは「同根」であった,という根拠の一つをここに求めることができる。

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