2011年9月29日木曜日

中国・故宮博物館の裏の景山公園で太極拳の稽古。

9月24日(土)は,まずは天安門広場を振り出しに,故宮博物館,景山公園,天壇公園,オリンピック記念公園とまわる。てんこ盛りのプランである。しかし,いま振り返ってみると,意外にのんびりと散策してきたなぁ,という印象。そのようにRさんが気配りをしながら,うまくアレンジしてくれたのだろう。昨日の万里の長城よりもはるかに長い距離を歩いているのに,そんなに多く歩いた印象がない。みんな元気そのもの。

この日,尋ねたところはどこを取り上げてみても,みんな書きたいことだらけ。それらをうんと禁欲して,景山公園で太極拳の稽古をしたことを書くことにしよう。

中国にくる前にみんなで稽古をしたのは14日(水)だから,もう10日間も太極拳から遠ざかっている。出発前には,中国の人たちが毎朝集まって思いおもいのことを楽しんでいるという公園にでかけて,そこに紛れ込むようにして太極拳の稽古をやろう,とNさんもわたしも張り切っていた。しかし,旅の途中にそんな余裕もあらばこそ,毎晩のように夜更かしをしているので,朝食の時間に間に合わせるのが精一杯。だから,この間,一度もまともな稽古はできなかった。

たった一回だけ,麗江のホテルで少しばかり早めに起きることができたので,部屋からでてみると,ホテルの中庭で李老師が一人で柔軟体操をしているではないか。勇んでそこに入れてもらって,わたしも参加。24式の稽古を二人だけではじめる。ちょうどそのころ,Nさんが現れ,Kさんが現れ,結局,みんなで24式の稽古をした。なんとも気持のいいものである。しかし,ここではひととおり軽く流して終わり。すぐに朝食に向う。

景山公園での太極拳は,さきにも書いたように,天安門広場から歩きはじめて故宮博物館を通り抜け(ものすごい人込みのなか),景山公園の山の上まで登って景観を楽しんだあとの稽古となった。だから,すでに,相当に疲れているはずだ。にもかかわらず,もののはずみで稽古をすることになった。それには理由がある。

案内をしてくれているRさんが,ここは比較的静かだから太極拳をみせてくれませんか,とスペシャル・オーダー。これに応えなかったら男が廃るとばかりに,稲垣さん,やりましょう,とNさん。わたしは人前でやるのはあまり好きではない。静かだとはいえ観光地。いくらでも観光客はすぐ近くを通りすぎていく。Nさんは,Rさんの恩義に応えなくてはならない,という純な気持からすでに準備体操に入っている。わたしが躊躇していると,早くやれ,とばかりに目配せがくる。Kさんは素直に準備体操をはじめている。

いつものような念入りな体操はできなかったが,それなりに太極拳のできるからだにしたところで,気功からはじめる。やはり,昨日の万里の長城を歩き,今日も相当の距離を歩いている脚筋の疲労がずっしりと重い。でも,はじめた以上はあとには引けない。気功の稽古が終わったところで,3人,きちんと位置どりを決めて24式をはじめる。気持を太極拳に集中させるように努力しているのだが,やはり,すぐ近くを通る人たちの視線が気になる。できるだけ,見ないようにして太極拳に集中する。ふと,みやるとNさんはとても気持よさげに太極拳に没入しているではないか。ああ,この人は,すでに,こういうときからして別人だ,とわかる。わたしのような俗物とは基本が違う。Kさんはとみやると,Kさんも淡々と太極拳と向き合っている。

わたしは,あれこれ余分なことばかり考えているので,太極拳も自分の納得のいくようには進展しない。そうすると,ますます,不満が募る。ほんとうはもっと上手いのだが・・・,と。でも,それは全部,自己責任なのだが・・・・。その間,Rさんが興味深そうにじっとみている。そして,ときおり,カメラを構えてシャッターを切っている。そんなことも気になって,とうとう最後まで集中できないまま,終わってしまう。まことに不本意そのもの。

それでも,Rさんは「素晴らしい」といって褒めてくださる。しかも,「こんなにたくさんの所作があるんですね」という。もっと,簡単なものだと思っていたようだ。仕方ないので,「簡化24式」といって,これがもっとも短いものです,とわたし。そして,早速,満足にできなかったことの「いい訳」をはじめる,わたし。それをにこにこ笑いながら聞いていたNさんは「これが実力です」ときっぱり。

なるほどなぁ,と納得。どんなにいい訳をしたところで,いま,行われた表演が,ここでの「実力」。それ以上でも,それ以下でもない。でも,人間は,少しでも自分のことを高く評価してもらいたがる。そういう欲望がある。だから,すぐに,いつもはもっと上手なんだが・・・,などと余分ないい訳をする。これは悪いクセだ。そこを,すでに,通過しているNさんはやはり偉いものだと感心。

俗物のわたしは,もっともっとこういう場での稽古が必要なのだ,と逆に反省。「場数を踏む」ということばがある。やはり,いろいろの経験を積み上げながら,太極拳もほんものに近づくことができるのだろう。そういう経験もしないで上手になろうというのが間違っている。どこでも,いつでも,変わることなく淡々と太極拳ができるようにならなくてはほんものではない。

「万理一空」と琴奨菊がいうとおり。かれは,たった27歳にして,すでに,その境地なのだ。立派なものだ。お相撲さんも,サッカー(なでしこ)も,そして,Nさんが極めている学問の世界も,さらには,能面アーティストとしての道を極めているKさんも,はたまた,わたしたちを案内してくださっているRさんの道(社会人類学)も,みんな同じところをめざしているに違いない。太極拳も,その点では,すこしも違わない。

こんなことを,からだで知った,初めての経験でした。
とてもいい経験でした。これからも,もっと積極的に,チャンスがあったら,どんな「場」でも胸を借りるつもりでやるようにしよう。

そういえば,われらの李老師は,頼まれればどこでも表演を行うと言っていた。最高の稽古の「場」だから,と。よほどのことがないかぎり断ったことはない,とも。あの名人にしてそうだ。わたしのような太極拳の青二才がご託を並べるような場合ではない。よし,これからは,どこでも,そのときにしかできない大事な稽古だと思って挑戦することにしよう。

と,立派な宣言をしたものの・・・・。三日坊主にならぬよう・・・・。わがこころを戒めるのみ。戒心。これはわが亡父の僧名でもある。

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