節電解除後,またぞろ不穏な雰囲気が漂いはじめているように思う。これは,わたしだけが感じていることなのだろうか。そうではなくて,みんな「あれっ?」と,なにかを感じているはずである。つまり,どこか変なのである。
国民の80%が「脱原発」を求めているというのに,政府与党も野党も,「脱原発」を唱えようとはしない。少なくとも,そういう声は聞こえてこない。むしろ,基本的には「原発推進」だ。いったい,政治家の眼ん玉はどこについているのだろうか。国民の大多数の意志をまったく無視して,ある特定の利害のためにだけ政治家はソロバンを弾いている。とんでもないことだ。
それと同時に国民の方も,少しずつ,「脱原発」の箍がゆるみはじめているように思う。そして,大きな流れとしては,「3・11」以前のライフ・スタイルにもどりつつある。そんなことをしてしまっていいのだろうか。「3・11」以前のライフ・スタイルが奇怪しかったからこそ,そのトータルのツケとしてフクシマの原発事故が起きたのだ,ということを忘れてはならない。
身近な話をしよう。
田園都市線のダイヤを「3・11」以前にもどしつつあります,9月〇〇日をもって,完全に旧ダイヤにもどします。詳しくは当社のホームページをご覧ください」という車内アナウンスが,電車に乗るたびに聞こえてくる。それが,さも当然のことであるかのごとくに。しかし,節電対策ダイヤでの運行に,なにか不都合が生じたのだろうか。
電車の車内の電灯もいつのまにか全部,点灯している。昼間の話である。たしかに,地下にもぐることの多い路線なので,昼でも車内の電灯は必要ではある。しかし,全部,点灯する必要はない。節電期間中は,半分くらいに点灯を減らしていたはずだ。それで,なんの不自由もなかった。それを,なんの反省(点検・検討)もなく,そっくり旧にもどして,平然としているようにみえる。
デパートの中も同じだ。大抵のところが旧に復しつつある。しかし,ところどころに点灯しない蛍光灯が残っているところもある。それでなんの不便も感じない。それでいいのだ。そんな中で,異様な明るさで店内を煌々と照らしだしているコンタクト・レンズの専門店がある。正直に言って,まぶしい。思わず眼を背けてしまう。つまり,まわりが灯を落しているのに,なにを考えてか,明るすぎる。思わず,この店のオーナーは原発推進派か,とからだが反応してしまう。
こんなところで消費される電気の量は大したことはない,と思う。しかし,問題はそういうことではない。電気が足りているのだから,どんなに贅沢に使ってもいいのだ,という「3・11」以前のライフ・スタイルに無意識のうちにもどっていってはならないのだ。なぜなら,そのライフ・スタイルが,そのまま原発稼働の原動力となっていくからだ。つまり,ニーズがあるのだから,それに応答しなくてはならない,という原発推進派の立場を正当化してしまうことになる。そうではなくて,無駄な電気は使わない,という毅然たるライフ・スタイルを「3・11」以後を生きるわたしたちは確立すべきなのだ。
これこそがフクシマの事故がわたしたちに提示した最大の教訓ではないのか。ここを改めないかぎり,電力は無限に必要となってしまうだろう。管見ながら,わたしの知っているかぎり,世界でもっとも電気を贅沢に消費している国は日本以外にはない。ヨーロッパの文明先進国のどの国に行ってみても,地下鉄の構内の灯も,デパートの灯も,日本よりははるかに「暗い」。それでいて,なんの不都合もないのだ。それを当たり前としている。
ヨーロッパの公共の設備で,エスカレーターが常時動いているところを見つけることは至難の技だ。人が乗っていないときは,いつも,止まっている。人が乗ると動きはじめる。降りると,すぐに止まる。デパートでも同じだ。これが当たり前である。人が乗っていないのに,なぜ,エスカレーターが動いているのか,とかつてウィーンから日本にやってきた友人が不思議そうな顔をして,わたしに尋ねたことがある。そのときまで,わたしは,なんの疑問もいだいたことはなかった。
そのウィーンのあるオーストリアという国は,原発を建造したけれども,最終的に稼働させるかどうかという国民投票をして,「Nein」(No)となり,そのまま凍結されている。原発なしでこんにちまできている。それでいてなにも不自由はない,立派な文明国である。
ついでに言っておけば,わたしがかつて在外研究員として暮らしたことのあるウィーンの人びとは,紙と水をとても大事に使う。無駄をしてはいけない,とわたしなどは何回も叱られたことがある。その紙も水も,オーストリアには足りないのではない。そうではなくて,それらは輸出品として外貨を稼がなくてはならないから,自分たちは無駄使いしてはいけない,というのだ。
わたしたち日本人は,いつのまにか,水も紙もいくらでもあると誤解している。ティッシュ・ペーパーをこれほどふんだんに消費している国はほかにはないのではないか,とわたしは思う。もちろん,紙の無駄遣いは環境破壊につながる,という知識はもっている。しかし,生活習慣としては,ほとんど身についてはいない。ここが問題なのだ。水も同じだ。水道の水を洗面器にためて,朝,顔を洗う人は,いま,どれだけいるだろうか。水道の水を流しっぱなしにして,歯をみがき,顔を洗う。これで平気な人が圧倒的多数を占めている。共同生活(合宿など)をしてみるとよくわかる。
まずは,こうした,日本人のほとんど慣習行動となってしまっている悪しきライフ・スタイルから改めていかなくてはならないだろう。それが「3・11」以後を生きるわたしたちの第一歩ではないのか。いたずらに「3・11」以前のライフ・スタイルにもどることを目指してはならない。それは,自分で自分の首を締めることになる。
「脱原発」をめざすということは,まずは,「3・11」以前のライフ・スタイルを徹底的に洗い出して,無駄をはぶくこと,そこからはじめなくてはなるまい。行政改革(無駄をはぶく)を求めるということは,みずからのライフ・スタイルの改革(無駄をはぶく)をも目指さなくてはならないだろう。まずは「かい(こざと偏に鬼)より始めよ」である。
もう一度,確認しておこう。
安易に「3・11」以前のライフ・スタイルにもどってはならない。
国民の80%が「脱原発」を求めているというのに,政府与党も野党も,「脱原発」を唱えようとはしない。少なくとも,そういう声は聞こえてこない。むしろ,基本的には「原発推進」だ。いったい,政治家の眼ん玉はどこについているのだろうか。国民の大多数の意志をまったく無視して,ある特定の利害のためにだけ政治家はソロバンを弾いている。とんでもないことだ。
それと同時に国民の方も,少しずつ,「脱原発」の箍がゆるみはじめているように思う。そして,大きな流れとしては,「3・11」以前のライフ・スタイルにもどりつつある。そんなことをしてしまっていいのだろうか。「3・11」以前のライフ・スタイルが奇怪しかったからこそ,そのトータルのツケとしてフクシマの原発事故が起きたのだ,ということを忘れてはならない。
身近な話をしよう。
田園都市線のダイヤを「3・11」以前にもどしつつあります,9月〇〇日をもって,完全に旧ダイヤにもどします。詳しくは当社のホームページをご覧ください」という車内アナウンスが,電車に乗るたびに聞こえてくる。それが,さも当然のことであるかのごとくに。しかし,節電対策ダイヤでの運行に,なにか不都合が生じたのだろうか。
電車の車内の電灯もいつのまにか全部,点灯している。昼間の話である。たしかに,地下にもぐることの多い路線なので,昼でも車内の電灯は必要ではある。しかし,全部,点灯する必要はない。節電期間中は,半分くらいに点灯を減らしていたはずだ。それで,なんの不自由もなかった。それを,なんの反省(点検・検討)もなく,そっくり旧にもどして,平然としているようにみえる。
デパートの中も同じだ。大抵のところが旧に復しつつある。しかし,ところどころに点灯しない蛍光灯が残っているところもある。それでなんの不便も感じない。それでいいのだ。そんな中で,異様な明るさで店内を煌々と照らしだしているコンタクト・レンズの専門店がある。正直に言って,まぶしい。思わず眼を背けてしまう。つまり,まわりが灯を落しているのに,なにを考えてか,明るすぎる。思わず,この店のオーナーは原発推進派か,とからだが反応してしまう。
こんなところで消費される電気の量は大したことはない,と思う。しかし,問題はそういうことではない。電気が足りているのだから,どんなに贅沢に使ってもいいのだ,という「3・11」以前のライフ・スタイルに無意識のうちにもどっていってはならないのだ。なぜなら,そのライフ・スタイルが,そのまま原発稼働の原動力となっていくからだ。つまり,ニーズがあるのだから,それに応答しなくてはならない,という原発推進派の立場を正当化してしまうことになる。そうではなくて,無駄な電気は使わない,という毅然たるライフ・スタイルを「3・11」以後を生きるわたしたちは確立すべきなのだ。
これこそがフクシマの事故がわたしたちに提示した最大の教訓ではないのか。ここを改めないかぎり,電力は無限に必要となってしまうだろう。管見ながら,わたしの知っているかぎり,世界でもっとも電気を贅沢に消費している国は日本以外にはない。ヨーロッパの文明先進国のどの国に行ってみても,地下鉄の構内の灯も,デパートの灯も,日本よりははるかに「暗い」。それでいて,なんの不都合もないのだ。それを当たり前としている。
ヨーロッパの公共の設備で,エスカレーターが常時動いているところを見つけることは至難の技だ。人が乗っていないときは,いつも,止まっている。人が乗ると動きはじめる。降りると,すぐに止まる。デパートでも同じだ。これが当たり前である。人が乗っていないのに,なぜ,エスカレーターが動いているのか,とかつてウィーンから日本にやってきた友人が不思議そうな顔をして,わたしに尋ねたことがある。そのときまで,わたしは,なんの疑問もいだいたことはなかった。
そのウィーンのあるオーストリアという国は,原発を建造したけれども,最終的に稼働させるかどうかという国民投票をして,「Nein」(No)となり,そのまま凍結されている。原発なしでこんにちまできている。それでいてなにも不自由はない,立派な文明国である。
ついでに言っておけば,わたしがかつて在外研究員として暮らしたことのあるウィーンの人びとは,紙と水をとても大事に使う。無駄をしてはいけない,とわたしなどは何回も叱られたことがある。その紙も水も,オーストリアには足りないのではない。そうではなくて,それらは輸出品として外貨を稼がなくてはならないから,自分たちは無駄使いしてはいけない,というのだ。
わたしたち日本人は,いつのまにか,水も紙もいくらでもあると誤解している。ティッシュ・ペーパーをこれほどふんだんに消費している国はほかにはないのではないか,とわたしは思う。もちろん,紙の無駄遣いは環境破壊につながる,という知識はもっている。しかし,生活習慣としては,ほとんど身についてはいない。ここが問題なのだ。水も同じだ。水道の水を洗面器にためて,朝,顔を洗う人は,いま,どれだけいるだろうか。水道の水を流しっぱなしにして,歯をみがき,顔を洗う。これで平気な人が圧倒的多数を占めている。共同生活(合宿など)をしてみるとよくわかる。
まずは,こうした,日本人のほとんど慣習行動となってしまっている悪しきライフ・スタイルから改めていかなくてはならないだろう。それが「3・11」以後を生きるわたしたちの第一歩ではないのか。いたずらに「3・11」以前のライフ・スタイルにもどることを目指してはならない。それは,自分で自分の首を締めることになる。
「脱原発」をめざすということは,まずは,「3・11」以前のライフ・スタイルを徹底的に洗い出して,無駄をはぶくこと,そこからはじめなくてはなるまい。行政改革(無駄をはぶく)を求めるということは,みずからのライフ・スタイルの改革(無駄をはぶく)をも目指さなくてはならないだろう。まずは「かい(こざと偏に鬼)より始めよ」である。
もう一度,確認しておこう。
安易に「3・11」以前のライフ・スタイルにもどってはならない。
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