2011年9月27日火曜日

「たばこ文化」がいまも健在。中国・昆明。

「昆明はいいところだ」と絶賛したのは,今回の中国旅行に同行したNさん。
Nさんは,たばこ愛好家。といってもそんなにヘピーではない。しかし,「ちょっと一服」をこよなく愛する人。だから,あるとき,ふっと「たばこ」が吸いたくなる。そうなると,いてもたってもいられなくなる。が,なにかに夢中になっていると,たばこのことはすっかり忘れていられるのだから健全派だ。わたしも若いころにはたばこを吸っていたので,よくわかる。

そんなNさんが「昆明はいいところだ」を連発。
その理由は以下のとおり。

中国・雲南省の昆明市は,たばこの名産地。むかしから,男の大半はたばこを吸ってきた,という。その習慣はいまも健在。だから,町ゆく人の多くがたばこをくわえている。かつての,日本の社会と同じ風景を,いまもみることができる。だから,Nさんは,どこでもたばこが吸える。日本では肩身の狭い思いをしていたNさん。ここ,昆明市にきたら生き生きとしている。街中のあちこちにたばこの灰皿がセットしてある。Nさんは,妙な抑圧を受けることなく,のびのびとたばこを吸うことができる。じつに嬉しそうだ。

それだけではない。昆明市では,知らない人に道でなにか尋ねるときには,まず,たばこを薦める。そして,火をつけてあげる。お互いに一服したところで,これこれのことを知りたいのだが・・・・と切り出す。すると,相手はとても親切に応答してくれるという。要するに「贈与」なのだ。この「たばこ」を薦めるという「贈与」が,いまも,立派に生きている。人間関係を円滑に進めるための小道具としての役割を立派にはたしている。それが,昆明市だ。

昆明に住む男性は,金持ち・貧乏に関係なく,たばこは最高の銘柄のものと安いものの両方をポケットに忍ばせている。そして,自分で吸うたばこは安いもの(あるいは,自分の好みのたばこ)を,他人にものを尋ねるときには,最高の銘柄品を「一服いかがですか」と薦める。たばこ愛好者であれば,文句なく「ありがとう」と言って,この「贈与」を受け取る。そして,にこやかに会話がはじまる。

たばこの効用は,もともとは他人とのコミュニケーションをよくすることにある。アメリカ・インディアンの,かつての社会では,知らない人が尋ねてくると,最初に,挨拶代わりにまずはたばこを薦める。それから要件に入る。つまり,みんな友だちになるための「儀礼」の一つなのだ。しかも,きわめて重要な「おもてなし」なのだ。

昆明に到着した夜は,早速,Rさん一族が集まって,わたしたちを歓迎してくれた。すると,Rさんの義兄(姉さんの旦那さん)が,Nさんにたばこを薦める。Nさん,にっこりとそれをいただき,すぐに,自分のポケットから日本製のたばこをとりだして薦める。もちろん,相手は心得たもので,珍しい日本製のたばこをとても喜んでいる。お互いにことばを交わすことはできなくても,もう,こころを許しあう友だち同志になっている。

しばらくたって,この義兄さんがわたしにもたばこを薦めてくれる。しかし,わたしはたばこは吸いません,と断わる。ああ,そうか,と相手は残念そう。わたしも,なんだか気まずい思い。そうです。折角の「贈与」を断わったわけだから。このときばかりは「しまった!」と思う。たとえ,たばこを吸う習慣がなくても,ここは「儀礼」としても,たばこを戴くべきだった,と反省。そうすれば,同じ仲間として認知してもらえたのに・・・・。折角のチャンスを無駄にしてしまった。残念。

わたしは「呑兵衛さん」なので,居酒屋などで隣り合わせた知らない人にお酒を薦められれば喜んでいただく。その代わり,こちらからも一献,どうぞ,と薦める。こうして,飲み屋では,初対面同士でもすぐに仲良しになれる。こういうことはよくわかっているので,たばこでもまったく同じだ,ということはよくわかる。

つい,この間まで,日本でも「たばこ」を薦めあう習慣は立派に生きていた。しかし,いつの間にか「たばこ害毒論」が世の中に浸透してしまい(医学的な根拠はまったくない,という論文を書いた人がいて,それを否定する論文はいまだに書かれていない),世の中から一斉に「たばこ」が排除されてしまった。だから,たばこ愛好者は「喫煙所」なる囲い込みの中でしか吸うことができなくなってしまった。まことにみじめな姿となってしまった。

Nさん,曰く。「あんなところではたばこを吸ってもうまくもなんともない」「きれいな空気があってこそ,はじめてたばこは美味しくなる」と。だから,「喫煙所」では,できることなら吸いたくない,とも。その気持ちもよくわかる。わたしは,かつてはたばこ愛好者だった。たとえば,重い荷物を背負って,ようやく山の頂上に着いたときの「一服」の味のよさを知っている。いまでは,山の頂上でもたばこは禁止になってしまった。頂上のはずれのところに喫煙所が指定されている。そこからは,いい景色を眺めることはできない。

日本は,あるときから,人間関係よりも健康を重視する方向に舵を切った。わたしは,このことに大反対である。健康に害があるという確たる根拠もないまま,人間関係を軽視することの愚を犯すようなことは,できるだけ避けるべきだ。だから,日本の社会は,禁煙運動がはじまって以来,人間関係はますます疎遠になってしまっている。その結果,みんな,自分のこと(健康を筆頭に)しか考えなくなってしまった。いわゆる自己中心主義への引き金の一つが「たばこ排除」にある,とわたしは考えている。だから,むしろ「困ったものだ」とさえ考えている。

たばこは他者との関係性を大事にする重要なアイテムの一つなのだ。つまり,他者との開かれた関係性を前提にした立派な「文化」なのだ。

ところが,ここ中国・昆明では,どこに行っても灰皿が置いてある。みんなで会食する個室にも灰皿は置いてある。ホテルの室内も同様。そして,みんな,堂々と,たばこの交換をし,ぷかーりとたばこを吸いながら楽しげに会話をはじめる。わたしはその隣に坐っていても,とてもいい雰囲気を共有することができる。同席の女性たちも,誰一人として不愉快そうな顔をする人はいない。みんな楽しそうに,にこやかに同じ空気を吸っている。たばこの「けむり」よりも,会話重視の人間関係の楽しさを大事にしている。

どちらがより「健全な」社会であるかは,少し考えればわかることだ。
中国・昆明には,いまも,立派な「たばこ文化」が生きている。

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