今城塚古墳は高槻市の北側の山と南側の平地の中間くらいの台地に位置します。そこから平地に向かってくだって行ったところに野見神社があります。それが高槻市野見町に鎮座している野見神社です。小じんまりとした清楚な神社です。
しかし,ここの神社の入り口に立っている碑文を読んで,おやっ,と思いました。それによると,上宮天満宮にある野身神社を合祀して,それ以後,この神社を野見神社と呼ぶことになった,と書いてあります。では,以前はなんという名の神社だったのか,という疑問がすぐにわきました。
そこで社務所の窓口で聞いてみました。すると,以前は牛頭天王社と言っていました。祭神は須佐之尊(素盞鳴尊)です。スサノオノミコトと牛頭天王(ゴズテンノウ)とは同一神ですので,この名で呼ばれていたとのこと。しかし,そこに上宮天満宮にある野身神社の祭神である野見宿禰をこちらに移して合祀したので,それを機会に牛頭天王社から野見神社と名前を変更した,というのです。そして,驚いたのは,こちらから問う前に「なぜ,野見宿禰を祭神として合祀したのか,その理由はわかりません」と言って,ガラス戸を締められてしまいました。
おやおやと思いましたが,同時に,「やはり」とひらめくものがありました。どこか奥歯にものがひっかかった印象が強く残りました。なぜか,野見宿禰の話には深入りしたくない,という話のようです。どうしてなのだろうか,わたしの疑問はますます増大していきます。なにかがそこに隠されている。秘密のなにかがある,と。
たとえば,この野見神社(それまで牛頭天王社と呼ばれていた)のある地名は野見町といいます。しかも,この地に野見一族が住んでいたので,この地名が残ったという記録をわたしはすでに確認しています。ですから,いまもその流れを汲む人びとが大勢住んでいるとしてもなんの不思議もありません。むしろ,その方が自然です。でも,そのあたりのことは,これからの調査をまつしかありません。
が,面白いことに,社務所の前に置いてあった野見神社の社報「斎ひ槻(いわいつき)」には,つぎのような記述があります。
従来より氏地に居住されておられる方を対象とした氏子様には個別にご案内させていただいておりました諸活動の案内及び特典ですが,氏地外にお住まいの皆様に対しても,今後神社祭事の尚一層の充実・発展を図るため・・・・・
という具合です。「氏地に居住している氏子様」という表現をみて,びっくり仰天です。ここで,わたしの脳裏にピンとくるのは,奈良県の柳生の里の話です。この柳生の里では,氏子以外の人は居住が許されていない,と聞いています。氏地内の学校に勤務している先生であっても,家を建ててそこに居住することは許されない,とか。ですから,氏地外から通うか,下宿をさせてもらうしか方法はありません。そして,氏地内で生まれ育った人であれば氏地の外で長く住んでいても,いつでももどってきて家を建てることはできる,という話です。奈良の山奥にいくと,氏子や垣内(かいと)だけで構成されている集落があちこちにいまも存在します。
一般的に祭神を素盞鳴尊にしている小さな神社の多くは,最初にその地に住みついた祖先を祖神とする,といわれています。ですから,全国津々浦々にいたるまで「素盞鳴尊」を祭神とする小さな神社があります。
このように考えてみますと,高槻市野見町の住民は,どういう人たちなのだろうか,とその内実が知りたくなります。これも,こんごの調査をまつことにしたいと思います。
もし,野見町に住む氏子さんの多くが,野見宿禰にゆかりの人たちだとしたら,牛頭天王社の祭神に野見宿禰を合祀することになんの依存もないはずですし,むしろ,大歓迎だったのではないかと思います。いやいや,氏子さんたちの強い希望があって,この合祀がかなったのではないか,とわたしは考えたいところです。
なぜ,このように考えるのか,その理由については,このつぎのブログで書いてみたいと思います。今日のところは,ここまで。
しかし,ここの神社の入り口に立っている碑文を読んで,おやっ,と思いました。それによると,上宮天満宮にある野身神社を合祀して,それ以後,この神社を野見神社と呼ぶことになった,と書いてあります。では,以前はなんという名の神社だったのか,という疑問がすぐにわきました。
そこで社務所の窓口で聞いてみました。すると,以前は牛頭天王社と言っていました。祭神は須佐之尊(素盞鳴尊)です。スサノオノミコトと牛頭天王(ゴズテンノウ)とは同一神ですので,この名で呼ばれていたとのこと。しかし,そこに上宮天満宮にある野身神社の祭神である野見宿禰をこちらに移して合祀したので,それを機会に牛頭天王社から野見神社と名前を変更した,というのです。そして,驚いたのは,こちらから問う前に「なぜ,野見宿禰を祭神として合祀したのか,その理由はわかりません」と言って,ガラス戸を締められてしまいました。
おやおやと思いましたが,同時に,「やはり」とひらめくものがありました。どこか奥歯にものがひっかかった印象が強く残りました。なぜか,野見宿禰の話には深入りしたくない,という話のようです。どうしてなのだろうか,わたしの疑問はますます増大していきます。なにかがそこに隠されている。秘密のなにかがある,と。
たとえば,この野見神社(それまで牛頭天王社と呼ばれていた)のある地名は野見町といいます。しかも,この地に野見一族が住んでいたので,この地名が残ったという記録をわたしはすでに確認しています。ですから,いまもその流れを汲む人びとが大勢住んでいるとしてもなんの不思議もありません。むしろ,その方が自然です。でも,そのあたりのことは,これからの調査をまつしかありません。
が,面白いことに,社務所の前に置いてあった野見神社の社報「斎ひ槻(いわいつき)」には,つぎのような記述があります。
従来より氏地に居住されておられる方を対象とした氏子様には個別にご案内させていただいておりました諸活動の案内及び特典ですが,氏地外にお住まいの皆様に対しても,今後神社祭事の尚一層の充実・発展を図るため・・・・・
という具合です。「氏地に居住している氏子様」という表現をみて,びっくり仰天です。ここで,わたしの脳裏にピンとくるのは,奈良県の柳生の里の話です。この柳生の里では,氏子以外の人は居住が許されていない,と聞いています。氏地内の学校に勤務している先生であっても,家を建ててそこに居住することは許されない,とか。ですから,氏地外から通うか,下宿をさせてもらうしか方法はありません。そして,氏地内で生まれ育った人であれば氏地の外で長く住んでいても,いつでももどってきて家を建てることはできる,という話です。奈良の山奥にいくと,氏子や垣内(かいと)だけで構成されている集落があちこちにいまも存在します。
一般的に祭神を素盞鳴尊にしている小さな神社の多くは,最初にその地に住みついた祖先を祖神とする,といわれています。ですから,全国津々浦々にいたるまで「素盞鳴尊」を祭神とする小さな神社があります。
このように考えてみますと,高槻市野見町の住民は,どういう人たちなのだろうか,とその内実が知りたくなります。これも,こんごの調査をまつことにしたいと思います。
もし,野見町に住む氏子さんの多くが,野見宿禰にゆかりの人たちだとしたら,牛頭天王社の祭神に野見宿禰を合祀することになんの依存もないはずですし,むしろ,大歓迎だったのではないかと思います。いやいや,氏子さんたちの強い希望があって,この合祀がかなったのではないか,とわたしは考えたいところです。
なぜ,このように考えるのか,その理由については,このつぎのブログで書いてみたいと思います。今日のところは,ここまで。
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