毎週金曜日に発行される『週刊読書人』のことし最後の号がとどいた。朝から興奮しながら読んだ。久し振りの快感。
一面トップは「柄谷行人氏ロングインタビュー<『哲学の起源』刊行を機に>。大きな顔写真をみて,ああ,老人の顔になってきたなぁ,と思って年齢をみたらわたしより若いことを知り,びっくりである。これまでずっとわたしより年配の人だと思い込んでいた。が,そうではなかった。早くから注目され,多くの仕事をしてこられたので,わたしよりもずっと年上の人だと思っていた。が,そうではなかった。これは意外な発見。
いつも楽しみにしているのは,どの本を,だれが,どのように批評するのか,ということだ。今週は三つの書評がわたしの目を引いた。
ひとつは,合田正人による鈴木順子著『シモーヌ・ヴェイユ 「犠牲」の思想』(藤原書店)。最近,読んだばかりの本だったので,合田さんがどのような批評を展開するのか,とても興味があった。わずかしかないスペースに,あれもこれもと書き込んでいくので,かなり難解な,抽象的な表現が多くなる。これはある程度は仕方のないことだ。でも,前半部分のほめ言葉から,後半部分に入るとかなり手厳しくなる。わたしは,このブログでも取り上げだように,後半に入るにしたがって,鋭さと同時に,それはどうかと思う部分が多くなり,最後の終章にいたっては,ほとんど絶望的だった。さすがに合田さんはそこまでは書いていないが,それでもかなりそれに近い表現をしている。たとえば,「本書の最後の部分で言及されているバタイユやモースの「犠牲」ないし「供犠」との対決が今後要求されるかもしれない」は,わたしとまったく同感である。このことについても,わたしのブログで触れているので,参照していただきたい。
ふたつには,やまだようこによる鎌田東二著『古事記ワンダーランド』(角川学芸出版発行)。鎌田さんは,もうずいぶん前になるが,わたしの所属しているスポーツ史学会で特別講演をしていただいたことがある。そのご縁で,この人の独特のコスモロジーに立つ論考を何冊か読ませてもらっている。ある意味では隠れファンのひとりでもある。そんな親しみをもっているので,やまだようこさんの書評をとても興味深く読んだ。「うた」の観点から読みほぐす,優れた入門書としても,という小見出しにも惹かれて,やはり,買って読もうという気にさせられてしまった。よく知られているように『古事記』をどう読むかはとてもむつかしい。つまり,虚と実の区別がつかないのである。そこを「うた」の観点から踏み込んでいこうとした鎌田さんの読解は,やはり,魅力的だ。いま,ちょうど野見宿禰のことを考えつづけているので,この本は参考になるかもしれない。
みっつめは,姜信子さんによる辺見庸著『明日なき今日』(毎日新聞社)。冒頭の見出しに大きく「覚悟を迫る書」と黒地に白抜きの文字が躍る。「おまえはことばのために死ねるか?」という小見出しもあって,文字どおり迫力満点。姜さんの気魄が,この書評のどのことばにも乗り移り,一分の隙もなく,わたしに迫ってくる。いかにも姜さんらしい矜持が光る。ことしの奄美自由大学で初めてご本人にお会いし,ああ,こういう人だったのか,となぜかひどく納得させられた。とくに,深夜,みんな寝てしまってからもつづいた川満信一さんを囲む3人の女性の輪のなかにわたしも加わっていて,とても興奮したことを思い出す。そのとき,姜さんは,まわりの興奮とは別の世界にいるかのように耳を傾け,ことば少なに,これぞという決めのことばを発していたように記憶する。そのとき,姜さんは「わたしは徹底して頭の人間なので,そこからいかにして抜け出すか,そして魂(ということばを用いたかどうかは定かではない)の人間になりたい」という趣旨の発言をされた。このことばが強く印象に残っている。そんなことを思い出しながら,この書評を読んだ。
姜さんはつぎのように書く。
覚悟を迫る書である。
辺見庸は言う。ニッポン人は,国に棄てられても,国にしがみつく。原発安全神話,米軍抑止力神話,経済成長神話,皇軍不敗神話,天皇神話,もう終わったはずの近代の発想と絡み合うさまざまな神話に身を委ねて,「個」であることをみずから捨てる。そして,いまや,目の前には虚無,真暗で何もない空虚。
ほら3・11以降,福島の乳牛の廃棄処分の乳に白く濁った川のように,白濁したかのような世の中で,われらはますます目を白く濁らせて生きているじゃないか。悲惨なリアリティのその表面だけが見栄えよくコーティングされていくそのスピードで,なんの痛みもないかのように,あっという間に記憶も薄まっているじゃないか。すべての倫理も正義も飲みこんでゆく巨大な海綿のようなもののなかで,破滅の自覚のないまま滅びつつあるじゃないか。たちこめる死の匂いが見事に脱臭されてゆくなかで,ことばも嘘くさく脱臭されるばかりじゃないか。われわれは狂いつつあるじゃないか・・・。そんな辺見庸の声を,ひりひりと聴く自分がいる。
じつは,辺見庸の本も,ほとんど欠かさず好んで読んできた。かれの全体重をかけた生きざまがそのまま文章になって紡ぎだされる,身を切るような文章に,いつも圧倒されてきた。だから,姜さんが「覚悟を迫る書である」と書いた瞬間から,なぜか,わたしのからだは身構えている。やはり,読まずにはすまされない,と。
真っ正面から辺見と向き合った姜さんの批評。著者も著者なら評者も評者だ。一歩も譲ろうとはしない。真剣勝負がそこにある。そのピンと張りつめた緊張感が,わたしの怠惰な感性を目覚めさせる。こういう書評を,わたしもいつかは書けるようになるのだろうか。ほんとうに「批評」することのレベルに到達できるのだろうか,と考えてしまう。
なぜなら,今福さんの『ブラジルのホモ・ルーデンス』サッカー批評原論を読んでから,「スポーツ批評」という土俵を遅ればせてがら,なにがなんでもつくらなくてはいけない,と考えはじめいまもその試行錯誤がつづいているからだ。
こんなことまで思い起こさせる姜信子さんの書評に接して,わたしは幸せである。来年の奄美でふたたびお会いすることはできるのだろうか。楽しみである。
ということで,今日のところはここまで。
一面トップは「柄谷行人氏ロングインタビュー<『哲学の起源』刊行を機に>。大きな顔写真をみて,ああ,老人の顔になってきたなぁ,と思って年齢をみたらわたしより若いことを知り,びっくりである。これまでずっとわたしより年配の人だと思い込んでいた。が,そうではなかった。早くから注目され,多くの仕事をしてこられたので,わたしよりもずっと年上の人だと思っていた。が,そうではなかった。これは意外な発見。
いつも楽しみにしているのは,どの本を,だれが,どのように批評するのか,ということだ。今週は三つの書評がわたしの目を引いた。
ひとつは,合田正人による鈴木順子著『シモーヌ・ヴェイユ 「犠牲」の思想』(藤原書店)。最近,読んだばかりの本だったので,合田さんがどのような批評を展開するのか,とても興味があった。わずかしかないスペースに,あれもこれもと書き込んでいくので,かなり難解な,抽象的な表現が多くなる。これはある程度は仕方のないことだ。でも,前半部分のほめ言葉から,後半部分に入るとかなり手厳しくなる。わたしは,このブログでも取り上げだように,後半に入るにしたがって,鋭さと同時に,それはどうかと思う部分が多くなり,最後の終章にいたっては,ほとんど絶望的だった。さすがに合田さんはそこまでは書いていないが,それでもかなりそれに近い表現をしている。たとえば,「本書の最後の部分で言及されているバタイユやモースの「犠牲」ないし「供犠」との対決が今後要求されるかもしれない」は,わたしとまったく同感である。このことについても,わたしのブログで触れているので,参照していただきたい。
ふたつには,やまだようこによる鎌田東二著『古事記ワンダーランド』(角川学芸出版発行)。鎌田さんは,もうずいぶん前になるが,わたしの所属しているスポーツ史学会で特別講演をしていただいたことがある。そのご縁で,この人の独特のコスモロジーに立つ論考を何冊か読ませてもらっている。ある意味では隠れファンのひとりでもある。そんな親しみをもっているので,やまだようこさんの書評をとても興味深く読んだ。「うた」の観点から読みほぐす,優れた入門書としても,という小見出しにも惹かれて,やはり,買って読もうという気にさせられてしまった。よく知られているように『古事記』をどう読むかはとてもむつかしい。つまり,虚と実の区別がつかないのである。そこを「うた」の観点から踏み込んでいこうとした鎌田さんの読解は,やはり,魅力的だ。いま,ちょうど野見宿禰のことを考えつづけているので,この本は参考になるかもしれない。
みっつめは,姜信子さんによる辺見庸著『明日なき今日』(毎日新聞社)。冒頭の見出しに大きく「覚悟を迫る書」と黒地に白抜きの文字が躍る。「おまえはことばのために死ねるか?」という小見出しもあって,文字どおり迫力満点。姜さんの気魄が,この書評のどのことばにも乗り移り,一分の隙もなく,わたしに迫ってくる。いかにも姜さんらしい矜持が光る。ことしの奄美自由大学で初めてご本人にお会いし,ああ,こういう人だったのか,となぜかひどく納得させられた。とくに,深夜,みんな寝てしまってからもつづいた川満信一さんを囲む3人の女性の輪のなかにわたしも加わっていて,とても興奮したことを思い出す。そのとき,姜さんは,まわりの興奮とは別の世界にいるかのように耳を傾け,ことば少なに,これぞという決めのことばを発していたように記憶する。そのとき,姜さんは「わたしは徹底して頭の人間なので,そこからいかにして抜け出すか,そして魂(ということばを用いたかどうかは定かではない)の人間になりたい」という趣旨の発言をされた。このことばが強く印象に残っている。そんなことを思い出しながら,この書評を読んだ。
姜さんはつぎのように書く。
覚悟を迫る書である。
辺見庸は言う。ニッポン人は,国に棄てられても,国にしがみつく。原発安全神話,米軍抑止力神話,経済成長神話,皇軍不敗神話,天皇神話,もう終わったはずの近代の発想と絡み合うさまざまな神話に身を委ねて,「個」であることをみずから捨てる。そして,いまや,目の前には虚無,真暗で何もない空虚。
ほら3・11以降,福島の乳牛の廃棄処分の乳に白く濁った川のように,白濁したかのような世の中で,われらはますます目を白く濁らせて生きているじゃないか。悲惨なリアリティのその表面だけが見栄えよくコーティングされていくそのスピードで,なんの痛みもないかのように,あっという間に記憶も薄まっているじゃないか。すべての倫理も正義も飲みこんでゆく巨大な海綿のようなもののなかで,破滅の自覚のないまま滅びつつあるじゃないか。たちこめる死の匂いが見事に脱臭されてゆくなかで,ことばも嘘くさく脱臭されるばかりじゃないか。われわれは狂いつつあるじゃないか・・・。そんな辺見庸の声を,ひりひりと聴く自分がいる。
じつは,辺見庸の本も,ほとんど欠かさず好んで読んできた。かれの全体重をかけた生きざまがそのまま文章になって紡ぎだされる,身を切るような文章に,いつも圧倒されてきた。だから,姜さんが「覚悟を迫る書である」と書いた瞬間から,なぜか,わたしのからだは身構えている。やはり,読まずにはすまされない,と。
真っ正面から辺見と向き合った姜さんの批評。著者も著者なら評者も評者だ。一歩も譲ろうとはしない。真剣勝負がそこにある。そのピンと張りつめた緊張感が,わたしの怠惰な感性を目覚めさせる。こういう書評を,わたしもいつかは書けるようになるのだろうか。ほんとうに「批評」することのレベルに到達できるのだろうか,と考えてしまう。
なぜなら,今福さんの『ブラジルのホモ・ルーデンス』サッカー批評原論を読んでから,「スポーツ批評」という土俵を遅ればせてがら,なにがなんでもつくらなくてはいけない,と考えはじめいまもその試行錯誤がつづいているからだ。
こんなことまで思い起こさせる姜信子さんの書評に接して,わたしは幸せである。来年の奄美でふたたびお会いすることはできるのだろうか。楽しみである。
ということで,今日のところはここまで。
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