本を終わりの方から読むということがあってもいいと前から思っている。とりわけ,同じテクストの二度目,三度目の読み込みのときには有効だと,以前から思っていた。このシモーヌ・ヴェイユのテクストもそれに該当する,そういう本だと思う。
テクストの全体像が見えてきてからの再読解には,むしろ,その方が有効だ。『根をもつこと』の再読解には,ことのほか,そういう読み方が要求されているように思う。このブログの前回の読解も,一番大事と思われるところからはじまった。そして,その読み込みをさらに深くするためには,その前段でどのような思考が展開されているのか,そこを確認する必要がある。
ここでも,その伝にならい,前回のブログのつづきを追ってみることにしよう。読解・その1.で引用した文章のすぐ前には,つぎのような文章がある。
テクストの全体像が見えてきてからの再読解には,むしろ,その方が有効だ。『根をもつこと』の再読解には,ことのほか,そういう読み方が要求されているように思う。このブログの前回の読解も,一番大事と思われるところからはじまった。そして,その読み込みをさらに深くするためには,その前段でどのような思考が展開されているのか,そこを確認する必要がある。
ここでも,その伝にならい,前回のブログのつづきを追ってみることにしよう。読解・その1.で引用した文章のすぐ前には,つぎのような文章がある。
・・・・・全面的な犠牲の瞬間にあってさえ,いかなる集団にたいしても糧にたいして払うべき敬意に類する敬意しか払うべきではない。
しかるに役割の転倒が生じるのは稀ではない。ある種の集団は糧となるどころか,逆に魂を食らいつくす。このような場合,そこには社会的な病がある。第一の義務は治療を試みることだ。状況しだいでは外科的手段に着想を得る必要もあろう。
この点でも,集団の内部にいると外部にいるとを問わず,義務は同一である。
集団がその成員の魂に充分な糧を与えないこともある。その場合は改善策が必要となる。
あるいはまた,死んだ集団も存在する。魂をむさぼり食らうこともないが,糧を与えて養うこともない。一時的な仮死ではなく息絶えているのが確実なら,その場合にかぎりこれらの集団を滅ぼすべきである。
引用文の冒頭にある「全面的な犠牲の瞬間にあってさえ」というのは,ヴェイユがスペイン人民戦争の兵士として出願し,銃をもった経験がその背景にある。フランコ将軍派に対抗する人民派にみずからの存在のすべてを犠牲として捧げたこと,そして,人民派に与することこそ魂の生の欲求にしたがう「義務」であると考え,行動したヴェイユの姿勢がそこには籠められている。そういう場合にあっても,「糧にたいして払うべき敬意」以外は,すべて意味はないとヴェイユは断言する。この指摘はきわめて重要である。
しかし,そこを区分けするのは容易ではない。だから,「役割の転換が生じるのは稀ではない」とヴェイユは指摘する。そして「ある種の集団は糧となるどころか,逆に魂を食らいつくす」という。こういう文章に出会うとわたしの全身に電気が走る。わたしの経験してきた体育会系の少なからぬ集団が,これにみごとに該当するからである。「糧となるどころか,逆に魂を食らいつくす」事例を,わたしは不幸にして多く知っている。もちろん,ヴェイユは,スポーツの世界のことを念頭に置いてこの文章を書いているわけではない。そうではなくて,もっと一般的な集団の事例を念頭において,この問題を取り上げていることは言うまでもない。
役割が転換してしまった集団について,「そこには病がある」とヴェイユは指摘する。つまり,魂の生の欲求にたいして糧をもたらさない集団は「病がある」と断言する。だから,「治療」が必要なのだ,と。なんと明解なことか。しかも,それがわれわれにとっての第一の「義務」なのだ,と。その義務は,「集団の内部にいると外部にいるとを問わず」同じだ,とヴェイユは断言する。しかも,集団がその成員の魂に充分な糧を与えなかったら,ただちに「改善策が必要になる」という。
「死んだ集団も存在する」ので,「息絶えているのが確実」なら,滅ぼすべきである,とヴェイユは言い切っている。言い方を変えれば,「死んだも同然の集団も存在する」ので,それが事実なら,ただちにつぶすべきである,ということになろう。
これに該当するスポーツ界の事例をあげるのは,いとも簡単なことである。あちこちにこのような事例が転がっているから。
スポーツの集団は,きわめて有効な役割を果たすと同時に,それとは真逆の役割を果たすことも少なくない。スポーツの集団とはそういう諸刃の剣なのである。
もう一歩だけ踏み込んでおけば,ヴェイユのいう「義務」を履行するということの意味は,きわめて微妙な問題領域を,魂の生の欲求の「糧」となるかどうかを基準にして,慎重に腑分けしていく作業でもあるということだ。
しかるに役割の転倒が生じるのは稀ではない。ある種の集団は糧となるどころか,逆に魂を食らいつくす。このような場合,そこには社会的な病がある。第一の義務は治療を試みることだ。状況しだいでは外科的手段に着想を得る必要もあろう。
この点でも,集団の内部にいると外部にいるとを問わず,義務は同一である。
集団がその成員の魂に充分な糧を与えないこともある。その場合は改善策が必要となる。
あるいはまた,死んだ集団も存在する。魂をむさぼり食らうこともないが,糧を与えて養うこともない。一時的な仮死ではなく息絶えているのが確実なら,その場合にかぎりこれらの集団を滅ぼすべきである。
引用文の冒頭にある「全面的な犠牲の瞬間にあってさえ」というのは,ヴェイユがスペイン人民戦争の兵士として出願し,銃をもった経験がその背景にある。フランコ将軍派に対抗する人民派にみずからの存在のすべてを犠牲として捧げたこと,そして,人民派に与することこそ魂の生の欲求にしたがう「義務」であると考え,行動したヴェイユの姿勢がそこには籠められている。そういう場合にあっても,「糧にたいして払うべき敬意」以外は,すべて意味はないとヴェイユは断言する。この指摘はきわめて重要である。
しかし,そこを区分けするのは容易ではない。だから,「役割の転換が生じるのは稀ではない」とヴェイユは指摘する。そして「ある種の集団は糧となるどころか,逆に魂を食らいつくす」という。こういう文章に出会うとわたしの全身に電気が走る。わたしの経験してきた体育会系の少なからぬ集団が,これにみごとに該当するからである。「糧となるどころか,逆に魂を食らいつくす」事例を,わたしは不幸にして多く知っている。もちろん,ヴェイユは,スポーツの世界のことを念頭に置いてこの文章を書いているわけではない。そうではなくて,もっと一般的な集団の事例を念頭において,この問題を取り上げていることは言うまでもない。
役割が転換してしまった集団について,「そこには病がある」とヴェイユは指摘する。つまり,魂の生の欲求にたいして糧をもたらさない集団は「病がある」と断言する。だから,「治療」が必要なのだ,と。なんと明解なことか。しかも,それがわれわれにとっての第一の「義務」なのだ,と。その義務は,「集団の内部にいると外部にいるとを問わず」同じだ,とヴェイユは断言する。しかも,集団がその成員の魂に充分な糧を与えなかったら,ただちに「改善策が必要になる」という。
「死んだ集団も存在する」ので,「息絶えているのが確実」なら,滅ぼすべきである,とヴェイユは言い切っている。言い方を変えれば,「死んだも同然の集団も存在する」ので,それが事実なら,ただちにつぶすべきである,ということになろう。
これに該当するスポーツ界の事例をあげるのは,いとも簡単なことである。あちこちにこのような事例が転がっているから。
スポーツの集団は,きわめて有効な役割を果たすと同時に,それとは真逆の役割を果たすことも少なくない。スポーツの集団とはそういう諸刃の剣なのである。
もう一歩だけ踏み込んでおけば,ヴェイユのいう「義務」を履行するということの意味は,きわめて微妙な問題領域を,魂の生の欲求の「糧」となるかどうかを基準にして,慎重に腑分けしていく作業でもあるということだ。
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