2012年12月19日水曜日

『シモーヌ・ヴェイユ「犠牲」の思想』(鈴木順子著,藤原書店,2012)を読む。

 シモーヌ・ヴェイユの『根をもつこと』(冨原眞弓訳,岩波文庫,上・下,2010)の,最初の一行「義務の観念は権利の観念に先立つ」に電撃的な衝撃を受けて,ここしばらくの間,シモーヌ・ヴェイユの著作を読み込む努力をしている。シモーヌ・ヴェイユの存在を意識するようになったのは,今福龍太氏の名著『ミニマ・グラシア』(岩波書店)を読んでからだ。ここではシモーヌ・ヴェイユのホメーロスの英雄叙事詩読解をとおして浮かび上がってくる「恩寵」について,今福氏の独特の世界観とマッチングした美しい人間存在の極限の世界が描かれている。もちろん,その背景にあるものは,シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』(田辺保訳,ちくま学芸文庫)である。

 わたしを惹きつけたのは,ホメーロスの英雄叙事詩のなかに描かれる英雄と英雄による一騎討ちの,最後のとどめを刺す瞬間に「恩寵」を読み取るヴェイユの読解と,それに反応する今福氏の感性の鋭さである。いわゆる一対一の「決闘」が含みもつ意味について,これほど深く,しかもわかりやすく解き明かしてくれたのは,はじめてのことだった。以後,「決闘」とはなにか,「一騎討ち」とはなにか,と考えるようになった。なぜなら,そこにスポーツのルーツにかかわる重要なファクターのひとつが隠されていると感じ取ったからである。

 この延長線上に,この夏に開催された第2回日本・バスク国際セミナーでのディスカッションがある。テーマは「グローバリゼーションと伝統スポーツ」。このときの冒頭の基調講演を今福氏が引き受けてくださり,伝統スポーツを考える上での貴重なポイントをいくつか提示してくださった。そして,4日間にわたる研究発表とディスカッションのちょうびを飾る特別講演を西谷氏が引き受けてくださり,これまたわたしたちに多くの示唆を与えるものだった。そして,この西谷講演を引き継ぐかたちで,後日,アフター・セミナーを開催。このとき,三井悦子さんの語る,バスク民族の間でとても大事に継承されているダンス「アウレスク」がひとしきり話題となった。

 若い女性が,ひとりずつ登場して,むかしから伝承されているダンスのステップを踏む。そのステップはひとつのパターンがあって,みんな同じステップを踏む。それを,大勢の村人たちが囲んで,みんなでじっと見守る。まったく同じステップを踏んで,また,つぎの踊り手と代わる。これをひたすら繰り返していく。そこにはいわくいいがたい,老若男女を問わず,すべてをひとつにする,一種独特の一体感が生まれ,ある種の陶酔が生まれるという。

 この「アウレスク」をどのように考えたらいいのか,ということについて西谷氏から謎めいた指摘があった。すなわち,みんなが同じステップを踏むこと,そのことに意味があるのだ,と。

 この謎かけにも似た西谷氏の提言を,より深く受け止め,考えるにはシモーヌ・ヴェイユの『根をもつこと』が大きなヒントになるのではないか,とわたしは考えた。そこで,こんどの22日(土)には,この問題を考えるための「ISC・21」12月大阪例会を開催することになった。主催者は,松本芳明氏(大阪学院大)。その必要性もあって,なんども『根をもつこと』を読み返している。とりわけ,第一部の「魂の欲求」のところを。そんなときに,書店で眼にしたのが,表記の『シモーヌ・ヴェイユ「犠牲」の思想』であった。

 このテクストは,これまでの思想史や哲学史,そして,キリスト教の考え方からも距離をもつシモーヌ・ヴェイユの独特の思考と生き方を包括的に解き明かそうとした,意欲的な力作である。それもそのはずで,1965年生まれの著者が,長年取り組んできたヴェイユ研究を,東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻の博士論文として,2009年末に提出したものである。しかも,第5回河上肇賞を受賞したという。

 これは大変だと思いながら読みはじめる。このテクストは,シモーヌ・ヴェイユの思想を「犠牲」という視点から解き明かそうと,丹念に,そして丁寧にヴェイユの思想を一つひとつ解きほぐしていく。その点で,初心者のわたしには,とてもありがたいテクストになっている。そして,最後まで読み終えたときに,ああそうか,この著者もまたヴェイユの『根をもつこと』の冒頭の一文「義務の観念は権利の観念に先立つ」という謎めいた書き出しの部分に強い関心を寄せ,その謎解きをしていたのだ,ということがわかる。

 そして,ヴェイユのいう「義務」という考え方は,「犠牲」(「供犠」と考えてもいい)という思想的裏付けに支えられたものである,ということがわかる。言ってしまえば,マルセル・モースのいう「贈与」にも通底する「供犠」や「犠牲」に支えられた「義務」をとりもどすこと,それが「根をもつこと」の骨子になっている。だから,その「義務」の考え方が否定されてしまうこと,それをヴェイユは「根こぎ」と表現し,それを取り戻すことを「根づき」と表現する。そして,この「義務」をなおざりにし,それに代わって「権利」が表舞台に登場するのはフランス革命以後のことだ,とヴェイユは分析している。

 もっと言ってしまえば,ヨーロッパ近代のものの見方・考え方を根底からひっくり返すことを,ヴェイユは生涯にわたって考えつづけ,それを主張した,ということになる。

 こまかな点については,ここでははぶくが,シモーヌ・ヴェイユ読解にはとても役に立つテクストである。シモーヌ・ヴェイユの思想の核心に触れる部分では,何カ所かにわたって,鋭い分析をみせ,感動的ですらある。しかし,何カ所かについては,わたしには違和感を感じさせるところもあった。ひとつだけ指摘しておけば,ヴェイユの思想とジョルジュ・バタイユの思想とを比較検討するところでの,踏み込み方とまとめ方はこれでいいのだろうか,という疑問が残ったということ。著者は,意外にあっさりと,ヴェイユの言う聖性とバタイユのいう聖性とは違うと断言しているが,わたしはそうは思わない。むしろ,もっと深いところで共振・共鳴するものがある,という立場をとる。

 その根拠については,『スポートロジイ』(創刊号・スポーツ学事始め,21世紀スポーツ文化研究所編,みやび出版,2012)のなかで,かなり詳細にわたって論じているので参照していただきたい。わけても,ヨーロッパ近代の「有用性」の考え方や制度,組織などを(キリスト教の教会制度もふくめて)徹底的に批判していく姿勢は,ヴェイユもバタイユもまったく同じである。

 なるほどと大向こうを唸らせるほどの分析の冴えをみせる部分もあれば,あれっと首をかしげてしまう部分があるのは,研究者としての立ち位置の問題で,それは仕方のないことなのだろう。たぶん,わたしのないものねだりに等しいのだろう。が,いずれにしても,シモーヌ・ヴェイユ読解という点では,とてもよくできたテクストであることは間違いない。

たぶん,これからも何回も読み返すことになるだろう。いいテクストとの出会いであった。

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