2012年12月10日月曜日

原発推進派のみなさん,使用済み核燃料棒をあなたの裏山に保管してくれますか。

 東京の都知事選で猪瀬候補が優勢だと新聞が報じている。ほんとうだろうか,とわたしは疑問に思う。もし,新聞がほんとうだとしたら,都民の多数が原発推進派だということになる。いまでも,フクシマが,いつ,どのような情況になるかはまったく予断を許さない情況にあるということを承知しているのだろうか。場合によっては,いともかんたんに東京都民もみんな強制移住になりかねない,そういう情況にあるということを承知しているのだろうか。それを知っている若い母親たちは必死で原発ゼロに望みを託しているというのに,そのことはほとんど報道されてはいない。

 山口二郎という政治学者(北大教授)の言説を,わたしは長い間,注目して耳を傾けてきた。が,最近になって,どうも少しおかしいと思いはじめている。『東京新聞』の今日(9日)の「本音のコラム」に「世論調査と民意」という見出しで山口二郎が書いている。そして,まるで他人事のように「多党乱立の中で自民党が漁夫の利を占めるという形になっている」と述べ,「選びたい人がいないという選挙でこそ,国民の『政治力』が問われることになる」などと,のんきなことを言っている。そんなことを言っていていいのか。そんな場合ではないだろうに。

 「本音のコラム」なのだから,もっと気合の入った「本音」を聞きたい。政治学者としての蘊蓄は,『世界』1月号にも,たくさんのスペースをもらって,ぞんぶんに語られているのだから。しかし,こちらの論考もわたしには不満だ。もっと切れ味鋭く,いま,日本国民が問われていることはなにか,を明確に論じてほしい。専門家として。

 わたしは単細胞だから,ものごとを単純化して考える。今回の選挙は,天下分け目の関ヶ原の戦いだ,と位置づけている。まずは,なによりも,原発推進か,原発ゼロをめざすのか,この二者択一の選挙だ,と。まずは,そこを明確にしておいてから日本の未来を考えよう,それしかありえない,と。それをないがしろにして,国防軍も,TPPも,消費税増税も,経済も,ありえない,と。今回の選挙は,人の命を第一に考えるか,経済を第一に考えるか,根源的な問いがつきつけられているのだ,と。わかりやすく言えば,貧乏は耐えられる。しかし,放射能は耐えられない。それだけの話だ。こんなにわかりやすい話はない。

 にもかかわらず,テレビや新聞の報道に,国民の多くがまどわされ,「やはり,原発なしでは無理だよね」という人が,わたしの身辺にも少なくない。そういう人に出会ったら,「そうかなぁ,じゃあ,使用済み核燃料棒は,どこに,だれが保管するの?安全になるには最低でも10万年はかかるというよ」と聞いてみる。「だって,電気足りないって言ってるよ」「電気は足りてるけど,それでも原発が必要だと言うなら,君のところの庭に穴でも掘って保管してくれる?それとも近くの裏山に埋めておく?」「それは政府が決めること」「その政府が,いつ,君の県の国有地に埋めるといいだすかわからないよ」「そんなこと考えたことない」「そこをしっかり考えてよ」「そんなのわかんない」「じゃあ,とりあえず,原発ゼロを目指そうよ」「そうかなぁ・・・・」

 だいたい,こんな会話で終わってしまう。しかし,こんな風に考える人が増えていくような論調がマス・メディアを横行している。山口二郎の「本音のコラム」も,読み方によってはそれを助長しているように読める。世論調査によって民意は流されていく・・・・と。そうではないだろう。山口二郎の役割は,そんなやすっぽい評論家的言説ではないはずだ。もっと積極的に,こんどの選挙で原発を止められなかったら,日本に未来はない,と書いて欲しかった。子どもたちの命を犠牲にして日本の未来はない,と。

 でも,わたしは希望を捨ててはいない。あと6日間。8割の人が選挙のことを考えているという。そのうちの6割が,まだ,意思決定をしていない,という。この6割の人たちが,いま,真剣に考えている,とわたしは信じたい。そうして,あるとき一気に雪崩現象が起きると。つまり,原発推進では困る,と。少なくとも,原発推進だけは阻止しなくては・・・・と。

 わたしの住んでいる溝の口では,いまのところ日本未来の党と民主党と共産党の候補者しかお目にかかってはいない。自民党の候補者にお目にかかったら,直接,聞いてみようと思っている。「使用済み核燃料棒をどうするつもりなのか」と。保管場所もない,捨て場所もない,そういう使用済み核燃料棒をこれ以上増やしてどうするつもりなのか,と。そして,10万年もの間,だれが面倒をみるのか,と。その費用はだれが負担するのか,と。

 こうしたリスクや費用を無視して,それでも「原発はコストが安い」と嘯く。それを助長するようなマス・メディアの報道。そして,それに騙されてしまう国民。この構造を打破するのが,こんどの選挙なのだ。こんどというこんどは,みんなで激論を闘わさなくてはならない。でないと,そのツケは子どもたちにまわっていく。そんな恥ずかしいことをしてはならない。選挙はこれからだ。

 命を守るためには身を挺して,無条件に闘わなくてはならない,それが人間としての「義務」だ,とシモーヌ・ヴェイユは主張している。このことを念頭において「義務の観念は権利の観念に先立つ。権利の観念は義務の観念に従属し,これに依拠する」とシモーヌ・ヴェイユは『根をもつこと』(岩波文庫)の冒頭で書いている。そして,人間の生の欲求の,もっとも根源的な「義務」を明確にすること,「このような研究が存在しないとき,たとえば政府に善き意図があっても,その場しのぎの施策をほどこすしか手はなくなる」と喝破している。なにか,日本のいまの政党政治が見透かされているようで恐ろしい。しかし,その説得力には敬意を表するほかはない。

1 件のコメント:

竹村匡弥 さんのコメント...

10万年だにぃ。。。
「永久」だによぉぉぉ

貧乏でもいいだに。
便利なくらしなんてなくっていいだに。。。
カボチャと芋だけでもいいだに。

死に至る病に怯えながらの生活なんて楽しくないだに

楽しいと言える未来があるんだにか。。。

きっと未来の歴史の教科書に僕たちは載って、

「この時代の人たちは・・・」

そのとき、楽しい生活をしてくれていればいいんだに。。。