2012年12月21日金曜日

『根をもつこと』(シモーヌ・ヴェイユ著,富原眞弓訳,岩波文庫)読解・その1.

  22日(土)の大阪学院大学で開催される研究会(詳細については「21世紀スポーツ文化研究所」のHP,掲示板を参照のこと)に備えて,シモーヌ・ヴェイユの『根をもつこと』(冨原眞弓訳,岩波文庫)を読み込んでいる。上下2巻の大作にして難解な内容なので骨が折れるが,ようやく全体像がわたしの視野のなかに入ってきた。

 そこで,思いきって言ってしまえば,このテクストの大事な部分は,冒頭の8ページから17ページまでのたった10ページ。ここにヴェイユが言わんとする核心部分が凝縮されている。しかしながら,その密度があまりに高いので,読解にはたいへんなエネルギーを必要とする。しかし,何回も読み返しているうちに,なんとかそのイメージはつかめてくる。もちろん,18日のブログに書いたような,その他の解説書を参照しながら,分け入っていくのであるが・・・・。

 で、その核心部分の10ページの最後のところ,すなわち17ページの終わりのところに,このテクストとしては,おそらくもっとも重要なヴェイユの思想が書き込まれているように思う。今回は,この部分に焦点をあてて,考えてみたいと思う。

 まずは,その部分を引用しておこう。

 最初におこなうべきは,糧や睡眠や熱といった肉体の生の欲求に対応する魂の生の欲求にかんする研究である。これらの欲求を列挙し定義せねばならない。
 これらの欲求を欲望,気まぐれ,空想,悪癖と混同してはならない。また,本質的なものと付随的なものとを識別せねばならない。人間に必要なのは米やジャガイモではなく糧である。薪や炭ではなく暖房である。魂の欲求もおなじだ。同一の欲求に呼応する多様でありながら等価値の充足を認めねばならない。さらにまた魂の糧と,その代替物という錯覚をしばし与える毒とを区別せねばならない。
 このような研究が存在しないとき,たとえば政府に善き意図があっても,その場しのぎの施策をほどこすしか手はなくなる。
 
 さて,この引用文をどのように読み取るのか。私論を述べてみたい。
 まずは,肉体の生の欲求と魂の生の欲求との二つがあって,それらはお互いに対応関係にあるとヴェイユは考えている。肉体の生の欲求については「糧や睡眠や熱」という例を挙げているので,なるほど生命維持のために必要不可欠な欲求であるということがわかる。しかし,それらに対応する魂の生の欲求となると,この段階ではまだ明らかにされてはいない。その具体的な「指標」については,この引用文のあとにつづく18ページから詳細に語られることになる。

 それらの「指標」とは,秩序(魂の第一の欲求にしてその永遠なる運命にもっとも近い欲求,それは秩序である),自由(人間の魂に欠かせない糧は自由である),服従(服従は人間の魂の生にかかわる欲求である),責任(自発性と責任,すなわち自分は有用であり不可欠でさえある存在だという感覚は,人間の魂の生にかかわる欲求である),平等(平等は人間の魂の生にかかわる欲求である),という具合に,以下,序列,名誉,刑罰,言語の自由,安寧,危険(リスク),私有財産,共有財産,真理,という具合に一瞬意表をつく指標がとりあげられている。そして,その一つひとつの指標について簡単に,あるは詳細に解説を加えている。

 このことを視野に入れておけば,「これらの欲求を欲望,気まぐれ,空想,悪癖と混同してはならない」というヴェイユの指摘も容易に理解することができる。「また,本質的なものと付随的なものとを識別せねばならない」も同様である。

 「人間に必要なのは米やジャガイモではなく糧である」というこの文章に,最初,わたしは躓いた。なんのことだろうか,と。しかし,ヴェイユがいろいろのところに書き込んであることをつないでみると,それはごく当たり前のことを言っているということがわかる。つまり,空腹に耐えている人間にとっては,その空腹を満たすための糧が必要なのであって,なにも米やジャガイモでなくてもいい,と。つまり,目先の具体的な食料ではなくて,空腹を満たすために役立つ糧そのものが必要なのだ,と。

 このことがわかれば,つぎの「薪や炭ではなく暖房である」も容易に理解できる。すなわち,からだを温めてくれる暖房が必要なのであって,薪や炭はそのための手段にすぎない。ここのところを混同しないことが,じつは,重要なのだ。薪や炭は暖房だけではなく,その他の目的を達成するための手段でもあるからだ。つまり,冷えたからだには暖房が必要なのであって,薪や炭ではないのだ。

 「魂の欲求もおなじだ」とヴェイユはいう。では,魂の生の欲求となる糧や暖房とは,どういうことなのか,ということになる。それらが,さきに「指標」として挙げた秩序,自由,服従,責任,平等,序列,・・・・・ということだ。これらの内容や意味については,また,稿を改めてじっくりと考えてみることにしよう。

 あと2点ほど,ここでは指摘しておきたい。
 ひとつは,「さらにまた魂の糧と,その代替物という錯覚をしばしば与える毒とを区別せねばならない」というヴェイユの指摘である。ここは,スポーツ文化論を考えていく上でもきわめて重要なポイントのひとつになりうる内容だと,わたしは考えるので,これも改めてとりあげてみることにする。あえて,ここで指摘しておけば,「魂の糧」と「魂の毒」とは紙一重の違いでしかない,ということだ。もっと言ってしまえば,薬はひとつ使用法を間違えると,たちまち「毒」となるのと同義である。このことはこのあとのブログに委ねることにする。

 もうひとつは,最後の文章「このような研究が存在しないとき,たとえ政府に善き意図があっても,その場しのぎの施策をほどこすしか手はなくなる」である。この文章は,ナチス占領下から脱出したのちの新生フランス政府のための基本方針を考えつづけていたヴェイユのことを考えると,とてもよくわかる。つまり,「魂の生の欲求」に対応できる綱領を構築しておくことが急務である,と。それができていないと,政治は「その場しのぎの施策をほどこすしか手はなくなる」という。このテクストはそのための「遺書」にも相当する,きわめて重要なものである,ということもここで指摘しておこう。

 ひるがえって,つい最近あった,どこぞの国の選挙のことを考えると「身につまされる」思いでいっぱいだ。しかし,この指摘は,単に政治だけの問題ではない。わたしの携わっているスポーツ史・スポーツ文化論を考える上でも,きわめて重要な指摘になっている。この視点の欠落しているスポーツ史・スポーツ文化論研究はほとんど意味をなさない「その場しのぎ」のものでしかなくなる,ということだ。

 まさに,21世紀スポーツ文化研究所の基本的な姿勢が問われている。わたしには,そのように読める。重く受け止め,こんごに臨みたい。

0 件のコメント: