2014年4月7日月曜日

プロ棋士とコンピューターソフトの勝負? なにか勘違いしてませんか?


 「電王戦」という将棋の勝負の世界がある。2012年にはじまり,翌年から5人のプロ棋士と5台のコンピューターソフトとの団体戦となり,ことしはその第二戦。昨年は一勝三敗一持将棋(引き分け)で,プロ棋士が負けた。ことしはすでに一勝三敗となり,プロ棋士の負けが決まった。

 写真は,第4戦を戦った森下卓九段(47)が敗北を認め,コンピューターソフトの「ツツカナ」に頭を下げているところ(4月6日,東京新聞)。この写真をみながら,わたしはえも言われぬ違和感を覚えた。なにか変だ。どこか根本的なところで間違いを侵しているのでは・・・・?と。そこで,その違和感がどこからくるものなのか考える。

 この写真をみた瞬間のイメージは,人間よりもコンピューターソフトの方が「上」なのだ,というものだ。そうして,そういうイメージが無意識のうちに人びとのなかに浸透していく。そこに,いわゆる「科学技術神話」の発端をみる思いがする。が,それだけではない。もっと大きな問題がそこには見え隠れしている。

 それは,人間が行う将棋とコンピューターソフトが行う将棋とでは「世界」が違うということ。別の言い方をすれば「次元」が違う。つまり,それぞれの存在の「次元」が違う。その「次元」の違うもの同士は比較の対象にはなりえない,という大前提がここでは無視されている。

 コンピューターソフト同士の戦いはあってもいい。というより,別の次元の戦いとして面白そうだ。なぜなら,ソフトの性能の勝負だから,これは対等である。しかし,人間の頭脳とコンピューターソフトの計算能力は「次元」が違う。かつて文化勲章をもらった数学者の岡潔さんの名言を思い出す。「数学は情緒である」と岡潔さんは断言している。つまり,人間の頭脳の働きをささえているのは「情緒」だ,というのである。だとすれば,コンピューターソフトには「情緒」は不要だ。

 もちろん,「電王戦」を仕組んだ人たちも,そんなことは百も承知のはずだ。にもかかわらず,この勝負を成立させているには理由がある。すなわち,将棋人気の活性化をもくろむ日本棋院とコンピューターソフトの性能のよさを売り込みたいソフト業界の利害が一致したからだ。

 しかも,これはあくまでも「余興」の範囲内のことだ。つまり,「面白半分」だということだ。だから,どちらが勝ったとしても,その結果はどうでもいいのである。要は,大きな話題を呼ぶこと。そして,多くの人びとの関心を惹きつけること,それだけでいいのだ。

 そして,忘れてはならないのは,コンピューターソフトをつくったのは「人間」である,ということだ。面白いのは,人間がつくったものに人間が逆襲されている,というこの現象である。これは遊びやゲームの世界であるうちは平和な娯楽ですまされる。しかし,いまや,人間が生みだしたテクノサイエンスに人間が「支配」される時代に突入しているという事実を忘れてはならない。

 その最たるものが「核」である。人類が「核」を保有したときから,人類は「神」の領域に踏み込んでしまった。自然界に存在しない(ということは「神」が創ったものではない)ものを人類が「創って」しまったのである。その結果が,原子爆弾であり,原子力発電である。それと同じ路線を歩んでいるものがiPS細胞だ。そして,いま話題の・・・・へとつづく。

 なにが言いたいのか。コンピューターソフトもまた自然界には存在しなかった「人工頭脳」なのだ。そして,あくまでもそれは「モノ」である。つまり,純粋に「人為的」な物理的存在である。もっと言ってしまえば,それは「自然存在」ではない。それに引き換え人間の頭脳は自然界のなかで育まれたものであり,「生きもの」としての「自然存在」なのである。

 「存在」の「次元」が違う,と最初に書いたことの意味はこういうことである。

〔追記〕
 チェスをはじめいわゆる盤上遊戯は,ヨーロッパでは「スポーツ」の概念に含まれている。その考え方にしたがえば,日本の将棋も立派なスポーツである。その意味で,わたしにとってはこの「電王戦」は他人事ではないのである。
 もう一点。この「電王戦」で戦っているコンピューターソフトは,市販されている将棋盤や将棋の駒には対応できない,ということだ。特別の,コンピューターソフト用の将棋盤と駒でないと,将棋は指せない。このことも忘れてはならない。
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