2014年4月1日火曜日

カントの「クンスト」Kunst について。技,芸術,技芸,巧みさ,こつ,など。答えのない問い。「とりあえず」の応答。

 29日に開催された「今福龍太氏を囲む会」(「ISC・21」3月東京例会)で一貫して流れていたテーマのひとつに「クンスト」Kunst がある。


 この日のテクストとなった『映像の歴史哲学』のなかでは,つぎのように語られています。
 「・・・・人間を構成しているのは,大変な思想であったり,芸術であったりするよりもまず日常生活なのです。日常生活こそが人間の文化をつくりあげているひとつの技なのです。カントはこれを「クンスト」Kunst と呼んでいます。「クンスト」というのは技とも読めるし,芸術とも言えます。この「クンスト」を守り抜けるかどうかが,この戦争化した世界のなかでなによりも大切なのです」(P.191.多木浩二)。


 第一部の情報交換の場でも,Kunst が議論の対象となった。1920年代のドイツの体操改革運動の研究者であるSさんから,kuenstlerisch というドイツ語にどのような訳語を当てるかを考えていたら,『映像の歴史哲学』のなかにカントのKunst の話がでてきて,大きなヒントをもらった,という話題が提供された。Sさんの仰るには,Kunst の派生語である kuenstlerisch という形容詞は「芸術的な」という語釈と同時に「人為的な」という語釈が辞典に載っているので,つねに,この二つの語釈の間でこころは揺れ動いてしまう,といいます。たしかに,この二つの語釈はまったく逆の意味になっているので,訳語を間違えるととんでもないことになってしまいます。


 なぜ,迷ってしまうのかというと,Gymnastik 体操の練習プログラムのなかに,Vorschule という学習形態が組み込まれているのだが,それを kuenstlerisch に行うことが重要だ,と書いてあるからだ。で,まずは Vorschule の訳語をどうするかが問題となり,つづいて kuenstlerisch をどう解釈するかが問題となる,と。
 つまり,Vorschule を仮に「就学前の予備学習」と訳すとすれば,ではそれを kuenstlerisch (芸術的に,あるいは,人為的に)に行うとはどういうことなのか,という問題になる。


 したがって,この問題は,最終的にドイツ語の Kunst ということばをどのように解釈するか,というところに突き当たってしまう。
 わたしも若いころ,Gymnastik や Turnen に関するドイツ語文献を読んでいるときに,しばしば考え込んでしまったのが,この Kunst と kuenstlerisch ということばにどのような日本語を充てればいいのか,という問題だった。つまり,辞典の語釈だけでは対応できないのである。そこで苦肉の策として,辞典的語釈に近い日本語を探し出してきて,一つひとつあてはめてみる。そうやってテクストの文脈にもっとも適している日本語を編み出すことをやっていた。
 しかし,ここにカントのいう Kunst という概念を持ち込むと,もっと広義の解釈が可能になってくる。つまり,日常生活を支える Kunst とはなにかを考えればいい。朝起きてふとんを畳む(いまの若い人はベッド・メーキングか),歯磨きをする,顔を洗う,から始まって日常生活を支える身体技法は限りなくある。それらがすべて Kunst である,とカントは言う。なぜなら,それらの身体技法は日々繰り返しているうちに,無駄な動作がはぶかれ,しだいに精度が高くなり,必要最小限の身体技法に到達する。これがカントのいう Kunst ということの意味なのだろう。
 だとすれば、1920年代の体操改革運動のなかで主張された Vorschule を kuenstlerisch に実施するということの意味も具体性を帯びてくる。たとえば,就学前の子どもたちに,歩いたり,走ったり,飛んだりする運動を指導するとき,近代合理主義的な考え方による「正しさ」の枠組みのなかにはめ込むのではなく(「鋳型化」するのではなく),子どもの気持(感情や意思)がそのまま表出するような歩き,走り,飛びを導き出すこと,それが kuenstlerisch の内実ではないか,とわたしは考える。そこが Kunst が立ち現れる「場」なのだ,と。
 この時代のドイツの Gymnastik は,音楽とダンスと体操が渾然一体となったもので,その境界線はほとんどなかったというのが現状である。もう少し踏み込んでおけば,音楽教育のためのリズム体操が考えられたり,ダンス教育のための基本運動としての Gymnastik が模索されたり,あるいは逆に,硬直化し鋳型化してしまった Gymnastik を解き放つために音楽(リズム)やダンス(表現)を取り込む,といった試みがさまざまに展開した時代だった。それらをくくるキー・ワードが Kunst であり,kuenstlerisch であった。
 このように考えてみると,多木浩二さんのいう言語以前のことばの立ち現れる「場」(それは「写真」や「映像」の「場」でもある)や,ベンヤミンのいう Aesthetik (美学)や Aesthetisch (美的なるもの)の対象となる「場」とも通底していることがわかってくる。そして,当然のことながら,シュールレアリズムの主張とも通底している。ついでに言っておけば,バタイユのいう「動物性」(『宗教の理論』)の問題ともつながり,レヴィ・ストロースのいう「蟻塚」にもつながっていく。
 「新しい天使」が,強風に煽られながらも,名残惜しそうに「瓦礫」や「屑」にじっと視線(まなざし)を向ける,クレーの象徴的な絵画(これこそ,子どものこころがそのまま表出したような,一切の装飾を排除した,素朴そのものの絵だ)に反応したベンヤミンの感性,これに反応する多木浩二さんは「歴史の天使」として「写真」「映像」の歴史哲学を展開する。こうした感性が,この体操改革運動を主導した人たちの思考のなかにも通底していたのだろうと,わたしは考える。
 かくして,再度,振り出しにもどって,Gymnastik にとって Kunst とはなにか,という問いが大きな意味をもちはじめる。同時に,Gymnastik にとって kuenstlerisch とはなにか,という根源的な問いが立ち上がってくる。
 というわけで,今回の議論はここまでにして,次回(4月犬山例会)にでも,原典のテクストを前にして,具体的な解釈を試みてみたいと思う。



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