2014年4月8日火曜日

「ウクライナの安定はウクライナ人にしかできない」(西谷公明・『世界』5月号)。

 雑誌『世界』の5月号に,西谷公明(ともあき)さんの目が覚めるような説得力のある論考が掲載されています。西谷公明さんとは,かれがまだ学生だったころに一度だけお会いしたことがあり,かれの瞬発力のある会話力,そのテンポの良さが強烈な印象となっていまも鮮明に残っています。その西谷公明さんが「誰にウクライナが救えるか──友ユーシェンコへの手紙」というタイトルの論考を『世界』に寄せたのです。

 
初めてお会いしたときから幾星霜,ウクライナの第3代大統領を務めたユーシェンコ氏(1999年12月22日~2001年5月29日)を「友」とし,「貴殿は」と呼びかける人になられたことにある種の感慨を覚えます。この論考の冒頭には,公明さんが3年間のウクライナの日本大使館勤務を終えるお別れの会(1999年3月15日)に,当時はウクライナ国立銀行総裁だったユーシェンコ氏を招いた話がでてきます。それ以後も,公明さんはモスクワに居住しながら,ユーシェンコ氏との交友を持続されたこともこの論考のなかにでてきます。公明さんは,いろいろ紆余曲折を経ながらも,トヨタのモスクワ支社の社長として勤務され,大きな業績を残されます。そして,この時代をとおしてプーチン大統領とも直に電話で話をすることもあったと伺っています。いうなれば,ロシア,ウクライナに関しては日本で屈指の情報通であるというわけです。

 その西谷公明さんがこの論考の最後のところで「ウクライナの安定はウクライナ人にしかできない」という,鮮明な結論を導き出しています。この結論にいたるまでの論考の展開が,わたしにはこころの底から符に落ちるものでしたので,「やはり,それしかないよなぁ」と独り言をつぶやいてしまいました。

 このところずっと考えていることは,国連とか,欧米とかが,そして,ロシアが,一国の国内紛争に介入することの意味でした。とくに,アメリカを筆頭とする「欧米」の介入とはどういうことなのか,と。それは体のいい「戦争」と同じではないか,と。たとえば,経済制裁という名の代理戦争ではないか,と。それは,もっと言ってしまえば,欧米のキリスト教文化圏のなかで構築されてきた価値観の押しつけではないか,と。そして,その価値観だけが「正義」であって,それ以外はすべて「邪悪」なるものとして排除の対象とされてしまう,この事実はなにを意味しているのか,と。

 しかも,それらの一方的な介入はことごとく失敗に終わっていること。たとえば,アフガニスタン。最後まで責任をもつということはしないで,採算が合わなくなれば「投げ出し」て終わり。長い歴史と伝統のもとで構築されてきた部族社会に欧米型の民主主義を持ち込んでも,それはなんの役にも立たないことは,もはやだれの目にも明らかです。かえって混乱を大きくするだけの話。

 いま,また,その悲劇がウクライナで繰り返されそうとしています。欧米とロシアの利害打算のぶつかり合い・・・つまりは,戦争にあらざる戦争。これはどこまで行っても終わりのない戦争。主役であるはずのウクライナ人は宙に浮いたまま。双方の情報合戦の行き交うなか,なにを,どうすればいいのかさえ見えてはこないまま右往左往するばかり。まさに泥沼化の一途をたどるのみ。

 しかし,西谷公明さんはこの論考の最後のところで,一条の光明を見出そうとしています。
 それは,キエフの友人から西谷公明さんのところにとどいたメールです。そこにはつぎのように書かれていたといいます。
 「ウクライナで何が起こっているか。これについて答えることは数日前にはむずかしかった。しかし,ロシアがクリミアに侵略したいま,私は平易な言葉で答えることができます。私たちはいま,自由と独立のために闘っているのです,と」。

 そして,さらに別の友人からのメールにあった「ウクライナ人とロシア人の兄弟のような友愛の情に満ちた関係」という文章も紹介しています。

 その上で,「しかし問題は,暫定政権が内部にはらむリスクです」からはじまる最後の迫力のある文章は,どうぞ,ご自分の目で確認してみてください。

 なにはともあれ,西谷公明さんと誌面をとおして再会できたことをこころから言祝ぎたいと思います。エコノミストとしてのこんごのより一層のご活躍を祈りたいと思います。

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