2014年7月12日土曜日

『猫の音楽』──半音階的幻想曲(ジャン=クロード・レーベンシュテイン著,森元庸介訳,勁草書房,2014年6月刊)を読む。

 さきに片づけなくてはならない仕事が山ほどあるのに,この本の存在が気になり,ちょっとだけ,とついつい手を伸ばしてしまいました。それが間違いでした。読みはじめたら止められません。一気に最後まで読んでしまいました。

 その理由は,もちろん内容の面白さなのですが,それに加えてじつによくこなれた翻訳文のうまさにありました。訳者の森元さんも訳者あとがきで書いていらっしゃいますように,「一方通行的に敬愛してきた著者の文章を日本語に移す機会を長く夢見た」ほどに,著者のフランス語の文章に惚れ込み,それを日本語に写しとりたいという衝動に駆り立てられてのお仕事だったと知り,なるほどと納得。ですから,つぎからつぎへと休む暇も与えず,どんどん読まされてしまいました。こんな経験も久しぶりでした。

 ちらりと思い浮かぶのは,渡辺一夫さんの名訳として知られる『ガルガンチュア物語』の一連の訳業です。わざわざ時代を合わせるために,江戸時代の日本人の語りことばを徹底的に研究してから訳業にとりかかったという,その世界では伝説的な逸話です。フランス語の美しさに反応して,それに劣らぬ日本語の美しさを引き出そうという心意気が,森元さんの訳業をとおして心地よく伝わってきます。

 いやー,いい本を読ませてもらいました。その爽やかな印象と同時に,はたと考えさせられるところが随所に織り込まれていて,感動すら覚えました。こんな身近なところにある「猫」という主題をとおして(もっとも,恐るべき博覧強記に支えられてのことではありますが),なんのことはない「人間」とはなにかを考えさせられ,人間にとって「猫」とはなにか,と深い問いを投げかけてきます。


 訳者あとがきのなかから(このあとがきがまた驚くべき名文),印象に残る文章の一端を引いておきたいと思います。

 頑なに猫の音楽を斥けようとするのは,そのうちで仄かに響くわたしたち自身の獣性の唸りを否み,しかし否みきれぬことの徴である。猫は遠ざけられたその果てでわたしたちの内奥を照らす。猫と人間はそうやって反対物の一致を示すのかもしれないが,それこそは,ピュタゴラス派からこのかた西洋の思考に留まりつづけた世界理解の原理,すなわち「協和しない協和」(cocordia  discors)」の表現にほかならず,西洋の音楽もまた,単声から多声へ,そして和声からその先へと自身の拠るパラダイムを移ろわせながら,この原理をさまざまに変奏してきたのだった。とすれば,音楽の正典(カノン)の余白でまさしく調子外れの音符を撒き散らすかに思われた猫たちは,ことのはじまりから,対立なしにありえぬ調和という音楽=世界の核心に〇(立心偏に舌)として据わっていたことにもなるのだろう。(以上,引用,P.111~112.)

 わたしたちが学校教育をとおして学ぶ「音符」(西洋由来の)の連なりが,きわめて機械的に分割された音階にすぎないにもかかわらず,それが唯一,正統派の音楽であるかのように教えられたことの,つまりは西洋流の近代的合理性の「暴力」(明治時代の音楽教育が採用)にさらされたことの理不尽に,いまごろになって気づかされて呆然としてしまいました。一つの音階からつぎの音階の間に存在する「無限に」分割可能な音階があることを,「猫の音楽」が教えてくれるということの,この逆説に震撼させられました。音痴も立派な音楽家なのだ,と。歌唱力を「点数化」すること自体が,近代の科学的合理性のふくみもつ「盲目」性と,まさしく同根なのだ,と。

 最後にもう一度,訳者あとがきから引いておきたいと思います。

 動物と人間のあいだに,ということはまた人間と人間のあいだに本当のところ理解なんてあるだろうか。醒めて,とりわけいまわたしたちの胸に冷たく触れる問いである。(P.110.)

 濃いピンクのカバーに覆われた,一見したところマニアックな本にしか見えないこの『猫の音楽』──半音階的幻想曲という本が,わたしにとってはこれまでに経験したことのない,思いがけない視座からの,まったく新しい知の地平の可能性を開いてくれることになりました。

 訳者の森元庸介さんにこころから感謝したいと思います。
 森元さん,ありがとうございました。
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