2014年7月20日日曜日

「人間は生殖によって継起する生き物だ」「西洋形而上学はその観点を排除している」。西谷修講演に感動の涙。

 昨日(19日),かねてから準備を進めてきました「ISC・21」7月東京例会を予定どおり開催。感動のうちに無事,終了しました。とりわけ,第二部に用意しましたプログラム「J-P・デュピュイ『聖なるものの刻印』をどう読むか」(西谷修)は予想をはるかに超える感動的な内容でした。わたしは思わず涙が出そうになってしまいました。

 それは長い間,わたしのなかにふつふつと沸き上がっていた大きな疑問が一気に解消されたからです。それは,なぜ,西洋の哲学は,人間存在の様態について半分しか思考の対象にしてこなかったのか,という疑問です。つまり,ヘーゲルに代表されるように人間の「精神現象」にのみ光を当てることに熱心で,なぜ,その光の影の部分に相当する人間の「動物性(=生殖を営む生き物)」をめぐる問題系を排除してきたのか,という疑問です。

 もう少しだけ踏み込んでおきますと,わたし自身の思想遍歴がその背景にはあります。わたしを思想・哲学の領域に導いてくださったのは西谷修さんでした。西谷さんが若いころから取り組んでこられたフランス現代思想の翻訳(レヴィナス,バタイユ,ナンシー,など)や著作(たとえば『不死のワンダーランド』など)にぐいぐいと引きつけられ,夢中になって読み耽りました。とりわけ,西谷さんの多くのお仕事のなかでは,バタイユの思想・哲学がわたしにはもっとも親近感を覚えるものでした。

 そして,ひととおりバタイユの著作に没頭して読みふけった時代がありました。なかでも,もっとも衝撃的だったのは小説『眼球たん』でした。そこには理性によるコントロールから解き放たれた人間の自由奔放な「生」(「性」も)が剥き出しに描き出されていたからです。そして,なぜ,バタイユはこのような小説を,まだ若いときに書いたのだろうか,と考えました。

 そして,当然のごとく『エロチシズム』や『エロチシズムの歴史』といった著作を,丹念に読むことになりました。そうして徐々に,なぜ,バタイユが『眼球たん』を書いたのか,その理由がみえてきました。そして,さらには,『有用性の限界 呪われた部分』で,その根拠となる思想的背景がみえてきました。最終的に,わたしなりに納得したのは『宗教の理論』でした。つまり,動物性の世界から人間性の世界へと<横滑り>して,徐々に,人間としての生き方を模索していく,その過程で人間は「宗教的なるもの」を思い描き,みずからを納得させる文化装置を考案していきます。そして,その過程で,動物性は徐々に封じこめられ,エロスの世界は次第に秘め事へと移行していきます。この流れがそのまま哲学にも引き継がれ,西洋形而上学となってこんにちに至る,というのがわたしの理解であったわけです。

 ですから,これでは片手落ちではないか,と。人間の存在様態について,存在論も認識論も,その半分しか思考の対象にしてこなかったのはなぜなのか,と。

 このわたしの長年の疑問に,西谷さんはデュピュイ読解をとおして,もののみごとに応答してくださいました。それも,この講演の最後のクライマックスをなす,もっとも重要な結論として,西谷さんは声高らかに宣言されたのです。それがこのブログの見出しに書いたことがらです。もう一度,繰り返します。すなわち,「人間は生殖によって継起する生き物だ」「西洋形而上学はその観点を排除している」,と。そして,その理由について,西洋形而上学を俎上に乗せ,わかりやすく丁寧に説明をしてくださいました。

 その典型が,ヘーゲルの哲学である,と。ヘーゲルの哲学は合理性の哲学(内在の哲学)であり,それ以外のものはすべて闇のなかに封じ込めてしまったのだ,と。このヘーゲル哲学が近代合理主義を正当化し,のみならず科学的合理性こそが唯一絶対に正しいのだとする神話を生みだしたのだ,と。したがって,「人間は生殖によって継起する生き物だ」という認識が,科学的合理性からはすっぽりと抜け落ちてしまい,盲目のまま暴走している,この盲目的暴走がこんにちの悲劇や破局を生みだしているのだ,と。

 こうして,西谷さんのお話が,最後の佳境に入ったとき,わたしはバタイユのことを思い浮かべ,涙があふれそうになったという次第です。その理由は,ヘーゲル哲学の限界をいちはやく予見したバタイユは,徹底的にヘーゲル哲学を研究し,分析し,その限界を見極めた上で,ヘーゲル的「知」(絶対知)に対して,その対極に位置する「非-知」という概念を立ち上げ,そこからすべての議論を開始します。かくしてバタイユの一連の著作集(無神学大全・未完)が誕生するというわけです。『宗教の理論』はその集大成ともいうべき作品だと,わたしは考えています。

 そうか,バタイユの思想・哲学のほんとうの評価は,まだまだこれからさきのことだ,と直感したこと,そして,これまで苦労してバタイユと格闘してきたことが無意味ではなかった,と知った瞬間です。わたしが涙しそうになったのは。

 7月19日は,わたしの生涯にとって,大事なメモリアル・デーとなりました。
 その意味で,西谷さんには感謝の気持でいっぱいです。ありがとうございました。

 これで,もやもやが吹っ切れて,いよいよ「スポーツ批評」の世界に一歩踏み出すことができる,と確信しました。あとは実行あるのみです。

 西谷さんはこの講演のなかで,生涯現役を宣言されました。その西谷さんは,わたしに対してはそろそろ「幕引き」のことを考えなくてはいけない,と迫っています。いえいえ,わたしもまた生涯現役を貫きたいと念じている者の一人です。もうしばらくの間,見守っていてくださるようお願いします。ということも含めて,いやはや大変な一日となりました。ありがたいことです。これでまた一皮剥けて,別人に生まれ変わったような気分です。

 これでますます元気になっていくぞ,と気分をよくしています。そうなることを願いつつ・・・,今日のブログを閉じたいと思います。
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