2015年5月4日月曜日

『聖地巡礼』─熊野紀行(内田樹×釈徹宗著,東京書籍,2015年3月刊)を読む。「聖なるもの」の力を語り合う。

 フランス現代思想・レヴィナスの研究者でエッセイスト・評論家でもある内田樹と宗教者の釈徹宗という,いささか異色の組み合わせがおもしろい。これまでのわたしのイメージからは,内田樹が「聖地巡礼」に興味をもち,みずから出向くなどとは考えにくかった。しかし,かれが武術家としても活動し,いまでは道場を建てて弟子を育てているという経緯を考えてみれば,なるほど,と納得である。レヴィナス研究者としても,そして武術の求道者としても,突き詰めていくと「聖なるもの」の領域にますます接近することになるのだし,ついには自己を超え出る「世界」,あるいは「聖なるもの」との接点が不可欠となるからである。

 
本書の企画は,どうやら,出版社の東京書籍がそそのかして,この二人が乗ったことにより成立したようだ。しかも,冒頭にわたしは異色の組み合わせと書いたが,そういえば,このお二人は『日本霊性論』(NHK出版新書)という本も共著で出しているので,もう,とっくに旧知の仲なのだ。言ってみればウマが合う間柄なのだ。

 そのことは,本書を読み始めればすぐにわかる。最初から,じつにくつろいだ会話がはじまるからだ。ということは,霊性とか,聖地に向き合う姿勢が,基本的なところで一致しているからに違いない。しかも,お互いにそれぞれのスタンスをスペクトしている。だから,読んでいてこころが安らぐし,心地よい。しかも,どちらかといえば内田樹が,童心に返ったかのように純粋にはしゃいでいる。というか,聖地のあちこちで「トランス」状態,あるいは,それに近い状態になり,その場ならではの極め付きのセリフを吐く。それを,釈徹宗が冷静に受け止め,その意味を深めていく。その点,このお二人はとてもいいコンビだというべきだろう。

 じつは,わたしも,もうずいぶん前から熊野詣でをしてみたいと思い描いていながら,いまだに実現できないでいる。やはり,きっかけは南方熊楠のことを知ったことがはじまりで,つづいて中上健次の小説世界にはまり,いよいよ熊野に行かねば・・・とこころに決めていた。その後,古代史や神社の系譜や仏教世界や,あるいはまた,神仏混淆の信仰形態や修験道の世界に引きずり込まれるにいたり,はやり「熊野だ」という思いはますます強くなっている。

 とりわけ,日本の古代史を考える上でも,熊野は特異な存在である。いわゆる日本史の本流からは距離を置いているものの,なにか大きなできごとが起きるときには,かならず熊野の存在が大きくクローズアップされることになる。しかし,それでいて主流には成りきれないままだ。つまり,ヤマト朝廷にとっては,むしろ,無視したいのだが,そうもいかない,というきわめてやっかいな場所なのだ。その傾向はいまも変わらない。いまだに謎だらけの地域であり,風土であり,どくとくの信仰形態を維持しつづけている。

 しかし,このお二人にとっては,そんなことはどうでもよくて,むしろ,その「場」のもつ「霊性」をいかに感じとるかが重要なのだ。内田樹は,もっぱら,みずからの感性をそこに向けていく。そして,その「場」の霊性との会話を楽しもうとする。そして,つい勢いあまって,童心の無邪気さをさらけ出す。そして,そのこころの赴くままに身をゆだねていく。そこで生まれるドラマが,この本のひとつの見せ場でもある。

 たとえば,第一日めは,滝尻王子⇨発心門王子⇨船玉神社⇨熊野古道⇨熊野本宮大社⇨大斎原を,そして,第二日めは,神倉神社⇨花の窟神社⇨産田神社⇨那智の滝(那智大社・青岸渡寺)⇨補陀落山寺,を順に尋ね歩いているのだが,それぞれの場所で,このお二人が意外な体験をしながら,そこから思いがけないことばが飛び出してくる。

 その内容については本書にゆずることにしよう。

 わたしは,このお二人とはまた違った興味・関心を「熊野」に寄せている。大雑把に言ってしまえば,ヤマト朝廷がなんとしても蓋をし,隠蔽しなくてはならなかった,大きな「謎」がこの地には隠されているに違いない・・・・,その「謎解き」をしてみたい・・・・。

 熊野に興味をもつ人にとってはたまらない一冊。なにより,その「場」の力に身をゆだねて,思いのままを語り合う,こんな本も珍しい。お薦めである。

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