2015年5月22日金曜日

次には深く仏法僧の三宝を敬い奉るべし。『修証義』・第11節。

 世の中がうさん臭くなってきて,困り果てています。戦後最悪の首相・アベが,憲法を無視し,民主主義を踏みにじり,無節操にアメリカに媚びへつらい,暴走につぐ暴走がつづいています。その暴走に歯止めがかけられない日本国はもはや民主主義国家としての体をなしていません。この暴走に,ようやく国民の多くが気づきはじめ,政治の潮目が変わろうとしています。が,まだ,アベはそのことに気づいていません。いな,気づいていながら無視しています。

 こんなときですので,こころを平静に保ち,人間としての生きざまの原点に立ち返って,思惟を深めることが,ことさらに重要であるようにおもいます。

 そこで,久しぶりに『修証義』の世界に浸ってみたいとおもいます。

 前回の第10節までで第2章(懺悔滅罪)が終わり,この第11節から第3章(受戒入位)に入ります。受戒入位とは,文字どおり戒を受けて仏の位に入る,というほどの意味です。第2章では,懺悔をすれば罪を滅し去ることができますよ,と説かれていて,第3章では,そのつぎのステップを提示し,戒を受ければ仏の位に入ることができますよ,と道元は説いています。

 では,第11節の経文を引いてみることにしましょう。

 次(つぎ)には深(ふか)く仏法僧(ぶっぽうそう)の三宝(さんぼう)を敬(うやま)い奉(たてまつ)るべし,生(しょう)を易(か)え身(み)を易(か)えても三宝(さんぼう)を供養(くよう)し敬(うやま)い奉(たてまつ)らんことを願(ねご)うべし,西天(さいてん)東土(とうど)仏祖(ぶっそ)正伝(しょうでん)する所(ところ)は恭敬(くぎょう)仏法僧(ぶっぽうそう)なり。

 
冒頭の「次には」とでてくるのは,第2章の懺悔滅罪を経たあとという意味での「次」です。つまり,懺悔滅罪を済ませ,次なる受戒入位をめざすには「仏法僧」の三宝を敬い奉ることが肝要である,と道元は説いています。仏とはほとけさま,法とはほとけさまの教え,僧とは僧侶のことです。仏教ではこの三つを「宝」と考えています。ですから,この「三宝」に対して畏敬の念をもつこと,これが仏門の入り口でしっかりと確認されます。

 ここでは「三宝」は自明のこととして軽く流されていますが,『修証義』の専門の解説本によれば,「三宝」にはさらに三つの観点から考えられているといいます。すなわち,「住持三宝」「現前三宝」「一体三宝」の三つです。

 住持三宝とは,仏壇や須弥壇に祀られている仏像,経典,雲水・修行僧のことを意味します。
 現前三宝とは,正覚(正しいさとり)を成就した釈尊を仏宝,その正覚の教えを法宝,その教えを人に説き伝える僧侶たちを僧宝と呼び,この三つの宝を意味します。
 一体三宝とは,仏法僧という三つの宝は,じつは一体不二のものであるということを意味します。すなわち,同一の法性真如(不変の本性・本質)を三つの側面から光を当ててみたにすぎない,というわけです。

 このように考えてきますと,ひとくちに「三宝」と呼んでいても,その奥はきわめて深いことがわかってきます。ですから,仏門に入る者は,まずもって仏法僧の,この「三宝」に畏敬の念をいだかなくてはいけない,というわけです。

 では,わたしの読解を提示しておきましょう。

 懺悔滅罪ののちは,仏法僧の三宝をこころから崇敬することが大事です。たとえ,生まれ変わったり,死に変わったりしても三宝を忘れることなく供養し,敬いつづけることが肝腎です。西天のインドでも東土の中国でもほとけさまの教えが正しく伝承されているところでは,みんな仏法僧をこころの底から大事にしているのです。

 最後に蛇足ながら,わたしの父の名前は「戒心」といいます。幼名は「唯雄」。わけあって生まれた寺とは別の寺に預けられ,そこの養父が名づけたと聞いています。国語辞典には「用心すること。油断しないこと。警戒。」とあります。しかし,わたしの記憶では「こころを戒めよ」という意味だと聞いています。名づけ親(わたの祖父でもある)の仙鳳和尚は,なかなか学識のあった人だと聞いています。だとすると,道元が『正法眼蔵』の中で説いた「受戒入位」のことが念頭にあって,「戒を受け入れるこころ」(すなわち,仏門に入るこころ,覚悟),あるいは「戒を授けるこころ」を大事にせよ,という思いを籠めたのではないか,とこれはわたしの推測です。というより,『修証義』読解を試みる,いまの,わたしのこころにはそんな風に響いてきます。ちなみに,父はこの名前をとても大事にしていました。

 わたしの崇敬する大伯父・一道和尚(わたしの父とは兄弟のようにして育てられた人で,一道の名も仙鳳和尚による)が,ときに「戒心やい」(三河弁の親しい呼びかけのことば),とじつに親愛の情のこもった声で語りかけていた姿がいまも彷彿とします。この二人の関係は生涯にわたってゆるぎないものでした。そして,これまたわたしの大好きな大伯母でさえ羨むほどの仲のよさだったそうです。この話を思い出すたびにわたしの胸は熱くなってきます。二人とも受戒入位の人だったんだ,としみじみおもいます。ですから,ほとんど会話らしい会話をしなくてもお互いに相通じ合っていたようです。ありがたい(有り難い)ことです。合掌。
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