2015年5月23日土曜日

『野上豊一郎の文学』(稲垣信子著,明治書院)がとどく。

 定期購読をしている『週間読書人』の5月15日号(第3089号)に,稲垣信子著『野上豊一郎の文学』漱石の一番弟子として(A5版・340頁・3800円,明治書院,平成27年3月21日,初版)が取り上げられていたので,まっさきに読んだ。知っている人の作品が書評されていると嬉しいものである。著者の稲垣信子さんは,じつは,わたしの従兄弟の詩人で作家の故・稲垣瑞雄さんの奥さんである。お二人で同人誌『双鷲』をすでに長い間,上梓されていて,わたしはこの同人誌の読者のひとりでもある。まあ,言ってみれば,わたしはお二人の長年のファンのひとりだ。

 
お二人の作品は,まずは,この同人誌『双鷲』に掲載(長編小説などは長期連載)された上で,のちに単行本として上梓されるのが通常の流儀になっている。だから,今回の『野上豊一郎の文学』も,『双鷲』連載中にとびとびながら読んでいたので,大筋のところは記憶に残っていた。それが書評されたのである。期待をして読んだ。

 
見出しも「問題視されてこなかった豊一郎の初期に光を当てる」渡邉澄子とあり,なるほどと納得。ところが読んでみてびっくり仰天してしまった。

 書評というものは評者の裁量に委ねられたものなので,どのように書かれようとも文句のいいようがないのは承知しているが,それにしても驚いた。わたしは,それを読む読者の立場から,そこになにを感じとったか,そして,そこからなにが透けて見えてきたか,厳しく批評をするしかない,と考えた。評者もまた,著者と同じように,書いた文章がそのまま批評の対象となるということを銘記しておくべきだろう。

 結論から入ろう。読後の第一感は「不快感」だった。なんとも後味の悪い舌触りがいつまでも残った。なぜだろうかと思い,もう一度,さらってみた。文体には書き手の品格がおのずから表出するという。そう,文体が下品なのだ。渡邉澄子ほどの書き手にしては,あまりに下品なのだ。なにか怨みでもあるのかとおもわれるほど毒が盛られている。それも剥き出しの毒が。そのせいか,なぜか,文章が乱れている。論旨がとおらないのだ。妬みの感情からなのか。まるで捨てぜりふともおもわれるような文章も随所に散見される。いったい全体,どうしたというのだろうか。

 こういう書評は読者迷惑だ。これとま逆な書評もときにはある。つまり,著者とお友だち関係であることを丸出しにした「べた褒め」書評である。こちらもまた,読んでいて辟易としてくる。ここにも評者の品格が丸見えになっていて,不快そのものだ。それはたんなる身内同士の「よいしょ」であって,評論でもなんでもない。そういう人の名前は忘れないで覚えておくことにしている。

 『野上豊一郎の文学』を丹念に読んでみればすぐにわかることだが,著者の稲垣信子さんは,じつに丹念に資料を読み込み,関連の文献を渉猟し,現地・関係者を尋ね歩きながら,きめ細かにみずからの思考を積み上げ,その上で丁寧に文章を織りなしていく作家だ,とわたしは受け止めている。たとえば,『「野上弥生子日記」を読む』(上・中・下巻,明治書院刊)を読めば明らかなように,じつに精緻に分析をし,批評を加えている。そのスタイルを「引用が多すぎる」と評者は切って棄てる。わたしには,その引用こそが,読者の理解を深め,著者の思いを伝える上でじつに効果的に生きている,とおもわれるのだが・・・。

 まあ,こういう不毛な議論はこのくらいにとめおくことにしよう。
 ただ一点だけ。著者と評者とは,ほとんど同年代で,しかも,書いてきたものも被っている。だから,どうしても辛口の書評になってしまうのもやむを得ないところもあろう。しかし,書評を読む読者は,そんなこととはなんの関係もない,いわゆる一般の読者だ。どこが優れていて,どこが問題なのか,を単純明快に論じてくれればそれで充分だ。以上で終わりにしておこう。

 この『野上豊一郎の文学』が,今日,著者から送られてきた。
 もう一度,じっくり通読しながら,存分に楽しむことにしよう。

 別件をひとつ。これは偶然ではなかろうとおもうのだが,書評掲載号と同じ号の一面下の広告欄に,著者の亡夫・稲垣瑞雄の著作が載っている。新刊『泰山木』,既刊『鮎のいる川』『朱光院』。いずれも愛知県豊橋市の豊川堂(ほうせんどう)刊。このうち『泰山木』だけはまだ手元にないので,近日中に購入しようとおもっている。

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