2015年5月27日水曜日

ラジオ体操ってなんだ? 号令ひとつで日本人がみんな同じ動きをはじめる,世にも恐ろしい文化装置?

 締め切りのきてしまっている原稿をいくつも抱え込みながら,悶々としながら無為の日々を送っています。そんなときは,街中を歩きながらも原稿のことが頭から離れません。

 そんな原稿のひとつに,「ポスト・グローバル化社会におけるスポーツ文化を考える」というのがあります。仮のタイトルは「スポーツ文化の脱構築」となっていますが,同じ趣旨であればタイトルの変更は可能です。大きなタイトルが与えられていますので,その中でなにを主題にするかが迷いのもとになっています。

 抽象論をもっともらしく論じたところで,そんなものはほとんどなんの意味もない,といまは考えるようになっていますので,新たな手法をみずから見出さなくてはなりません。なぜなら,ポスト・クローバル化社会の問題を考える上では,近代のアカデミズムの手法はもはやなんの役にも立たない,いな,むしろ,その呪縛から脱却しなければならない,と考えるようになったからです。つまり,グローバル化という現象そのものが,まさに,ヨーロッパ近代の論理の諸矛盾の帰結にすぎないということがはっきりしてきたからです。ですから,それに代わるべき新たな論理が必要になってくるというわけです。

 ついでですので,もう少しだけ踏み込んでおきましょう。ヨーロッパ近代の論理とは,別の言い方をすれば,理性中心主義であり,近代合理主義ということです。もっと違う言い方をすれば,科学的合理性を最優先させる考え方です。その結果,人間の「命」の問題がどこかに棚上げにされたまま,科学技術と経済的合理性(とくに,フリードマンの新自由主義)が,社会を国家を,そして世界を支配することになってしまいました。そして,とうとう「命」よりもお金が大事という支配階層が圧倒的な力をもつことになってしまいました。

 この結果が,まあ,言ってしまえば,グローバル化社会というわけです。そのグローバル化社会を超克するポスト・グローバル化社会を想定するには,グローバル化社会をもたらした論理を,一度,御破算にして,初手から論理を組み立て直す必要があります。その論理はどのようなものなのか,そして,それをスポーツ文化論という土俵で語るとしたら,どうなるのか,ここが大問題となります。これをことばで言うとしたら,金よりも「命」を大事にする考え方,ということになるでしょう。

 この視点から,近代スポーツ競技というものをもう一度,初手から見つめなおしてみますと,とても面白い世界が浮かび上がってきます。それらを一つひとつ,具体的な例を挙げて語っていけば,近代合理主義という考え方が含みもつ諸矛盾についてとてもわかりやすく,説得力のある文章が書けるはずです。では,なにを,その具体例として取り上げればいいのか,ここがポイントとなります。

 こんなことをぼんやりと考えながら街中を歩いていましたら,ひょいと,いいアイディアが浮かんできました。それがラジオ体操でした。

 ここでは詳しいことは省きますが,ラジオ体操は,号令をかければ,あるいは,伴奏音楽を鳴らせば,日本人であれば,みんななんの矛盾を感ずることもなく一斉に同じ運動をはじめます。このラジオ体操という文化こそ,近代合理主義が生みだした典型的な産物のひとつです。しかも,日本人であれば,小学校に入学と同時に教えられ,体育の授業の準備運動として,全国津々浦々にいたるまで浸透しています。ですから,大人になってからも,伴奏音楽がなり始めれば,もう自動人形のように体操をはじめます。

 ラジオ体操の歌にもありますように,朝早く起きて,新鮮な空気を胸いっぱいに吸って体操すれば,みんな笑顔になって元気がよみがえる,と信じて疑いません。子どものときから長年にわたってそのように「刷り込まれて」いますから,なにも考えることなく(思考停止のまま),無批判に,そのすべてを容認しています。そして,ラジオ体操のすべてが「善」なるものだと信じて疑いません。つまり,上意下達のための,みごとなまでの優れた文化装置になっています。

 そして,すぐにわたしの頭に浮かんだことは,権威ある人の発言にはきわめて従順に従う国民性の根幹を構築しているのは,ひょっとしたら,ラジオ体操ではないか?ということでした。少なくとも,日本近代の時代精神を構築し,それを支える上で大きな貢献をしてきたことは間違いない,と言っていいでしょう。

 このことにはたと気づいたとたんに,わたしの頭はフル回転をはじめました。そうだ,ポスト・グローバル化社会におけるスポーツ文化を考えるとは,ラジオ体操を批判的に超克し,それに代わるべきまったく新たな体操文化を構築することに他ならない,と。それは,純粋に近代の合理性,すなわち,科学的合理主義や数量的効率主義に支えられたラジオ体操ではなく,そこに「命」を吹き込むための「非合理」性をどのようにして復権させるか,それが問われることになる,と。

 もっと,わかりやすく言ってしまえば,ピノキオのような「関節人形体操」(Gliederpuppenturnen )に,「命」を吹き込み,生きた人間のための運動(Bewegung )を復権させること。

 このさきは,依頼されている原稿の方で展開してみたいとおもいます。今日のところは,そのアイディアの一端のご披露まで。
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