2010年8月22日日曜日

ル・クレジオの『物質的恍惚』を読み終える。

 このブログの記録によると,『物質的恍惚』を読みはじめる,という投稿が7月25日にある。ほぼ,一カ月かかってこの本を読んだことになる。
 なんとまあ,のんびりと読んだことか,と思われるかもしれない。それでは間延びしてしまって,読んだことにはならないのではないか,と思われるかもしれない。そう思われる方は,ぜひ,この本を手にとって読んでみていただきたい。この本を読むということが,そんなにたやすいことではない,ということはすぐにわかるだろう。
 この本は,小説ではもちろんない。詩でももちろんない。エッセイでもない。哲学でもない。思想はやや近いが思想でもない。アフォリズム的な箴言集でもない。しかし,箴言は随所にちりばめられている。宗教書のようでもあるが,そうではない。文学の解体?でもない。むしろ,言語の解体の方が近いがそうではない。そう,記述(エクリチュール)の解体の匂いが強い。が,そうとも言い切れない。では,なにか。これらのすべてを含んだ分類不能の本。これが,読み終えたいまのわたしの感想。しかも,とてつもない仕掛けを含んだ本。こんな本を27歳の若さで刊行したというのであるから,開いた口がふさがらない。
 さて,この不可思議な本をどのように紹介したものか,とはたと考えてしまう。
 目次をみると,大きく三つの章から成り立っていることがわかる。それらは「物質的恍惚」「無限に中ぐらいのもの」「沈黙」という見出しがついていて,それぞれ順番に「誕生以前の世界」「この世の世界」「死後の世界」のル・クレジオのイメージを描いている。この目次のあとに,書名タイトルをしるしたページがあって,その裏扉にはつぎのような引用文が,控えめに掲載されている。
 ≪分かちがたく結ばれた二羽の鳥が,同じ木に住まっている。一羽は甘い木の実を食べ,もう一羽は友を眺めつつ食べようとしない。≫
 (『ムンダカ・ウパニシャッド』,第三ムンダカ,第一カンダ,シュルーティ一。『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』,第四アデャーヤ,シュルーティ六。)
 わたしは,まず,ここで躓いた。謎の問いとなって,わたしに襲いかかってくる。身動きがとれないのである。すっ飛ばして,本文に入っていけばいい,ともおもった。しかし,待てよ,と考える。この引用文は,これからはじまろうとする記述(エルリチュール)にたいして,なにを隠喩しているのだろうか,と。しかし,読み終えたいま,なるほど,とわかる。この「なるほど」は説明不能である。ル・クレジオがこのエッセーに仕掛けた謎が,この一文に凝縮している,とただそれだけ。
 そう,この本は,全編,謎だらけなのである。つまり,近代的理性の力に寄り掛かって,理路整然と理解しようという読者の,その姿勢をはじめから拒否しているのである。それはそうだろう。「ぼく」が生まれる前の話をし,「ぼく」が生きているいまを語り,「ぼく」の死後を語るのだから。しかも,その「ぼく」が,自己でもない,他者でもない。もちろん,「わたし」でもない。では「かれ」かといえば,もちろんそうではない。この「ぼく」は「わたし」でも「かれ」でもない。この「ぼく」こそが「物質的恍惚」の真っ只中に身をゆだね,「物質的恍惚」をそのまま生きている,人称にあらざる人称なのである。この「ぼく」は,現存しつつ不在である,そういう存在なのである。
 このままではなんのことか,さっぱりわからない,とお叱りを受けるだろう。では,どうすればいいのだろう。仕方がないので,わたしなりの「ぼく」の解釈を企てるしかない。あえて,この「ぼく」を説明するとすれば,以下のようになろうか。
 「ぼく」は,いま,「無限に中ぐらいのもの」として,現世を生きている。皮膚につつまれた革袋となって,たまたま,現世に存在しているだけのことであって,それ以上でもそれ以下でもない。では,この革袋となっている,この存在は,厳密にいえば,もろもろの「物質」が寄り集まって構成された,たんなる物質の集積物でしかない。第一に,この世に誕生する前の「ぼく」は,自然界のあらゆる物質のなかに散在する,たんなる分子にすぎない。その分子のほんの一かけらが,生命を得て,この世に生まれ出てきただけのことにすぎない。それが「ぼく」だ。そして,その「ぼく」は次第に自意識に目覚め,さも,世界の中心を占める主体であるかのごとき錯覚を生きることになる。それはあくまでも錯覚であって,生命は,ただひたすら「死」に向かって燃焼するのみである。その間に,眠り,食べ,セックスをし,子孫を残す,ただ,それだけ。つまり,生命というエネルギーをひたすら消尽しつづけ,やがて,死を迎える,それだけの話。それがこの世での「ぼく」。あとは,ふたたび「沈黙」の世界に帰っていくのみ。革袋は,ふたたび分子の世界に分散し,自然界のあらゆる物質のなかに吸収されていく。だから,「ぼく」は世界のあらゆるところに遍在することになる。
 これが,ル・クレジオの「ぼく」なのである。そして,この「ぼく」は,そのまま「物質的恍惚」なのである。あらゆる宗教が前世・現世・来世を語るが,ル・クレジオのこのようなスケールの大きな「世界観」に,わたしははじめて触れた。そして,驚いている。なぜなら,それは,いつのまにかわたしのなかに構築されつつあった『般若心経』的世界観に,あまりにも酷似しているからである。ただ,根源的に違うのは「無」という存在を,ル・クレジオは否定する,その点だけだ。
 禅仏教では,現世にあるうちに,己を空しくしてしまえ,と説く。そして,「只管打坐」,ただひたすら坐禅をせよ,と教える。やがて,あらゆる自然存在と一体化することができる,と教える。つまり,ゴールは生きながらにしての「自然回帰」。その結果,「一即多」「多即一」の境地に達する,と。すなわち,絶対矛盾的自己同一。
 驚くべきことに,ル・クレジオもまた「一即多」「多即一」を説く。このことは,さきに述べたことがらからも容易に理解することはできるだろう。こうして,冒頭に引用した「二羽の鳥」の隠喩の謎が少しずつ溶解していく。この「二羽の鳥」こそ,ル・クレジオのいう「ぼく」そのものなのだ,といまのわたしは解釈する。ここにも,ル・クレジオの大きな主張の一つである「近代的主体」の不在が仕掛けられている。「ぼく」は「ぼく」であって「ぼく」ではない,そういう「ぼく」なのである。
 以上が,ル・クレジオの「ぼく」のわたし流の読解である。もちろん,これ以外にも,いくとおりもの「ぼく」の読解があって不思議ではない。
 最後に,この本の随所に散りばめられた箴言をいくつか紹介しておこう。
 幸福という考えはまさに典型的な誤解である。
 唯一の平和は沈黙と停止のうちに在る。
 歓喜は永続きしない,愛は永続きしない,平和も神への信頼も永続きしない,ただ一つだけ永続きする力,それは不幸と疑いとの力である。
 芸術の力,それは同じ事物を相ともに眺めるべきものとしてわれわれに差しだすことである。
 われわれの生命は,十中九まで,非知的なものだ。
 ぼくは無限への嗜好を持っているゆえに,実証主義,あるいは科学万能主義が持っている滑稽なところがすべて感じられるのだ,事実というものは存在しない,偶然も,また人間が抱懐しうるような形での決定論も存在しないのだ。
 言語は世界から蒸発してしまった。
 幸福は存在しない,これは第一の明証事である。
 競争の精神はおそらく西欧思想の歩みを最も甚だしく阻害してきたものである。
 すべてはリズムである。美を理解すること,それは自分固有のリズムを自然のリズムと一致させるのに成功することである。

  以下,割愛。 

0 件のコメント: