2010年8月15日日曜日

芥川賞の選評を読んでびっくり。

 昨日のブログを書いたあと,すぐに,選考委員一人ひとりの選評を読んでびっくり。わたしのような素人が「オヤッ?」とおもったことが,そのまま大議論になった,とある。
 つまり,アンネ・フランクが悩んだ「ユダヤ人として生きるべきか,それともオランダ人としてか」という問題を,大学キャンパス内の女子学生の「乙女の側に身を寄せるべきか,あるいは,乙女とは決別すべきか」という問題と重ねるには,あまりにも位相が違いすぎる,という見解である。もっと言ってしまえば,この小説のメイン・テーマとなっている「アンネの密告」と「乙女の告げ口」とを同一レベルで扱うことの是非の問題である。
 9人の選考委員が全員,それぞれの選評を寄せているので,だれがどのように考えたかがストレートに伝わってくる。この選評を読むだけでも,じつに面白い。全体の印象でいえば,総じて女性委員の多くが受賞作『乙女の密告』を推し,男性委員の方が批判的であったようだ。小川洋子,黒井千次,池澤夏樹,川上弘美,山田詠美,の5氏が『乙女の密告』を推し,村上龍,石原慎太郎,高樹のぶ子,宮本輝,の4氏が他の作品を支持したようだ。こういう選評を読むと,それぞれの委員の個性というか性格が,それぞれの委員の作品とは別のかたちで読み取ることができて,これはこれでとても面白い。
 小川洋子氏は,とても丁寧に『乙女の密告』が選出された経緯を解説してくれ,なるほど,そういうことだったのかとわたしを納得させてくれた。ご本人自身もこの作品を推しつつも,議論の内容(上記の議論)に翻弄されたことを正直に告白している。小説というものの評価が,作家の立ち位置や考え方によって,かくも異なるものなのか,といささか唖然としないわけではないが・・・・。でも,小川洋子氏が,最終的に『乙女の密告』を推すことにした,その根拠を一つひとつ提示していて,とても良心的で好感がもてた。やはり,『センセイの鞄』を書いた作家だなぁ,と。
 川上弘美,山田詠美といったわたしの好きな作家たちがそろって『乙女の密告』を,「好きです」「嬉しくなった」という,まことに素朴な表現で推薦のことばを書きはじめているのが印象的だった。そうなんだ,好きか嫌いか,それだけでいいんだ,と。そこからすべてがはじまるのだから。小説に限らず,絵にしろ,音楽にしろ,およそ芸術と呼ばれるものは,だれがなんと言おうと作品を受け取る側の独断と偏見にゆだねられているのだから。わたしは,川上弘美の『蛇を踏む』で,そして,山田詠美の『ひざまずいてわたしの足をお舐め』で,この二人の作家のファンになったのだから。それはもう感性の世界のことであって,いちいち説明の余地はない。
 毎年,この選評欄を読んで,呆れ果ててしまうのは石原慎太郎氏である。よくいえば「孤高の人」,悪くいえばたんなる「ボケ老人」。まあ,ひとりくらいはこういうわけのわからない「ピエロ」的存在の人がいた方がいいのかもしれない。おそらく,この人がもっとも強く受賞作に対して酷評を展開したとおもわれるが,そんな声にびくともしない小川,川上,山田の3氏に拍手を送りたい。もはや,完全に生きている次元が違う。ことしの石原氏の毒づき方もひどいものだ。そこには明らかに「悪意」あるいは「敵愾心」が露呈している。ついでだから,そのまま紹介しておこう。
 「当選作となった『乙女の密告』は,アンネ・フランクという世界に膾炙した悲劇の主人公の最後の秘密にオーバラップした,どこかの外語大学の女子学生間のあるいきさつだが,今日の日本においてアンネなる少女の悲しい生涯がどれほどの絶対性を持つのかは知らぬが,所詮ただ技巧的人工的な作品でしかない。こんな作品を読んで一体誰が,己の人生に反映して,いかなる感動を覚えるものだろうか。アクチュアルなものはどこにも無い。
 日本の現代文学の衰弱を表象する作品の一つとしか思えない。」
 この石原氏の文章にコメントをするのはやめにしておこう。ただひとことだけ言っておくとすれば,ここにでている顔は厚顔無恥な政治家としてのイシハラであって,作家としての石原の顔ではない。この文章を読んで,受賞作に票を投じた他の委員たちは「にんまり」と笑っていることだろう。ひょっとしたら詠美ちゃんなどは,お酒でも呑みながら,お抱え編集者を相手に毒づいているのではないか,と想像しながら,わたしも「にんまり」である。
 小川洋子氏の選評を読んだら,もう一度,この受賞作を読んでみたくなってきた。いつか時間をみつけて楽しんでみたいとおもう。こんどは徹底的に熟読玩味しながら。小説の巧妙な仕掛けを読み解きながら。

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