「幽霊」は存在するかしないか,夏になればかならず一度ならず話題にのぼる。そして,最後の落ちは「みえる人にはみえる」「みえない人にはみえない」そういうものだ,となる。
科学万能の時代にあっても,幽霊の話題はつきない。いな,科学万能の時代だからこそ,幽霊なる不可解なものの存在はますます大きくなってきているのかもしれない。およそ,幽霊なるものの話は世界中のどこにでもある。ただ,地域によって,幽霊の性格もかなり違うようだ。日本の幽霊は,怖い幽霊から可愛い幽霊まで多種多様である。だから,恐ろしくもあるが,なんとなく親しみもあって,比較的近い存在である。
さて,幽霊は,一般的にはこの世に未練を残したまま死ななければならなかった人が,その未練を果たそうとしてこの世に舞い戻ってくる,というパターンが多い。つまり,人間と人間の間での話である。しかし,「霊」となると,もう少し守備範囲が広くなってくる。アニミズム的に考えれば(タイラー),自然界のあらゆる物にはそれぞれ固有の霊魂や精霊などの霊的なものがふくまれているということになる。この考え方は原初の宗教の特徴だそうであるが,現代社会を生きるわたしたにも,信ずるか信じないかは別として,やはり,物には霊的なものがふくまれている,という感性のようなものを全否定することはできない。
自然界の巨岩や奇岩,巨木や古木に出会うと,おもわず足が止まることがある。そして,じっと眺めていると,なにか圧倒されるような霊的なものを感ずる。美しい夕日や抜けるような空の青さや,美しい山並みなどにもどこか霊的なものを感ずることがある。そして,どこかで気脈のようなものでも通いはじめてしまうと,しばらくは身動きもせず,時間を忘れて立ち尽くすことになる。ヴィジョナリーな,なにかを感じながら。
他方,人間が丹精こめて制作したものなどには,そこはかとなく霊的なものを感ずることがある。たとえば,刀剣。奈良の春日退社の宝物殿には世に知られた名刀が多く展示されている。刀好きにはたまらない空間である。みんな同じような顔をしているのだが,よくよくみると一振りずつ,みんな違う。みるからに「切るぞ」と迫ってくる迫力満点のものから,存在そのものがすでに圧倒的な力をもっているものもあれば,やさしい顔をしながらも鋭さがじわりと感じられるもの,などなど。毎年,開催される「正倉院展」でも,刀剣は必ず展示されるアイテムの一つである。ある年に,国宝となっている「小刀」が展示されたことがある。刃渡り,わずかに10センチ足らずの小刀なのだが,それでいて迫力満点。みんな黙って見とれている。
こういう名刀に一度でも出会ったことのある人には,刀身には「霊」が宿っている,ということばはそのまま信じられることだろう。刀が,単なる物から独立して,命を帯しているようにみえてくるから不思議である。もし,万が一,こんな「霊」の宿った名刀が「贈与」されたら,さあ,みなさんならどうしますか。
マルセル・モースは,テクストのP.33で,つぎのような話を紹介している。
「『タオンガ(taonga)』は,マオリ族の法や宗教の考え方では,人,クラン,土地に強く結びついている。それは,マナ,つまり呪術的,宗教的,霊的な力を媒介するものである。G.グレーとC・O・デイヴィスによって幸いに採集された諺(ことわざ)によると,タオンガは,それを受けた人を殺すように祈られる。したがって,法,とりわけ返礼をする義務が守られない時,タオンガはそのような恐ろしい力を内蔵しているとされる。」
この話につづけて「物の霊,特に森の霊や森の獲物である『ハウ(hau)』について,つぎのようなインフォマントの話を紹介している。
「私はハウについてお話しします。ハウは吹いている風ではありません。全くそのようなものではないのです。仮にあなたがある品物(タオンガ)を所有していて,それを私にくれたとしましょう。あなたはそれを代価なしにくれたとします。私たちはそれを売買したのではありません。そこで私がしばらく後にその品を第三者に譲ったとします。そしてその人はそのお返し(『ウトゥ(utu)』として,何かの品(タオンガ)を私にくれます。ところで,彼が私にくれたタオンガは,私が始めにあなたから貰い,次いで彼に与えたタオンガの霊(ハウ)なのです。(あなたのところから来た)タオンガによって私が(彼から)受け取ったタオンガを,私はあなたにお返ししなければなりません。私としましては,これらのタオンガが望ましいもの(rawe)であっても,望ましくないもの(kino)であっても,それをしまっておくのは正しい(tika)とは言えません。私はそれをあなたにお返ししなければならないのです。それはあなたが私にくれたタオンガのハウだからです。この二つ目のタオンガを持ち続けると,私には何か悪い個がおこり,死ぬことになるでしょう。このようなものがハウ,個人の所有物のハウ,タオンガのハウ,森のハウなのです。」
こうした話の最後に,マルセル・モースは,まとめのようにして,つぎのようなきわめて示唆に富む考察を書き留めている。
「・・・・ある人から何かを受け取ることは,その人の霊的な本質,魂を受け取ることになるからである。そのような物を保有し続けることは危険であり,死をもたらすかもしれない。というのも,そうすることがただ違法であるかもしれないだけでなく,精神的にも,身体的にもその人に由来するもの,つまり,その人の本質,食物,動産あるいは不動産などの財産,女性,子孫,儀礼,饗宴などは,受け取った者に呪術的,宗教的な力を与えるからである。最後に指摘したいのは,受け取られた物は生命のない物ではないということである。その物はしばしば生命を与えられ,個性を付与され,エルツが『起源の地』と呼んだものに戻る傾向があり,あるいはそれを生んだクランや土地のために,自分の身代わりになる等価物をもたらそうとする。」
さて,この最後の文章をどのように読み解くか,ここはとても面白いところです。キー・ワード的に,わたしの読解を提示しておきますと,「おみあげ」の語源,アフリカの「霊力」を競うすもう(ゴン),古代ギリシアの祭典競技,流動的身体,原点回帰(あるいは,ニーチェのいう「永遠回帰」),などです。これらについては授業の中で議論をしてみたいとおもいます。受講生のみなさんの読解も,いくつか提示してくれることを楽しみにしています。
未完。いましばらく。
0 件のコメント:
コメントを投稿