2010年8月16日月曜日

沖縄の「イクサ」はまだ終わってはいない。

 1945年8月15日,第二次世界大戦の敗戦の日,わたしは7歳だった。思い出したくない記憶はどんどん風化していく。それでも消すことのできない記憶は残る。
 昨日は,全国各地で敗戦記念日にまつわるさまざまな行事が行われた。このブログでも書いたように,昨日は沖縄の佐喜真美術館で「骨の戦世」をめぐるシンポジウムが開催され,太極拳の兄弟弟子であるNさんがシンポジストの一人として参加している。月刊雑誌『世界』でも,今月はこの「骨の戦世」を取り上げ,比嘉豊光さんの撮った旧日本兵の遺骨をグラビアに掲載し,仲里,北村,西谷の3氏の論考を掲載している。
 この中で,仲里さんは「イクサを忘れさせない物ふたつ」という小見出しをつけて,沖縄にはいまもイクサは終わっていない,と声を大にしている。一つは,沖縄にいまも大量に埋め込まれたままの「不発弾」,もう一つは,沖縄にいまも大量に埋め込まれたままの「遺骨」。少なくとも,この二つの問題が解決するまでは,沖縄にとっての「イクサ」は終わらない,と仲里さんは熱く語る。そして,いまもつづく「不発弾」と「遺骨」の発見・発掘・処理作業の実際を,一つひとつ具体的な例をあげながら,その問題の所在を仲里さんは浮き彫りにしていく。
 ちょっとだけ引用しておけば,以下のとおりである。
 「・・・沖縄県防災危機管理課の記録によると,昨年度に発見され処理された不発弾は,1万9918発(29.4トン)で,届出件数は実に1124件にのぼり,沖縄にはなお2000トンを越える不発弾が地中深く眠っているという。」
 たった3行の文章にこめられた意味を考えたとき,気の遠くなるような「イクサ」の傷跡の深さに圧倒されてしまう。わたしたちヤマトンチュウは,このような情報からはほとんど遮断されていて,なにも知らないままのほほんと「平和ボケ」に浸りこんでいる。そして,問題の基地移転にしても,ぼんやりと「大変なんだなぁ」くらいの認識しかない。ウチナンチュウは,65年経ったいまもなお米軍基地を抱え込んだまま,日々,猛烈な爆音に悩まされ,いつ墜落してくるかもしれない恐怖にさらされつづけているのである。
 現に,沖縄国際大学には米軍のヘリコプターが墜落している。米軍基地の島,沖縄は,いまもまぎれもなく「イクサ」の最中にある。昨日行われたシンポジウムの会場となった佐喜真美術館は,米軍基地と隣接していて,目の前に鉄条網の囲いがある。ここには丸木夫妻の描いた沖縄戦の凄惨な実態が,当時の人びとの記憶(証言)にもとづいて,生々しく描かれている。見る者をして圧倒させずにはおかないし,一度,見たものは生涯,忘れることはないだろう。そういう絵を集めて常時展示されている。そこが「骨の戦世」のシンポジウムの会場なのである。
 ヤマトンチュウの関心事は,閣僚の靖国参拝。新聞の一面に,新政権の閣僚は一人も参拝しなかったことを報じている。そして,その記事の終わりの方では,「閣僚が参拝しないことに批判の声が」という見出しをつけて,読者に特別の注意を喚起させている。その一方で,自民党幹部が見守る前をとおって,イシハラ君が参拝したことを大きく報じている。にもかかわらず,沖縄のことはほとんど触れていない。靖国に守られた遺族はともかくとして,そこに守られなかった遺族もたくさんいる。そういう事実を忘れてはならない。なにか,紙芝居をみているような錯覚に陥る。つまり,紙芝居の作者にとって都合のいい情報だけを取り上げ,それがさも事実であるかのごとく働きかける。まさに,情報という名の「暴力」である。
 昨日は一日,鷺沼の事務所で,敗戦記念日をひとりで回想していた。とりあえず,手元にある関連の文献をかき集めておいて,あちこち拾い読みしながら,自分の記憶を整理する。そして,最後には,わたしにとって敗戦記念日とはどういう日なのか,と考えてみる。これまで,こんなことをしたことがなかった。以前のブログにも書いたように,小さな禅寺に育ったわたしにとっての8月15日は,あくまでも「お盆」のお中日でしかなかった。その寺を離れて暮らすようになってから,ようやく,少しずつ敗戦記念日が大きく思い浮かぶようになってきた。それでもまだ,時間があれば,お墓参りに行く日,の方が大きかった。最近はとうとうお墓参りにも行かなくなってしまった。それでようやくこの日の,もう一つの意味を考えるようになった。
 遅きに失したかもしれない。しかし,気づいたときが吉日,その日をスタートの日にすればいい,とみずからを慰める。いいも悪いもない。そういう流れだったのだ,と。
 週刊『読書人』の巻頭では,半藤一利さんが,みずからの戦争体験を語っている。敗戦のとき14歳だったという。だから,すさまじい体験をしていらっしゃる。九死に一生をえたほどの体験を,一度だけではない,何回もされている。でも,これまで極力語ることを拒んできたという。なぜなら,少し語りはじめると,どんどん大きな話になってしまって,とんでもないこしらえ話のようになってしまう恐れがあったからだ,という。この気持ちはとてもよくわかる。事実を語っているのだが,自分のことばに自分が興奮してしまって,とどまるところを知らなくなる恐れがある。わたしにも経験がある。やはり,途中で気づいて,話すことをやめにした。
 でも,半藤さんもおっしゃるように,もはや,戦争の語り部は減るばかりである。どんどん記憶のかなたに消え失せていく。細切れでいい。こんなことがあった,あんなことがあった,と事実を断片的に語ることが大事だとおもう,と半藤さん。なにかストーリーを考えようとすると,とたんに奇怪しくなってしまう,と。わたしも同感。14歳だった半藤さんには及びもつかないが,7歳の記憶を素直に,断片的に伝える努力もしていかなくてはならない,とようやくその気になってきた。
 いつも,いつも「遅れてやってきた青年」のままである。

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