2010年8月11日水曜日

大相撲を批評することは世界を批評することである。

 昨夜(8月9日),大相撲のことについて話を聞きたいという人が現れて,ついついふだん考えたこともないようなことまでしゃべる,という事件があった。
 そう,事件である。いつもは,ひとりで大相撲のことを考える。困った問題だなぁ,むつかしい問題だなぁ,でも,こんな風に考えた人はまだだれもいないはずだ,とかあれこれ考える。でも,それらは適当なところで思考は止まる。しかし,いい聞き手を前にすると,わたしの頭が別の回転をはじめる。ついつい引き出されるようにして,思いがけない発想が飛び出してくる。しゃべりながら,自分で驚いたりしている。これはわたしにとっては,まさに,事件である。
 今日(8月10日)は一日中,昨夜のおしゃべりから飛び出したさまざまなアイディアを整理していた。そうしたら,そのメモに触発されるかのように,またまた,つぎつぎに新しいアイディアが生まれてくる。それらを片っ端から書きつらね,メモとして保存することにした。当分の間,このアイディアを手がかりにして,大相撲のことを少しずつ整理しながら,きちんと考えてみようかと思っている。思いがけず「貯金」ができた。
 その中のアイディアの一つが「大相撲を批評することは,世界を批評することである」というもの。これは,いわずとしれた,今福さんの本からの剽窃である。今福さんは『ブラジルのホモ・ルーデンス』の冒頭で「サッカーを批評することは世界を批評することである」と高らかに宣言され,みごとな「サッカー批評原論」を展開された。これをそのままコピーしただけの話ではないか,とおもわれるかもしれないが,じつは,そうではない。いろいろの話をしながら,大相撲の問題の所在をとことん問い詰めていってみると,その一つは,立派に「世界を批評すること」につながっていく,と気づいたのである。今夜はその話をちょっとだけ書き記しておくことにしよう。ブログで書ける範囲なので,きわめておおまかなラフ・スケッチになってしまうが,お許しいただきたい。
 大相撲の問題(これも一つひとつ,問題を整理して考えるべきであるが,それをやりはじめるとエンドレスになるので,とりあえず,一連の不祥事をすべてひっくるめて「問題」としておく)をグローバル・スタンダードで批判することの「是非」について,もっと多くの議論を積み上げるべきであること。多くの評者が,おそらく無意識のうちにであろうが,グローバル・スタンダードの側に立って,大相撲の問題に批判を加えている。このことの「是非」を問い直すことが先決である,とわたしは考える。むしろ,単純なグローバル・スタンダードで大相撲を評論してしまうと,大相撲が大相撲ではなくなってしまう。そのことを視野に入れて,大相撲の大相撲らしさを擁護しながら,批判を展開するのか,ここがポイントになろう。
 ということは,大相撲を,近代競技スポーツと同等のものと考えるか,日本に固有の伝統スポーツと考えるか,それとも,もっと広い視野に立って日本的な「伝統芸能」の一つととらえるか,この議論をもっと徹底して積み上げることが必要不可欠である,というところに到達する。
 さらに,「日本に固有の」とか「日本的」というときの根拠はなにか。なにをもって「日本に固有」であり「日本的」ということが可能なのか。日本文化の特質とはなにか。日本の「本来的」と考えられているものとは,どういうことを言うのか。この日本の「本来」について,きちんとした議論を積み上げること。
 その上で日本の「将来」を考えるべきであること。つまり,大相撲の「本来」をどのように理解するのか,その共通理解の上に立って,大相撲の「将来」のプランを描くべきであること。この日本の「本来」と日本の「将来」とをどのように考えるか,というところから「世界」が視野のうちに入ってくる。世界のなかに日本をどのように位置づけるのか,というところまで大相撲の問題を問い詰めていくと,必然的に到達する。
 これらの問題を,ほとんど未整理なまま,それぞれのレベルでの理解や認識にもとづき,みんな勝手なことを言っているのが現状。だから,なんでもあり,の議論が展開している。不毛である。ここからは,なんの問題解決の糸口もみえてはこないだろう。
 こうして到達したアイディアの一つが「大相撲を批評することは,世界を批評することである」というものである。気がついたら,このキャッチ・コピーは今福さんのものを,丸写しにしただけのものだった,という次第。
 ここに到達するには,じつは,もっともっと多くの問題を論じてからのことであった,ということも付記しておこう。たとえば,一神教の世界の価値観で世界を再編・統合しようとする考え方に,そんなに安易に迎合してしまっていいのか,というとてつもなく大きな問題がある。つまり,アジア的,日本的な多神教の世界の価値観をそんなに簡単に放棄してしまっていいのか,という問題である。少なくとも,大相撲の根底にあるものは「神事儀礼」である。そういうコスモロジーを色濃く残しているということを忘れてはならない。
 大相撲は,能や歌舞伎と同じように,日本の文化を世界に向けて発信する絶好の素材なのである。日本の伝統文化として,日本の伝統芸能として,日本の伝統スポーツとして,どのように大相撲を認識し,理解するかによって,「批評」の姿勢は根底から異なってしまう。このことを,しばらくの間,本気で考えてみたいとおもう。
 昨夜はとてもいい機会を与えられたと感謝あるのみ。

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