2010年8月14日土曜日

第143回芥川賞受賞作『乙女の密告』を読む。

 赤染晶子の芥川賞受賞作『乙女の密告』を読む。『アンネの日記』を下敷きに,外国語大学ドイツ語学科の学生さんたちの虚実をテーマにした作品。
 真実と嘘の噂のはざまで揺れ動く「乙女」ごころの,あるいは,「乙女」として生きることの,微妙な世界を分け入っていく不思議な作品という印象が残った。もう少し細部をきっちり描いていけば,立派な長編ともなりうる可能性を秘めている短編。その分,凝縮しているのかといえば,そうではない。むしろ,省略という手法を用いて,曖昧模糊とした部分をあえて残しながら,最小必要限度の痕跡だけを記述し,その間隙は読者の想像力にゆだねる,という戦略をとっている。これはこれで成功しているかにみえる。しかし,どこか物足りない。ないものねだりかもしれないが・・・・。
 たとえば,14歳のアンネがユダヤ人として生きることとオランダ人として生きることの,言ってみれば,人間の尊厳にかかわる大問題に気づいて日記に記述したことを,小説の一つの大きな骨格として提示したことは高く評価したいとおもうのだが,それを,大学キャンパス内の「乙女」論争に重ねてしまっていいのか,しかも,自己と他者のはざまに引き裂かれる,いわゆる「自他論」としての問題提起もいささか軽い,という印象を受けた。アンネがユダヤ人とオランダ人との間で,どちらが自己でどちらが他者かと悩むことと,キャンパス内で,「乙女」であるか,ないか,というこの小説の命綱ともいうべき核心のテーマを,同列に並べて主題化している部分では,いささか違和感を禁じ得ない。それほどまでに,キャンパス生活にとって,そして,女子学生にとって,「乙女」であるか,そうでないかは重大なことなのだろうか。言ってみれば,女子学生としての,存在の根源をゆるがすほどの問題なのか,ということだ。もし,そうだとしたら,わたしにはそのあたりのことを理解するための,なにかが欠落しているということになる。
 作者の赤染晶子は,京都外国語大学ドイツ語学科の卒業である。1974年生まれというから,ちょうど作者が大学に通っていたころとほぼ同じ時代に,わたしもご縁があって,何回かこの大学に足を運んだ経験がある。それだけに,ドイツ語の教授として登場するバッハマン教授(もちろん,仮名)というような名前を聞くと,そこはかとなく懐かしくなってくる。もちろん,キャンパス内の建物も,研究室も,教室も,大講義室も,具体的なイメージとして浮かび上がってくる。小説は作り物だから,現実と混同してはいけないが,どうしてもイメージが現実のキャンパスと重なってしまう。だから,逆に,イメージが混乱を起こす。
 いつもは,「芥川賞選評」をさきに読んでから,受賞作を読むことにしてきたが,今回は,それを避けた。なぜなら,選評が頭に残っていて,作品を楽しむ邪魔になるとおもったから。その意味では,今回は,まことにすっきりと自分のイメージだけを楽しむことができた。これから,「選評」を読んでみようとおもう。だれが,どんな風に,この作品を評論するのか,これはこれで別の楽しみではある。いつも,石原慎太郎氏だけが,酷評をさらけ出して,もう読むに耐えない,とまで受賞作をこけにしたりしているので,今回の作品について,なにを言っているのか楽しみでもある。

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