2010年8月21日土曜日

贈り物には毒がある=スポーツには毒がある。

 贈り物(Gift)には毒(Gift)がある。同語反復である。つまり,トートロジー。「贈り物にはお返しをする義務がある」ということには,じつは深い意味がある。『贈与論』はそのことをみごとに明らかにしてくれる。
 『贈与論』の冒頭「序論)は,スカンディナヴィアの古代神話伝説詩『エッダ』の一つ,ハヴァマールの数節をかかげ,「贈与」の問題に分け入っていくための導入として効果を発揮している。少し長いが,これからの議論を展開していく上での共通の土俵を築く上で有効だとおもわれるので引用しておこう。
 あまりにも気前がよく鷹揚なので
 客をもてなす上で「贈り物を受け取らない」
 そんな人をまだ見たことがない。
 自分の財産にあまりにも(形容詞欠如)なので
 返礼を受け取るのを不愉快に感じる
 そんな人をまだ見たことがない。

 友は互いに武器と衣装を贈って
 相手を喜ばせなければならない。
 誰でも自ずから(自分の経験によって)それを知っている。
 互いに贈り物をし合う友同士が
 いちばん長続きをする。
 物事がうまく行くならば。

 友には友らしくしなければならず
 贈り物には贈り物を返さなければならない。
 笑いには笑いで
 嘘には欺きで応じなければならない。

 もしお前が信頼する友を持ち
 何か良いことを期待したいのなら
 その友と心を通わせ
 贈り物をやりとりし
 彼のところを足しげく訪れなければならない。
 お前がよく知っているように。

 (ママ)しかしもしお前が信頼しない友を持ち
 それでも何か良いことを期待したいのなら
 彼に甘言を弄し
 偽りの気持ちで接し
 嘘には欺きで報いなければならない。

 お前が信頼せず,心に疑いを抱く友についても同じだ。
 彼に微笑みかけ
 心にもないことを話さなければならない。
 受け取った贈り物には同じ贈り物を返さなければならない。

 気前がよく,豪胆な人は
 最良の生活を楽しみ
 心配に煩わされない。
 しかし臆病者はなにごとにも怯え
 吝嗇者はいつも贈り物に怯えている。

 多すぎる供犠を行うよりは
 祈らない(頼まない)方がよい。
 贈り物には常にお返しが期待される。
 大金を遣って供え物をするよりは
 供えない方がよい。

 以上である。これらの詩文はこのままの順番で並んでいるわけではない。ところどころの抜粋である。しかし,そこには一貫したなにかを感ずることができる。それはなにか。贈与というものをめぐる古代北欧の考え方や受け止め方,そして,それらをめぐる慣習行動の一部をかいま見ることができる。しかも,これらの慣習行動は,キリスト教が普及する以前の,土着信仰に根ざすものの見方・考え方にその根をもっている。
 にもかかわらず,こんにちのわたしたち日本人が読んでも,ほとんど違和感がない。ということはなにを意味しているのか。それは,「贈与」というもののもつ意味や役割が,きわめて普遍的なものであるということであろう。時代を超えて,社会を超えて,どの時代のどの地域のどの民族の間でも,ほぼ同じような考え方にもとづいて「贈与」なるものが行われていたということであろう。そのことを,まず,この詩文はわたしたちに想起させる力をもっている。
 マルセル・モースもそのことを念頭において,この『エッダ』の詩文を引用したことは間違いないだろう。『エッダ』に関する研究や翻訳は,谷口幸男の多くの労作をとおして,わたしたちは相当に詳しく知ることができる。それに加えて,この『贈与論』の提示している東南アジアのポルネシアや北米インディアンやイヌイットの「贈与」の事例,そして,最古のローマ法や古代ヒンドゥー法などの経済における原則の残存と対比していくと,まったく新たな『エッダ』の世界がみえてくる。さらに,わたしがもっとも注目している「スポーツ文化」の根源にあるものを幻視することができるようになってくる。そして,さらにそのさきに,おぼろげながら「スポーツとはなにか」という根源的な問いへの応答が見え隠れしている。『エッダ』を深く読み込むこともまた,こうした方法をとおして,スポーツ史やスポーツ文化論の宝庫となる。
 少し脱線してしまったが引用文から明らかなように,贈り物にはさまざまなヴァージョンがある,ということである。とてもいい贈り物から,きわめて悪質なものにいたるまで,贈与の意味内容は広く,深い。なかには,毒を含んだものも少なくない。だから「受け取った贈り物には同じ贈り物を返さなければならない」ということになる。
 しかし,引用文の冒頭にあるように,どんなに裕福な人であっても,贈り物をもらって「受け取らない」人を見たことがない・・・・これはいまもむかしも変わらない普遍の問題だなぁ,とおもわずにんまりしてしまう。人間はなぜ,贈り物をもらうと「嬉しいのか」。こんな当たり前のことが,じつは,ほとんどなにもわかってはいないのである。そこには深い深いわけ(理由・根拠・理性=reason)があるのである。そのことを,これから少しずつ考えていってみたい。
 で,まずは,「贈り物」である「贈与」とは,どのようにしてはじまったのか,その方法は? その種類は? その対象は? とうとうを考えてみる必要があろう。そして,そのことと「スポーツ的なるもの」の「根」がどのようにリンクしているのか,わたしの興味・関心はここにある。
 もう一歩,踏み込んで,現段階でのわたしの仮説を提示しておけば,「スポーツとは贈与であった」となる。はたして,このことが,どこまで立証できるのか,あるいは,推論できるのか,可能なところまで触手を伸ばしてみたい。
 神戸市外国語大学の集中講義の目的はここにある。

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