このところちょっと追い込まれていた仕事があって,ブログを休んでしまった。が,一区切りついたので,ご褒美に舟橋聖一の『相撲記』を読みはじめている。
もう,何回も読み返しているわたしの愛読書の一つである。が,何回読んでも,そのたびに新しい発見があって,いつも,不思議な感動をおぼえるのである。読み手の感度に応じて,いくとおりもの顔をみせる。まさに,名著の証。と同時に,読み手のわたしは験されている。舟橋聖一の手のひらの上で,あますところなく験されている。まるで,大三島の「ひとり相撲」のようなものである。神様相手に必死になって相撲をとっても,結局は,ころりところげて終わり。でも,心地いいから止められない。ひとりで,内緒で,秘め事のようにして読書しているからいいものの,この姿は他人にはみられたくない。
さて,舟橋聖一と言っても,もう,いまの若い人たちにはだれのことかもわからない存在かもしれない。しかし,わたしたちの年代であれば知らない人はいないだろう。それほどの名作を連発し,一世を風靡した作家である。とりわけ,耽美派の小説家として注目を浴びた。この話をしはじめると,これまたエンドレスになってしまうので,ここは相撲に限定する。舟橋聖一は,わたしの記憶に間違いがなければ(調べればすぐにわかることなのに,横着を決め込む),第二代の横綱審議委員会の委員長である。こういう人は滅多に現れないが(相撲との関係の深さという意味で),横綱審議委員会の委員になったり,少なくとも委員長になるような人は,相当に深く相撲の知識(主として歴史)をもち,相撲界に通暁し,かつ,とどまるところを知らぬ相撲への「愛」をもった人でなくてはならない,とわたしは固く信じている。が,まあ,これほどの人はこんごも現れないにしても,この人に準ずる人を選び出してほしいものである。
『相撲記』(講談社文芸文庫,2007年)は,もともとは同じ書名で1943年6月に創元社から刊行されている。敗戦直前にこのような本を書いていることに,まずは驚きを禁じ得ない。もう,この時代になると,多くの作家は,戦記物を書いたり,戦地で戦う兵隊たちを激励するために動員され,慰問のために忙しく立ち働いていたはずなのである。が,そうした情況をきちんと見極めた上で,超然として相撲の世界を回顧していた舟橋聖一とはどういう人だったのだろうか,といつもおもう。戦争をそれとなく忌避しながら,愛国の精神を相撲をとおして表明しようとしていたのだろうか,と。あるいは,いつ戦災に合って死ぬかもしれないという覚悟の遺書のつもりだったのだろうか,と。と,そんなことも考えながらこの本を読んでいると,いかようにも読めるように書かれている。その懐の深さに,そこはかとなくつたわる孤独感を分けもつこともできる。
さて,この『相撲記』の冒頭に,つぎのような話が書き込まれている。
「昔,私の母の家は,両国橋を渡って,すぐ左側の,藤代町というところにあった。母の通った江東小学校が,恰度(ちょうど)今の,国技館の建っている所で,当時は,小屋掛の相撲場がこの江東小学校に隣接していた。相撲場の方で,大喝采が起ると,小学校の授業が妨げられる程であった。先生までが,教壇を下りて,窓から顔を出し,どっちが勝ちました。朝汐ですか,大達(おおだて)ですか,と訊かずにはいられなかった。生徒たちは,休憩時間には,必ず,小屋のまわりに集まって,むしろの隙間から,相撲場を覗き見た。母もその一人であった。裏木戸から,見物の中途で外へ出るときは,手の甲に,判を押して貰うと,又,中へ入れるきめだったので,生徒たちは,裏木戸に頑ばっている年寄と顔馴染になっては,手に判を貰って,木戸をフリーパスした。」
「明治四十二年に,待望の国技館が建った頃には,母は結婚していた。私が生まれ,既に六歳であった。藤代町からすこし離れた横綱町に,新居を持った。」
「友綱部屋と私の家とは何しろ,巾二間半程の往来を隔てた向かい合いであったから,取的(とりてき)たちがよく入れ替わりに遊びに来たので,私も相撲取を何とも思わないようになった。中には,私を肩車にのせて,ひょいと浅草あたりへ遊びにつれていってくれるものもいた。大掃除のときなどは,取的が二三人は手つだいに来てくれたから,畳でも箪笥でも,片っぱしから,運び出してくれて,力のある手で,拭いたり掃いたりしてくれた。十五六の,弟子入りしたての,散切り頭の少年力士達の姿もよく見かけた。彼らはいつも,血を出していた。猛稽古のために,生創が絶えないのであった。」
こんな話を切り出しに,次第に,相撲の世界の機微に分け入っていく舟橋聖一の筆は,ますます冴えていく。しかも,相撲に寄せる愛情でいっぱいである。こよなく相撲を愛した人,子どものころから(いや,母の胎内に宿る前から),相撲を空気のようにからだいっぱいに吸い込みながら誕生し,育った。しかも,小さな子どもだったころから可愛がってくれた関取「寒玉子」(ちょっと珍しい力士名)を贔屓にしていた芸者さんに抱き抱えらて,あわてて逃げ出したことまで記している。つまり,舟橋聖一は生まれながらにして相撲界とともに生きてきた人なのである。言ってしまえば,相撲界の「内部」の人。「内在性」をともに分け合って生きていた人。だから,相撲界の裏も表も知り尽くしている。こういう人が横綱審議委員となり,委員長になることに,相撲界はなんの抵抗もない。少なくとも,近頃,話題になる「外部委員」とは,まるでレベルが違う。
いま,舟橋聖一にもっとも近い人は,わたしの知るかぎりでは新田一郎さん。子どものころから大鵬に憧れ,将来は大鵬のいる部屋に入門して力士になることが夢だったという。その新田さんは,長じて,東大に入学。迷わず相撲部に入部。学生力士として活躍。そして,いまも,東大相撲部の監督として,まわしを締めて学生と一緒に土俵に立ち,稽古している,という。東大法学部教授。著書に『相撲の歴史』ほか,がある。この本もまた名著で,わたしの愛読書の一つ。やはり,「外部」の人が書く「相撲の歴史」とは,その「愛」という点でまったく次元が違う。
新田さんは,もともとは日本史を専攻した人で,しかも,中世史(法制史)が専門だという。だから,「相撲の歴史」にとっては,まさに,うってつけの書き手である。最近,『相撲のひみつ』(朝日出版社)という本を書き,話題となっている。いわゆる初心者向けの入門書である。わかりやすいイラスト入りの,なかなか楽しい本である。しかし,相撲に関する基本的な,大事なことはすべてきちんと書き込まれている。ちょっとした相撲の知識を確認するには便利な本。そして,くり返すが,相撲に寄せる「愛」がある。
この本の「はじめに」の書き出しの文章はこうである。
「相撲は好きですか?」
「相撲を取るのは,好きですか?」
そして,「おわりに」の最後のところには,奥さんを相手に四つの組み方,押しの型,おっつけ,しぼる,はず,などの技の手ほどきまでして,土俵の上で熱戦を繰り広げる力士の気持ちを理解させることに成功した,と書いている。新田さんもまた,相撲は勝ち負けではない,相撲内容をじっくりと鑑賞することだ,と述べている。ここを見届けて,わたしは,素直に新田さんのファンになりました。やはり,一流は違う,と。
ついでに,便乗してコマーシャルを。いま,書店に並んでいる『嗜み』(文藝春秋社)という季刊雑誌の「書評」のコラムで,短い文章をわたしが書いていますので,ぜひ,ご笑覧のほどを。図に乗って,もうひとこと。この本の編集担当者は,メールで「気持ちの籠もった書評をありがとうございました。著者の新田さんもさぞや喜ばれることとおもいます」と書いてくれた。わたしの背中に羽が生えてきて,空をも舞いたい気分である。
こういうありがたいおことばも無駄にしてはなるまい。折角のチャンスをいただいたとおもって,しばらくの間,時間をみつけて,相撲のことを考えてみたいとおもう。いま,マスコミを賑わしている話題ではなくて,相撲とはそもそもなにであったのか,そして,それぞれの時代や社会を生きる人間にとって相撲とはなにであったのか,ひいては,こんにちという時代・社会を生きるわたしたちにとって相撲とはなにか。さらには,21世紀を生きていく人間にとって相撲とはなにか。人間の存在の仕方が,ますます「事物」(ショーズ)と化していく時代にあって,生身の肉体をまるまるさらけ出して,気合十分に土俵の上で雌雄を決すること,このことのどこに人びとは感動するのか,その感動の意味内容はなにか,わたしの大好きなテーマである。やはり,「内在性」への回帰願望なのだろうか。ニーチェ流にいえば,「永遠回帰」。そこには,現代社会を生きるわたしたちが,遠いどこかにおき忘れてきてしまった,大事な宝物があるようにおもう。と同時に,それこそが,おそらく人類が抱え込んでしまった最大の難題でもある,とわたしは考えている。さて,この謎解きやいかに。
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