「制度は人間のためにあるものであって,人間が制度の犠牲になってはいけない」,と宇沢さんはおっしゃる。そして,「Bitte !」というとてもいい制度が一高にはあった,と目を細めながら楽しそうに回想される。
宇沢弘文さんは,一高・東大とラグビーの選手として活躍された。しかも,自称「名選手」であった,と。ポジションは「右ロック」。なるほど背の高い大男である。ひたすら相手フォワードとの肉弾線で,前へ,前へと押し込むことだけが仕事だった,と。ところが,あるとき,たまたま眼の前にボールが転がっていたので,あわてて拾って走った。すぐに,チーム・メートが「宇沢,宇沢!」と呼ぶ声が聞こえる。変だな,とはおもったが構わず走った。そうしたら,突然,チーム・メートにタックルされてしまった。気づいたら,「逆走」していたとのこと。だから,「迷選手」だったのだ,と。(会場はみんな爆笑)。
これですっかり雰囲気が打ち解けたところで,宇沢さんの名言が飛び出す。「経済は人間のためにあるものであって,人間が経済の犠牲になってはいけない」,と。同じように,「制度は人間のためにあるものであって,人間が制度の犠牲になってはいけない」と置き換えをした上で,つぎのような思い出話をされた。
1945年4月に一高に入学して,それから1948年3月に卒業するまでの3年間,ただ,ひたすらラグビーの練習と芋の買い出しに明け暮れしていた。授業はほとんど出なかったので,勉強らしい勉強はなにもした記憶がない,と。でも,卒業時には,みんなと同じように大学を受験した。しかし,最初から合格するつもりはなかったので,受験だけして,荷物をまとめて田舎に引き上げ,一年浪人をして合格をめざすつもりでいた。だから,合格発表の日も,発表を見にいくこともしないで,荷物をまとめていた。そうしたら,友人が,発表をみてきて「お前,合格しているぞ」と言った。宇沢さんは本気で「冗談を言うんじゃない,ふざけるのもいい加減にしろ!」と言ったものだから,その場で喧嘩になり,ならば,というので二人で発表を見に行った。そうしたら,友人の言うことが正しかったので,びっくり仰天した,と。
ところが,一高の学務から連絡があって,「君は卒業できない。理由は,出席不足による単位不認定のため」とのこと。ああ,そうか,とこれも十分に納得できることだったので,来年,また,受験すればいい,と腹をくくっていた。そうしたら,件の友人が,「ちょっと待て。学務に掛け合ってくる」と言ってでかけた。そうして,友人は,「宇沢は友人たちの食料確保のために芋の買い出しで頑張ったのだ」と懇願して,ひたすら「Bitte ! 」「Bitte!」をくり返した,という。「Bitte」というのはドイツ語で「お願い」という意味だ。しかも,発音の仕方によっては,懇願のことばとなる。そうして,本人ではくて,友人がやってきて「懇願」したことが認められて,単位は追認され,めでたく卒業ができ,そして,東大の理学部の数学科に進学することができた,とのこと。当時の一高には「Bitte制度」というものがあった。これは「制度を超えて,人間を救済する素晴らしい<制度>である」と。
この話には,もう一つの後日談がある。宇沢さんがシカゴ大学(だったと記憶する)で経済学の先生として教鞭をとっていたころの話。宇沢さんの信念として,教育は試験によって生徒の成績を点数化してはならない,というものがあったので,学生たちに「単位が欲しい者は言ってきなさい。いつでも単位を認定します」と公言したものだから,学生さんたちの多くは単位だけもらって,授業にはこない,ということが起きた。宇沢さんとしては,勉強したい者だけを相手に授業をやりたいので,この方が好都合であった。しかし,これが学内で問題となり,教授会でも議論となった。そのとき,まだ若いがとても切れる先生として評判だった人が立って,「宇沢先生のやっていることは,職務放棄に値する。したがって,免職に相当する,と考える。しかしながら,宇沢先生のやっていることは,こうした法規を超える,立派な行為でもある」と発言し,宇沢先生の単位認定は認められることになった,という。
こんな秘話がもう一つあるのだが,あまりに長くなるのでそれは割愛する。
こういう話をしながら,宇沢さんは,「社会的共通資本」という発想の原点になる,身近な傍証を提示し,この概念の重要性について,あちこち話を脱線させながらも,とつとつと語ってくださった。こうして,人間の生存にかかわる重要な財産,つまり,人類の生命を維持していく上で不可欠の,人類みんなが共有している財産については,「社会的共通資本」として,他の「資本」とは別に管理・運営をしていくことが,これからの人類に共通の課題である,と力説される(ことば足らずは,『社会的共通資本』を読んで補ってください)。
制度は人間のためにあるものであって,人間が制度の犠牲になってはいけない。資本主義は絶対ではない,ということはこれまでの歴史過程をとおして明らかになっている。だとしたら,この資本主義を止揚できるような,新たな救済「制度」を創案するしかない。そのために,案出された概念が宇沢さんの提唱される「社会的共通資本」という考え方である。
「嘘をつきなさい」,ただし「人を幸せにする嘘を」。一高の「Bitte」制度。宇沢さんの単位認定の姿勢。その他,もろもろの素地が積もり重なって,「社会的共通資本」という概念に結集していくことになる。
その学問的な(経済学的な)経緯については,岩波新書の『社会的共通資本』を熟読玩味して,確認してみてください。じつに濃密な文章でつづられていて,考えさせられることが無尽蔵にある,とわたしは感じました。初版は2000年11月。2010年2月には11版を重ねている。この名著の存在すら知らないできた我が身の不勉強を羞じるのみである。
『始まっている未来』(岩波書店,2010年)についても,いずれ,とりあげてみたいと考えている。未来が見えなくなってしまって,絶望の縁に立たされている,と思っていたが,そうではない曙光がそこに見えてくる,そういう希望と勇気を与えてくれる名著である。内橋克人さんとの対談。
Lesen Sie, Bitte!
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