2010年10月2日土曜日

大相撲って,神事なの?(3)

 昨日のブログでは勢い余ってしまって,相撲神事というジャンルがあることを忘れていました。今日はこのことについて補足しておきたいと思います。
 相撲神事は,いわゆる奉納相撲とは区別されていて,こんにちもなお伝承されているものもそんなに多くはない,とのことです。もっとも有名なのは,瀬戸内海に浮かぶ伊予大三島の大山祇(おおやまづみ)神社で行われている「一人角力」でしょうか。神社の境内で,眼に見えない精霊を相手にとる相撲で,映像でみるかぎりでは,とてもユーモラスな相撲です。厳密に言うと,旧暦の5月5日のお田植祭と9月9日の抜穂祭の折に行われる相撲です。精霊は「田の精霊」です。この田の精霊とがっぷり四つに組んで三番勝負が展開されます。まずは,一勝一敗に持ち込んでおいてから,最後は精霊が勝つことになっています。つまり,精霊に敬意を表して,豊穣を祈願するのがこの神事の中心的なモチーフになっている,という次第です。
 わたしの知っている相撲神事でいえば,奈良県桜井市の「ドロンコ相撲」があります。これは正月の寒いときに(たしか,わたしがみたのは成人の日だったように記憶する)行われています。田んぼを耕して,そこに水を入れ,ドロンコにしたところが土俵。ここで相撲をとります。もちろん,勝敗を競うものではなく,おもしろおかしい(卑猥な)掛け声のなかで展開する相撲です。お互いにドロだらけになればなるほど豊穣に恵まれるという「年占(としうら)」の一つの形態だと考えられています。要するに,予祝の神事というわけです。この祭礼の本体は「お綱祭り」と呼ばれていて,雄綱と雌綱の交合がメインになっています。ですから,「ドロンコ相撲」は,夫婦和合を象徴的に演じていると言っていいでしょう。行司さんの掛け声も,それを取り囲んで見物している氏子さんたちが大声で囃し立てるセリフも,そのものズバリの卑猥をきわめるのはそのためでしょう。つまり,五穀豊穣・子孫繁栄の神事というわけです。
 この他にも相撲神事として行われている相撲はありますが,それらは相撲神事というよりは,どちらかといえば,奉納相撲の性格がつよくなっていきます。たとえば,奈良の春日若宮社の祭礼で行われる「相撲十番」,鎌倉鶴岡八幡宮の相撲奉納,京都周辺では,加茂・松尾・石清水各社の祭礼相撲,摂津住吉社の相撲会,などがあります。これらの奉納相撲については,少し詳しい相撲の歴史書には必ず記述がなされていますので,それらを参考にしてみてください。
 以上のように,相撲神事は,そのほとんどは「年占」という性格をもっていて,「田の精霊」を喜ばせたり,子孫繁栄に力点がおかれたりしています。しかし,「一人角力」をみていても,すぐに連想されるのは猿楽や物まねといった当時の芸能とほとんど区別がつかない,ということです。いまでこそ「一人角力」は地元の高校生たちによって細々と継承されているということですが,おそらくその初期のころには,名人と呼ばれるような「一人角力」の名手が,つぎつぎに現れたに違いないとわたしは想像しています。そして,その名人芸こそが「田の精霊」を喜ばせ,氏子たちの娯楽として楽しまれ,より一層の豊穣の予祝の意味を帯びていたのだとおもいます。物まねが上手だったといわれる世阿弥のような人が,この「一人角力」を演じてみせたら,おそらく,いまでも見物客で満員になるのではないか,とわたしは想像をたくましくしています。
 「神事」としての相撲ということになると,わたしは,こんなことを考えています。ですので,「大相撲が神事だ」と言われると,どうしても違和感を感じないわけにはいきません。このあたりの問題については,もう少し論点を整理し,テーマを絞りこんだ上で,なおかつ深く掘り下げていくというような,つまり,きちんとした論証を展開することが不可欠だとおもっています。そのような作業をできるだけ早い時期にやっておきたいと,わたしはまじめに考えています。
 というあたりで,このテーマはひとまずおしまいにしましょう。

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