2010年10月26日火曜日

innewerden ということについて。その2.「純粋経験」「遊戯三昧」の世界

 マルチン・ブーバーのいう innewerden の概念について,わたしなりの解釈と訳語について考えてみたいと思う。昨日のブログで引いたマルチン・ブーバーのテクストからの長い引用文を手がかりにして。
 まず,最初に結論というべきか,わたしなりの「訳語」を提示しておくことにしよう。
 マルチン・ブーバーのいう「実例」から浮かび上がってくる,わたしなりの訳語は以下のとおりである。「交信する」「交感する」「共振する」「共鳴する」。あるいは,別の視点に立てば,「立ち現れる」「目覚める」「生まれる」「芽生える」。もっと言ってしまえば「萌の襲」(もえのかさね)。
 マルチン・ブーバーが innewerden などという概念を立ち上げて,どうしても言いたかったことはなにか。ここがポイントとなろう。
 昨日のブログにも触れたように,観察も観照も,じつは「自己完結」する近代的自我(あるいは,意識)のもとにある。(わたしの考える「ヴィジョナリー」という概念が,ブーバーのいう「観照」に近いものだとすれば,かならずしも「自己完結」しているとはいえない。なぜなら,わたしの考える「観照」は若干ながら,自己(われ)の<外>に浸透していくことが前提となっているから。)しかし,この両概念につづけてブーバーが提起する innewerden は,明らかに自己(われ)の<外>に自己(われ)を解き放つことによって成立する事態のことだ。つまり,ブーバーのことばに置き換えれば,<われ>と<なんじ>の「間」(あいだ)ということになる。もっと言ってしまえば,<われ>からも一歩,<なんじ>からも一歩,お互いに自己の<外>に一歩ずつ踏み出してできる「共通の場」,すなわち,「間」に身もこころも解き放つことによって,初めて成立する<われ>と<なんじ>の関係性である。そこに生まれるものは,すでに,意識を超越している。
 つまり,それまでの<われ>とは異なる別の<われ>になること。お互いがそうなること。そのときに,お互いの innen (内側に)になにかが werden (成る)する。そこで起こっていることは,これまでの<われ>とはまったく異なる,別次元の<われ>に成り代わっている,ということだ。そして,この「場」こそが「実在」の在り処だというのである。
 この世界は,わたしのイメージでいえば,西田幾多郎のいう「純粋経験」の「場」とほとんど変わらない。だから,innewerden というドイツ語に「悟る」という訳語が充てられてもなんの不思議もないのである。坐禅のさなかにある<われ>は,もはや,日常の<われ>とはまったくの別次元にある。「無」の境地とはそういうことだ。ただ,坐禅の世界はただ一人で「無」の境地をめざす。かぎりなく<われ>を消去することによって,マクロコスモスのとの一体感を深めていく。つまり,ミクロコスモスとマクロコスモスとの一体化である。
 しかし,ブーバーはそうは考えていない。とりあえずは,「二人の男」の「間」で,無言のうちに起こる「対話」についての独自の思考を深めていく。そのときのキーとなる概念が innewerden というわけである。こういうことを勘案して,わたしは,冒頭に列挙したような「訳語」を考えている。
 すなわち,お互いに「交感する」ことによって,まったく新しいなにかが「芽生える」。それがつぎつぎに重なっていく。だから「萌の襲」。
 これまでに経験したことのないなにかが,こころの内に,つぎつぎに「萌えいでてきて」,それはまるでなにものかによって「襲われている」かのようだ。しかし,それは限りなく心地よい。新たな<われ>への止むことのない変身。そこには「自己完結」する余地はまったくない。それどころか,つぎつぎに切り開かれて現前化する新しい「世界」との対応に嬉々として戯れることになるだろう。そこは,禅仏教でいう「遊戯三昧」の世界に近いと言っていいだろう。
 それが,マルチン・ブーバーのいう innewerden という概念ではないか,とわたしは考える。
 ご意見,ご批判をいただければ幸いである。

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