竹内敏晴さんが逝って,もう,一年余がすぎた。早いものである。まだ,ついこの間,握手したばかりなのに・・・という印象の方がつよい。とてもやわらかな手のひらの感触が忘れられない。
その竹内さんの「語り下ろし自伝」が藤原書店から刊行された(2010年9月30日)。へぼ用があって,なかなか読むことができなかったが,今日,一気に読んだ。これまで断片的にしか知られていなかった竹内さんの生涯の前半生が,詳細に語られていて,万感,胸に迫るものがあった。やはり,すごい人生を生きてこられた方だなぁ,としみじみ思う。こういう方と親しくお話をさせていただけたことが,なんだか夢のようである。
わたしとは13歳違いなので,わたしが生まれたとき,竹内さんは13歳だったことになる。そう考えるとなんだかとても近しい人に思えてくるから不思議だ。でも,この13年という年齢差は大きい。だから,同じ時代を生きたにもかかわらず,もちろん,人生の経験知はまるで異なる。とりわけ,第二次世界大戦が終わるまでのことは,わたしにはほとんど記憶がない。それでも,国民学校2年生の夏が玉音放送のあったときなので,戦争前後のことはいくらか記憶がある。しかし,それもほんの断片的なものでしかない。
竹内さんは,この本のなかで,生い立ちから20歳で敗戦を迎えるまでの歳月のことをじつに詳細に語っていらっしゃる。ほぼ,3分の2は,この部分に充てる熱の入れようである。お蔭で,わたしには,昭和史の最初の20年間がどういう時代であったのかがよくわかってきて,とても助かることが多かった。竹内敏晴という特殊個の生い立ちをとおして,生きた,なまの昭和史を垣間見ることができた。幸いにも,竹内さんは昭和元年(1925年)のお生まれなので,昭和の年号がそのまま実年齢と重なっていて,とてもわかりやすい。
たとえば,東京オリンピックが開催された1964年は昭和39年,竹内さんは39歳だったということがすぐにわかる。そうか,わたしが26歳で,まだ職がなくてうろうろしていたころ,竹内さんはもう立派な演出家として名をなして,大活躍をされていたんだなぁ,とわが身に引き写しながら竹内さんのことを考えることができる。とりわけ,戦後のことは,わたしも同じ空気を吸いながら,時代と向き合って生きてきたわけなので,他人事とは思えないことも多い。
しかし,この「語り下ろし自伝」を読んでみて,やはり,この13歳の年齢差の大きさを感じないではいられなかった。それは,やはり,なんといっても20歳で敗戦を経験することの含み持つ意味の重さである。竹内さんご自身もこのことへの強烈なこだわりがあって,このモチーフは何回も繰り返されて回想されている。つまり,一夜にして,皇国臣民として培ってきたものが「無」と化し,まったくあらたな民主主義を標榜する国家の国民となることが義務づけられることになったのだから。もしかりに,それらの大転換を理性の力で乗り越えることができたとしても,「からだ」に刻み込まれた記憶は,そうはかんたんに消し去ることはできない。そういう「からだ」を引きずりながら,その「からだ」の上に新たな約束事を刻み込まなくてはならないのだ。これは容易ではない。
20歳で敗戦を迎えた青年にとっては,それまでの人生をとおして培ってきた生きる指針が「無」と化してしまったのだ。つまり,理性とは別の「からだ」に刻み込まれた記憶までもが否定されてしまったら,人間はどうやって生きていけばよいのか。これが竹内青年の「敗戦」をとおして向き合った「難題」(エポケー)であった。つまり,すべては「0」となってしまったのだ。その「0」(ゼロ)からの出発ということについて,竹内さんは相当のページ数を割き,熱いことばを吐き出している。同じ「0」からの出直しにもいろいろの位相があるということを具体的な例を挙げて,語っていらっしゃる。しかも,そのいずれの生き方にも与することはできなかった,と。
そこで,最終的に竹内さんがつかみとった方法が,みずからの「からだ」が納得する道を探求すること,そこに「信」をおくこと,であったとわたしは読み取った。いくつものメッセージ性の強いことばが随所に散りばめられているので,そのどれを取り上げても「正解」なのだろうとおもう。しかし,わたしの読解はここに行き着いた。
「からだ」は嘘をつかない。「こころ」も「理性」もいざとなれば嘘をつく。しかし,「からだ」だけは嘘がつけない。この真実に,竹内さんは,みずからの耳の病との闘いをとおして気づく。少なくとも30歳代にいたるまで,常時,難聴。その間,まったく聞こえなくなる時期も相当に長い。音が聞こえない,ことばが聞こえない,ということがどういうことを意味していたのか,と後年,考えつづけていらっしゃる。音声が聞こえない不足を,わたしは「眼」で補ってきたのかもしれない,と回顧されている文章がわたしには強烈だった。そして,初心者にもかかわらず,剣道でも,フェンシングでも,相手の「空き」の部分がたまたまみえたので,そこに手を伸ばしただけだ,しかし,手を伸ばしただけのつもりなのに「からだ」全体が動いている,そういう自分の「からだ」はなんなのだろうとみずからに問いかける。「からだ」には,わたしが気づいていない未知なる部分が,あるいは,潜在能力のようなものが,無尽蔵に蓄えられていることに気づく。
竹内さんは,あるとき,「主体的なからだ」を発見した,とおっしゃる。たしか,「身体」論をとことんつきつめていって,メルロ・ポンティの理論に出会ったころと記憶する。この「主体的なからだ」は,世間一般に言われている「主体的なからだ」とはまったく正反対のものだ。竹内さんがおっしゃる「主体的なからだ」は,いわゆる,理性によってコントロールされた「からだ」ではない。「からだ」そのものが「主体的」に判断し,行動を起こす,という意味だ。だから,そのヴェクトルは正反対。理性のコントロールが排除されればされるほど,「からだ」は主体的に反応をはじめる。ここに竹内さんのおっしゃる「出会い」の場があり,「じか」の場がある,とわたしは受け止める。この点については,23日の名古屋例会で,もう少し踏み込んでお話ができれば・・・と考えている。
こういう嘘をつかない/つけない「からだ」と向き合うことによって,竹内さんは,だれにも騙されない,だれにも利用されない,自己の「立ち位置」(スタンス)を確立していく。それが,戦前の自己の「身体」との決別でもあったのだろう,とわたしは推測する。竹内敏晴略年譜によれば,戦後間もない21歳のとき「自死をはかるが発見されて果たさず」とある。わたしの全身に鳥肌が立つ。竹内さんにとって,「0」からの出直しは,それほどの困難をともなっていた,ということを知る。ここを通過することによって,竹内さんは「魯迅」との出会い(竹内好の講演をとおして)があり,理科から文科への転身をなしとげる。東大文学部では東洋史を専攻。竹内さんの「第二の人生」がはじまる。まさに,180度の転換を余儀なくされる「0」からの出発であった。
竹内さんの最後の公演となった三鷹での舞台は,「民主主義」がテーマだった。詳しいことは割愛するが,竹内さんにとっては,「民主主義」とはなにかという問いが最後の最後まで,終わることのない「問い」として残ったのだろう,とわたしは推測する。そして,その苦渋・苦悩が,わたしには痛いほど伝わってきた。インディアンの仮面の話が,この本のなかにも登場するが,わたしは「仮面」とは別の,もう一つのメッセージをあの舞台から受け取っていた。アメリカの民主主義は,先住民であるインディアンの人びとの生活を否定し,しかも,ほぼ全滅させるというとてつもない「犠牲」の上に成り立っている,という事実をわたしに想起させたからだ。
このさきに触れなくてはいけないことは,竹内さんがおっしゃる「真実」と「事実」の二つが分離していった,という「敗戦」の経験だろう。この問題についても,23日に名古屋で,お話をさせていただこうと思っている。
竹内敏晴さんから学ぶことは多い。わたしは,まだ,そのほんの入り口に立ったにすぎない。耳の病と折り合いをつけながら(そんな単純な話ではないのだが),浦和中学から一高・東大へと進学。敗戦のときには一高の寮の委員長として「学生の動揺防止と翌日の行動の組織に当たる」,そういう竹内敏晴さんの若き日の情熱が,わたしには痛いほど伝わってくる。そことの「決別」,それが,竹内さんの「0」からの出直しだった。
「人間!」とひとこと力強い声で発したときの,竹内さんのあの響きわたるパワーはどこからくるのか,これからのわたしの課題である。このことは,まもなく刊行される予定の『環』(藤原書店)にも小文を寄せたので,そちらでも確認してみていただきたい。
では,23日に名古屋でお会いしましょう。
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